... (several lines of customized programming code appear here)

ベイエリアの歴史(35) - SF仏教寺院のハロウィーンと移民の出身県

10月31日、サンフランシスコ仏教会では、福岡県人会の追悼法要が行われ、福岡出身の夫が招かれて行ってきました。 県人会メンバーのうち、今年亡くなられた方を偲ぶ会、ということなのですが、お盆ではなくハロウィーンの日にやる、ということは、カトリックの「死者の日」に合わせているのかなぁ?とぼーっと考えています。ハロウィーンとは「死者の日」で、その日にカトリック教会では、その年になくなった信者さんの「追悼ミサ」をしますので、「そのまんま」であります。

先週のサンノゼ日系ミュージアムでのジミさんのお話では、サンタ・クララ・バレーにやってきた農業移民の出身地として多かったのが、広島・和歌山・島根・熊本・岡山の5県であった、ということを伺いました。それぞれの県出身者は、自然と同じ地域に集まる傾向があり、サンノゼは広島、ロスガトスは和歌山、といったような色分けがありました。上記の福岡県人会のサイトでその歴史を読むと、1900年代に福岡県からサンフランシスコとオークランドに渡った人たちが、現在の福岡県人会の源流となっている、とのことです。

ハワイへの移住者は広島と山口が多かった、との記述もあります。山口県は、ハワイ移民事業を推進した井上馨の出身地というつながりがありますが、ここでも広島が出てくる背景は、今のところよくわかりません。広島県の中でどの地域から海外移民が多かったか、ということを分析した資料などをいくつか読むと、人口に対して耕地面積が少なかった、藍の産地で外国からの安価な製品がはいってきて廃れて失業が多く出た、などを背景として挙げていますが、似たような別の事情が日本の他の地域で数多くあったはずで、これだけでは「なぜ広島ばかりが多いのか」という点について説得力がありません。特定の歴史的背景(かつての天領や譜代大名の地域で、明治政府に疎外されたとか?)の共通点でもあるかな、という仮説も考えましたが、これといったものが見つかりません。今のところ、「全国あちこちにできた移民会社のうち、特に成功した会社があったのがこれらの地域だった」のでは、という仮説を置いておくことにします。

さて、上記のサンフランシスコ仏教会は西本願寺系の浄土真宗のお寺だそうですが、中のつくりは、金色の祭壇の前に木の長椅子式の礼拝台が左右二列に並ぶ、「お寺と教会の和洋折衷」という感じです。

SFtemple

サンフランシスコ仏教会内部の様子

サンフランシスコ日本町の近くには、このほか、法華宗サンフランシスコ仏教会と、曹洞禅宗の桑港寺が集まっています。一方、サンノゼ日本町では、合同メソジスト教会の隣に浄土真宗のSan Jose Buddhist Church Betsuinが仲良く並んで町の中心を形成しており、ちょっと離れたところには、日蓮宗のNichiren Buddhist Templeがあります。他にも、日系人が多く入植したカリフォルニアの町には、仏教寺院が現在でもいくつも残っています。

これらのアメリカにおける仏教寺院は、1900年代前半の日系移民が、厳しい生活の中での心の支えとして求めてできたものですが、初期の日本語しかできない一世の時代と、その後アメリカ生まれの2世以降の時代ではその意義や存在も変わってしまいます。

現在の最大勢力である「米国仏教団」は、上記で述べた本願寺系浄土真宗で、全米に信徒が16,000人ほどいます。一世の時代には、日本から僧侶がやってきて日本語で活動していましたが、その後は英語しかわからない人が増えてしまい、日本のお坊さんで英語のできる人が少ないために、日本との人のつながりがだんだんなくなり、現在では日本から僧侶が来ることはないそうです。今日、サンフランシスコで法要を行ったのも、日系アメリカ人のお坊さんでした。米国の仏教は、第二次世界大戦中の日系人収容によりいったん消滅し、その後復活して現在に至りますが、その歴史の中で、仏教団の「西本願寺系」では、当地では入手困難な畳ではなく木の長椅子を入れたり、日曜日に法話会をしたり、上記のようにハロウィーンに追悼法要をやるなど、地元アメリカの風習に合わせる努力をしています。

しかし、こうした迎合的なやり方を否定する原理主義的な人たちも常にいます。浄土真宗の中では、東本願寺系が「原理主義」なのだそうです。現在のアメリカの信徒数では「西」派が圧倒的に多く、カリフォルニアは「西」派、「東」派はシカゴなどカリフォルニア以外という図になっているのだそうです。

ちなみに、そもそもハロウィーンというのも、カトリックがスコットランド・アイルランドの地元ケルト文化のお祭りを取り入れた迎合的なイベントです。といってもカトリック教会でも、ハロウィーン翌日の「諸聖人の祝日」は正式に祝日になっていますが、ハロウィーンは公式なものではありません。

カトリックは世界各地に広がっていく中で、積極的に現地の文化・習慣を取り入れてきました。日本のカトリック教会でも、七五三には子どもたちのためのミサをやり、千歳飴をくれました。私の地元のその教会は、大きな瓦屋根の木造建築、灯籠と障子風の内装、掛け軸の聖家族絵、日本画家による十字架の道行、など、サンフランシスコ仏教会とは逆方向に「お寺と教会の和洋折衷」をした和風建築でした。日本ではお寺でもクリスマスを祝ったりしますし、宗教的に寛容で、良い国であります。

一方、プロテスタントは宗派にもよりますが、全体的にはピュアに教義を守る傾向があります。ハロウィーンも、「異教のお祭りである」ということで、プロテスタントでは排除する傾向があり(でもそれ言ったら、クリスマスだってそうなんですけど・・)、フランスやイタリアなどのカトリック国も含め、欧州ではケルトの地であるアイルランド・スコットランド以外ではほぼ無視されているようです。

ハロウィーンが現在のような、コスプレバカ騒ぎの日になったのは、アメリカにはいってきてからです。(29)で述べたアイルランドからの大量移民が、19世紀にアメリカに持ち込み、その後徐々にアメリカで(おそらく、お菓子メーカーの謀略で?)広がり、宗教色が抜けたイベントとなりました。

原理主義とローカリゼーションの対立は、いつの時代のどの宗教にもあることですが、こんなちっちゃなアメリカの仏教にもそんな分裂があるというのは少々驚きです。

出典:サンフランシスコ仏教会、サンノゼ日系ミュージアム講演、Wikipedia、米国仏教団サイト

ベイエリアの歴史(34)- 新技術を使ったブルー・オーシャン戦略

同じカリフォルニアで、同じように差別を受けた日系移民と中国系移民が、どう違ったのか、どう同じだったのか、というのは私の大きな興味の対象です。そのいくつかの回答が、昨日のサンノゼ日系人ミュージアムでのお話や展示で、わかってきました。以前に、日系移民が農業アントレプレナーとして成功したのは、武士が指導者として混じっていたからではないか、という仮説を挙げましたが、どうやらこの仮説は間違っていたようです。カリフォルニアへの日系移民が本格化したのは、1890年から1900年頃なので、すでに明治も中期にはいり、武士階級はなくなっていました。こちらで「どういう人達がやってきたか」という点を調べたり話を聞いたりしても、いずれも「農家出身者」であるとしか出てきません。幕末でもすでに、下級武士と富農との境目ははっきりしなくなっていたので、混じってはいたでしょうが、特に「武士が率いてきた」ということではなさそうです。

その時代までの農業とは、「船による長期輸送・長期保存に耐えられる農産物、またはそのように加工した、広い市場で売れるコモディティを、大量生産できるように最適化する」というのが典型的なビジネスモデルでした。穀物がどの土地でも重要なのはこのためであり、商品作物としては、アジアの胡椒、西インド諸島やハワイの砂糖、イギリスの毛織物、米国南部やインドの綿花、日本の絹糸やお茶など、いずれもこのパターンに当てはまります。19世紀中頃にカリフォルニアでフルーツ農業が盛んになったときも、輸送は「船」から「鉄道」に代わりましたが、ドライフルーツにして販売していたので、まだこの伝統的パターンでした。

サンタクララ・バレー地域に入植した日系移民も、最初はフルーツ農家に雇われていましたが、自分たちが食べるものを作るために、半端な土地を与えられていました。ちょうど、イギリス人に虐げられたアイルランド人と同じ状況ですね。アイルランドではそこでジャガイモを作りましたが、日系移民はいろいろな野菜を作りました。半端な土地なので、形もばらばらな傾斜地であったワケですが、そこを日系人は、「棚田/段々畑」をつくる技術を活用して、うまく灌漑(英語ではcontour irrigation)を行ったそうです。不揃いな土地を耕したり、収穫物を出荷しやすく整形したりするための道具も、自分たちで工夫して作り、そのノウハウを日系人コミュニティの中で共有して、それを強みとしていました。ミュージアムでは、そんな道具がいろいろと展示されていて、説明を聞きながら私が「なるほど、オープンソース方式ですね」と言ったら、ソフトウェア会社の方が「今と逆ですね(笑」とすぐにツッコんでくださったのが秀逸でした。

こうして作った野菜を、自家消費だけでなく、外にも販売するようになり、徐々にもっと大きな土地を入手して拡大していきました。その原動力となったのが、当時の新技術「鉄道」でした。その頃には氷を積んだ冷蔵車があったようですし、農村サンノゼから、大都会サンフランシスコへ、短時間で野菜を輸送することができるようになっていたので、保存のきかない生の野菜が、初めて広い消費市場に出せるようになったのです。

サンノゼ日本町は、当初は「すでにあったチャイナタウンの近くに日本人もはいってきた」ことから始まったのですが、たまたま鉄道の駅に近く、その後別の日系入植地でも、鉄道駅近くに集中して住むようになりました。このロジスティクス革命が、ちょうどその時期にはいってきた日系人のもつエキスパティーズと合致したわけです。当時はそういうわけで、白人のプランテーションではフルーツを作っていたので、日系人が野菜を作っても競合せず、いわば「ブルー・オーシャン」戦略であったわけです。(もちろん、当時の人たちがそのように考えてやっていたわけではなく、振り返ってみるとそういうことだったんだ、というだけの話です。もともとブルー・オーシャンとはそういうモノ、だそうですが。)

日系農家の手によって、最新の「鉄道」という技術を使った、「近郊農業」という新しいビジネスモデルが出現したのです。

そうは言っても、差別による問題もその周辺にはいろいろあり、そのあたりは次回以降に書いていきます。

日系農家には、農業技術を工夫し、道具を作り、共有するという「農業経営」の技術とノウハウがあったことになります。このことは、農村出身者であっても、ある程度の教育を受けることができた、という当時の日本の状況を反映しており、まだ教育を受けられなかった中国の農民との一つの違いであったのではないかと思います。武士が直接来たわけではないですが、失業した下級武士の多くが学校の先生になったので、私の仮説も少しは合ってる、といえるかもしれません。(負け惜しみ、すいません・・)

もう一つの違いは、「お嫁さんが来た」ということです。日系農家でも、最初は中国系同様に、若い男性ばかりが来ており、白人の女性との結婚はできませんでしたが、日本からお嫁さんを連れてくる斡旋業ができ、「写真花嫁」が日本からやってくるようになりました。そのきっかけは、1907年にできた「日米紳士協定」です。当時、日本は日清・日露戦争に勝ち、先進国リーグの一角を占めるようになって、アメリカから警戒の目で見られるようになっていました。その警戒を解くべく、日本は「アメリカに新規の移民は送らない」という約束をします。ただ、このとき「女性だけは送ってもいい」という例外が設けられたので、それまで年季奉公人を送り込んでいた移民業者たちは、写真花嫁にピボットしました。写真だけのお見合いをし、実際に会ってみたら全然違っていた、という悲劇も多数ありましたが、それでも「結婚式当日に初めて会う」ということが珍しくなかった時代ですから、そのまま淡々とアメリカでの生活に落ち着いていった女性のほうが多かったようです。こうして日系移民は、アメリカで家族をもち、定着することができたワケですが、これも当時の中国と日本の本国の政治状況の違いを反映しています。

当時日系人がやっていた近郊農業での厳しい労働は、現在メキシコ系の移民が担うようになっています。ドナルド・トランプがメキシコ移民を排斥する発言をし、それを多くの人が喝采するという構図が、どうしても私には不愉快でなりません。現在の日系人コミュニティにおいて、「すでに日系人差別はないので、コミュニティとして政治的な争点はなくなったのでは?」と質問したところ、「いや、全然そんなことはない。その証拠に、今だってトランプが支持されているではないか」と若手リーダーの一人が答えてくださったのが、印象に残っています。

nKcwxmb

(メキシコではJesus=ヘスースという名前が多い。de nadaは「どういたしまして」のスペイン語。)

出典: San Jose Japanese American Museum展示・説明、Mr. Jimi Yamaichi講演より

ベイエリアの歴史(33)- サンノゼ日本町のジミさん

ハワイに次ぐ、日系アメリカ人の政治的活躍の本拠地といえば、わがベイエリアにあるサンノゼです。サンフランシスコじゃないの?と思われるかもしれませんが、違うんです、サンノゼなのです。

成田から毎日定期便が行き来するサンノゼ空港は、正式名を「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港」といいます。ミネタ氏は、ハワイを除く米国本土初の日系市長(サンノゼ市)、その後初の日系連邦議員、クリントン政権の商務長官でアジア系初の閣僚、ブッシュ政権時には運輸長官となりました。2001年同時多発テロの際には、全米の飛行機をすべて飛行停止するという大仕事を成し遂げました。同年の秋、その功績を讃えてサンノゼ空港がミネタ空港と名付けられたのです。

そのサンノゼには、現在米国に3つしか残っていない「日本町」の一つがあります。サンフランシスコより知名度はだいぶ劣りますが、すっかり「観光地」となったサンフランシスコと比べ、サンノゼは現在でも日系アメリカ人のコミュニティ・センターとしての役割を大きく担っています。その中に、「日系アメリカ人ミュージアム」があり、今日は有志のグループで、このミュージアムのツアーと、サンノゼ日系人のコミュニティ・リーダーの方々とのランチ会が実施され、参加してきました。

ミュージアム・ツアーの最初には、収容所の経験者でもある日系2世のジミ・ヤマイチさんから、自ら体験した歴史をお話していただきました。この後、何回かにわたって(私の気が済むまで^^;)、ジミさんのお話とその他資料を合わせて、ベイエリアの日系人の歴史について書いていく予定です。

2015-10-24 Jimi

Mr. Jimi Yamaichi

日本からハワイへの移民開始から5年後、1890年に、カリフォルニアへの集団移民が開始されました。ハワイのような官約移民ではなく、当初から民間による自由移民で、民間の移民会社が仲介をしていました。

その前後の事情をもう少し詳しく見てみましょう。アメリカでは1869年に大陸横断鉄道が完成、その後も西部での鉄道建設はしばらく続きます。しかし、1882年に「中国人排斥法」が成立して、鉄道建設を主に担ってきた中国移民が入ってこなくなりました。一方、日本では1877年西南戦争の少し後の時代に当たり、農村の余剰人口が都市の製造業へと吸収されていくフェーズにはいる前の端境期でした。幕藩体制下の封建的な農村支配から近代的な農業経営に移る過渡期で、1884年頃は不況となり、貧しい地域では農家の次男以降の「口減らし」という「プッシュ要因」がありました。当時の日本の主要産品であった絹糸の輸出が急激に増えるのは、1894年からの日清戦争が終わった後になります。

中国移民は定着することができず、アメリカの中国系コミュニティは縮小を余儀なくされていたので、その代わりに、元祖ブラック企業ユニオン・パシフィック鉄道が、1891年に日系人の採用を始めます。

しかし、それよりも大きな「プル」要因だったのは、鉄道による輸送力増大により、カリフォルニアの農産物の市場が拡大して、「農業バブル」が起こったことです。サンタクララ・バレーと呼ばれるこの地域では、特にフルーツ農場が急速に発展します。

そこで、フルーツ農業労働者として、日本人を例によって「年季奉公契約」で連れてきたというわけです。さらに1898年にハワイがアメリカに併合されて、ハワイからパスポートなしで本土に入ってこられるようになりました。当時の本土の農業労働者の給料はハワイの10倍だったそうで、このためにハワイから大挙して日系人がやってきました。日本では、日清戦争と日露戦争が相次いで起こった時期にもあたり、徴兵を逃れるためにアメリカに渡ってきた人も多かったとのことです。

こうして1890年代に、徐々にカリフォルニアの日系移民コミュニティが成立していきます。

出典: Wikipedia, San Jose Japan Town - A Journey, Lecture by Mr. Jimi Yamaichi, 日本史総合図録(山川出版社)

ベイエリアの歴史(32)- ハワイ日本移民のアイリッシュ戦略

同じ日系移民でも、ハワイとカリフォルニアではいろいろと事情が異なります。前回見たように、ハワイでは日系移民の開始が、ハワイ王党派の政治的事情にかなり影響されており、その後の事情もあって、もともと少なかったハワイの人口に比べて日系人の人口比率が大きい、という点が種々の違いの根源になっています。

明治政府とハワイ王国との取り決めで実施された移民プログラムは「官約移民」と呼ばれました。ところが、これをハワイ側として取り仕切っていたのはアメリカ人のロバート・W・アーウィンという人物でした。何らかの理由で空席になった在日ハワイ王国領事になぜかアメリカ人なのに就任してしまい、井上馨など政府大物と仲良くし、三井物産会社を使って集めた移民をハワイに送り込み、その手数料を日本とハワイ両方から受け取って大儲けしておりました。要するに、超ありがちな利権商売・人身売買商売です。

中国系のケースと同じように、日本国内では「ハワイに行ったら大儲けできる」という甘言で人を集めましたが、実際にはお決まりの「年季奉公契約=事実上の奴隷」でした。当時のハワイの法律(=アメリカ人プランテーション主に有利)では、年季契約を途中で解約することができず、過酷な労働をわずかな給料で強いられました。

1894年には、アーウィンは手を引き(ハワイ王国滅亡時でもあり、アーウィンと政府または三井との契約交渉決裂との話もあり)、民間が行う「私約移民」に移行して、移民から本国への送金サービスも含めた移民サービスの民間会社がいくつも設立されて繁栄しました。

その後ハワイはアメリカに併合されてアメリカの法律が及ぶようになり、1908年には一部を除き、新たな日本からの移民はストップします。このあたりの経緯はのちほどカリフォルニアの話と一緒に書く予定です。

官民あわせ、1908年までで合計22万人が日本からハワイに移民しました。例えばアイルランドの700万人と比べれば、ぜんぜん少ない人数ではあります。しかし、もともとハワイは全体の人口が少なく、また中国からの移民は定着率が悪いなどの理由で制限された一方、日本人は定着して家族を増やしていき、移民グループの中で最大となって、最盛期の1920年には全人口のなんと43%、現在でも17%が日系人となっています。

1902年時点で、サトウキビ農場労働者の70%が日系人でした。マイノリティといえど、これだけ地域的に数が集中すれば、当時力を持ちつつあった思想、「社会主義/労働争議/階級闘争」戦略を採用することができます。農場での給料を上げるため、日系移民たちは頻繁にストライキを起こし、1920年には他国からの移民も巻き込んだ大規模なストライキに発展。給与は上がりましたが、日系人の多くが農場を去ることになり、また日系人への反感を高める結果ともなりました。

それでも、民主主義国ではやはり数が勝負。1959年にハワイが州に昇格した際、最初のハワイ選出下院議員としてダニエル・イノウエが当選して、アメリカ初のアジア系(もちろん日系としても初)国会議員となりました。その後も、1965年にパッツィー・ミンクが初の非白人女性議員、1974年ジョージ・アリヨシが初の日系州知事となるなど、ハワイは民主党日系議員の政治的活躍の本拠地となります。文化的にも、アイリッシュ=カトリックほど統一性はなかったものの、仏教をハワイに持ち込んで日本の行事や食べ物も伝えており、「日本人」のアイデンティティを軸として数を集め、労働運動を行い、政治的にも発言力を高めるという「アイリッシュ戦略」を採用してのし上がってきた、ということができます。

それにしても、19世紀後半のハワイ王国の運命を振り返ると、おそらく世界の人類の歴史上最大の激動期であったこの頃、日本で幕末に攘夷運動が盛んであったというのが無理からぬこと、と思えてきます。幕末を舞台にした時代劇を見ていると、現代から振り返って、単に「古い鎖国という枠組みを墨守しようとする頭の固い人たち」のように思えていましたが、もしもハワイのようにアメリカ人がどんどん入植して、軍隊を派遣して住民を奴隷化し、どんどん土地を取り上げてお得意の土地投機をやっていたら・・と考えると、攘夷派の立場も理解できます。そして、攘夷派との内部対立の中で開国派が理論武装し、開国後に問答無用で「富国強兵」をバリバリやったことで、日本は今のように生き残ってきたのだなー、と思います。

もちろん、現代のハワイは、アメリカの一つの州としての恩恵もたくさん受けており、何が良かったか悪かったかは一概には言えませんが。

220px-Japanese_sugarcane_workers_1

日系移民のサトウキビ労働者像(移民100周年時にマウイ島に建てられたもの)

出典: Wikipedia

ベイエリアの歴史(31) - 悲劇のハワイ王家と明治天皇

(9)で書いたように、1869年にカリフォルニアにやって来て「ワカマツ・ファーム」を拓いた旧会津藩士グループがいましたが、その前年ハワイにも、同様にオランダ系アメリカ人商人が率いた約150人の日本移民(「元年者」と呼ばれた)が到着しました。どちらのグループも、明治政府に認められていない立場でした。そしてその頃のハワイは独立国で、まだアメリカの一部ではありませんでした。

年季奉公契約だった元年者は一部が数年で帰国、数十人がそのままハワイに定住しましたが、その後明治政府はしばらくの間、日本からハワイへの移民を停止していました。当時の明治政府は、不平等条約改正が至上命令であり、そのために日本国の「国家ブランド」づくりに躍起でした。一方で、前回(30)に書いたような中国系アメリカ移民の惨状は情報としてはいっており、「日本国民をそんな目に合わせたくない」というか、「ハワイで日本人がこんなみっともない状態になったら、国家としての威信に関わる」というか、そんなことだったのではないかと思います。

当時は、1795年にハワイ王国を建国したカメハメハ一世(大王)の直系が途絶え、傍系のカラカウア王の治世でした。ハワイの王様は短命の人が多く、100年の歴史の間に王様が8代います。当時のハワイにはアメリカから伝統芸「土地投機」の人たちがどんどんやってきていました。土地所有という概念のなかったハワイ人を押しのけ、彼らのタロイモ畑をサトウキビのプランテーションに変えて、砂糖をアメリカに売って儲けておりました。アメリカからの入植者たちは、ハワイ人を蔑み、宗教や文化の面でもアメリカ流をがんがん推進しており、歴代の王様でも、そうしたアメリカ人を受け入れようとする人と排除しようとする人が両方あって、政策は揺れ動いていました。また日本の幕末と同じように、欧米人同士が競争で勢力拡張を図っていたので、アメリカ人入植者はなんとかハワイをアメリカに併合しようと画策します。

そんな中、比較的治世の長かったカラカウア王は、なんとかハワイの独立を守ろうと考え、アメリカのグラント大統領と会って貿易交渉を行ったり、少し前に禁止されていたフラを復活させたりしていました。とはいっても、当時のハワイの国力でアメリカと戦って勝てるはずもないため、外交的な打開策を見出すべく、アジアからインドを経てヨーロッパ各国を周り、アメリカ経由で戻るという世界一周の旅に出ます。太平洋地域の国を糾合してアメリカに対抗する、という構想をもっていた彼は、とりわけ日本に期待をもっていたようです。日本はハワイと同じように島国で、王政であり、欧米列強からのプレッシャーを受けながらも改革を実行し、独立を維持していました。

1881年に日本にやってきたカラカウア王は、日本から見ると、史上初の外国の元首の来訪でした。ドナルド・キーン著「明治天皇」では、天皇がそのとき、外交や政治の文脈を超えて、王の訪日を喜び、心から歓待していた様子が伺えます。ヨーロッパの王家どうしのコミュニティには相手にされず、国内では立場上誰に対してもなかなか打ち解けることができなかった明治天皇にとって、カラカウア王はまさに、心強い同じ立場の仲間と思えたのでしょう。

王は、上記のような「連合構想」とともに、王の姪であるカイウラニ王女(当時5歳)と、日本の皇族、東伏見宮依仁親王(当時13歳)との縁談を明治天皇に持ちかけましたが、明治政府はどちらも断ってしまいます。ただ、その際に、日本からの移民をハワイで受け入れるという点については合意され、1885年からハワイへのオフィシャルな移民が始まります。

しかし、カラカウア王とハワイ王国はその後、悲しい運命をたどります。アメリカ人入植者からのプレッシャーで、不本意な内容の憲法を受け入れさせられ、その憲法では参政権が一定以上の資産・収入のあるアメリカ人に有利であり、ハワイ人やアジア系移民は事実上排除されてしまいます。王党派とアメリカ人の板挟みの中で、かつては「メリー・モナーク(陽気な王様)」とあだ名された王はアルコール依存症となり、1891年に療養先のサンフランシスコで崩御。後を継いだのは、彼の妹リリウオカラニ女王でしたが、1893年にアメリカ人主導のクーデターが起き、女王はカラカウア王が建てたイオラニ宮殿に幽閉され、王国は滅亡します。このとき、日本は邦人保護の名目で東郷平八郎率いる海軍をハワイに派遣して、王家に味方する姿勢を見せています。

アメリカ人たちはハワイ共和国を宣言しますが、その後王党派の反乱などを経て、1898年にはアメリカに併合され準州となりました。1898年といえば、米西戦争でアメリカが落日のスペインの棺の蓋に釘を打った年で、アジアでスペインの植民地だったフィリピンをアメリカが獲得したため、太平洋の補給基地としてのハワイの重要性が高まっていたという背景もあります。

日本の皇族初の国際結婚が幻となったカイウラニ王女は、リリウオカラニ女王の王位後継者と指名されていました。ハワイ王家の女性を母に、スコットランド人を父にもつ王女は、知性が高く美貌で、国民の人気も高かったと言われます。王国滅亡のとき、アメリカ海軍の封鎖によりハワイからは誰も出られなかったため、まだ17歳だった王女が留学先のイギリスからたった一人でアメリカに渡り、クーデターの不当を当時のクリーブランド大統領に訴え、調査実行の約束を取り付けます。「島の野蛮人」だと思っていたハワイの王女が、実はとても優れた美しい女性だったことに当時のアメリカのメディアは驚いたようで、写真がたくさん残っています。

しかし、その甲斐なくハワイはアメリカに併合され、1897年にハワイに戻ったあと、1899年にカイウラニ王女は23歳の若さで病気で亡くなりました。最後の女王リリウオカラニはその後1917年まで、ハワイ人の尊敬を受けて生き延びました。リリウオカラニ女王は「アロハ・オエ」の作者として知られており、また、カイウラニ王女は2009年「プリンセス・カイウラニ」という映画になっています。

日本とハワイの間の合意で実施されていた官製移民は、ハワイ王国が滅亡した1893年で終わり、その後は民間人仲介として移民が続きましたが、これもアメリカ併合後の1900年に中止となりました。

Kaiulani_in_1897_(PPWD-15-3.016)

カイウラニ王女

出典: Wikipedia、ドナルド・キーン「明治天皇」The Princess Kaiulani Project

ベイエリアの歴史(30)- ヘルシーだったゆえに苦労した中国系移民

アイリッシュの他にも、イタリア、ギリシア、ポーランド、ユダヤなどいろいろな人々がヨーロッパからやって来ましたし、アフリカから連れてこられた奴隷もたくさんいましたが、東のほうの話にちょっと飽きてきたので、話をカリフォルニアに戻すことにします。

中国からの移民が本格的にカリフォルニアに流入しだしたのは、1850年ころのことでした。ゴールドラッシュの鉱夫として人が必要だった一方、中国では清朝末期の太平天国の乱で国土の荒廃と農民の困窮が加速していました。「金の山」の魅力につられてやってきた人たちは、目論見外れてひどい労働環境で働かされたわけですが、それでも本国の惨状よりはマシ、というお約束の移民ストーリーです。広東地方では、村を挙げて若い男子を出稼ぎに送り出し、地元に送金させました。1850年代に中国人のアメリカ移民は4万人台程度にまで達します。

ここまで見てきたヨーロッパ系移民と異なり、中国移民は最初からアメリカで法的に厳しい差別をされていました。中国人は移民一世がアメリカ市民権をとることはできず、ヨーロッパ系米国人と結婚することも土地の所有も許されず、また「非アメリカ市民の鉱夫」(=中国移民)は特別な人頭税も課されていました。当時、中国はまだ清朝の皇帝が支配する体制で、漢民族は満州風の辮髪を強制されており、契約年季があければ本国に帰るつもりの「出稼ぎ」であったために、辮髪を切ることに躊躇した人が多く、そのために見かけも一般アメリカ人から見ると「異様」でした。英語も話せず、知能の低い二級民族であるとの烙印を勝手に押されていました。1862年にカリフォルニア州知事となった鉄道王レランド・スタンフォードは、「アジアのクズどもからカリフォルニアを守らなければならない」などと演説したりしています。

しかし、大陸横断鉄道の建設が(8)で述べたような「ゲーミフィケーション」のフェーズにはいり、建設のための人手が足りなくなってきました。当時は東からはいってきたアイルランド系の移民が鉄道建設労働者に多かったのですが、それでも足りないので、現場監督が試しに中国人を雇ってみたところ、これが大成功。アイリッシュよりもはるかに効率がよい、ということに気がついてしまいました。

中国人たちは、村から送り出された若い男子ばかり。彼らは料理人を雇い、サクラメントやサンフランシスコから乾燥食品を持込み、豚や鶏を飼い、野菜や魚まで入手して、バラエティのある食生活をしていたそうです。また、お湯を沸かしてお茶を淹れるという習慣がありました。これに対し、アイリッシュたちは、ポテトとビーフしか食べず、生水と酒ばかり飲んでおり、病気やトラブルが多発していました。このため、崖から吊るされて岩を掘るといった厳しい現場の環境でも、中国人は赤痢にもかからず健康で、体格は貧弱で給料はアイリッシュより安いのに、黙々とチームワークを発揮して働く、優秀な労働者でした。

もちろん、鉄道会社にとってはこんなありがたい社畜はいません。おかげで、セントラル・パシリック鉄道の労働者の9割が中国人となり、会社は大儲けです。1868年には、アヘン戦争後の天津条約の改訂版であるバーリンゲーム条約が締結され、清から米国への移民が正式に法的に認められて、アメリカからは中国にエージェントがでかけ、中国人をリクルートして回りました。渡航のお金がない中国人は、渡航後の給料から渡航費を払うという契約で、どんどん連れてこられました。このため、1870年代には12万人以上という、移民のピークを迎えます。(そういえば、「Once upon a Time in China」というこの時代を描いた映画で、中国人を騙してアメリカに奴隷として売り飛ばすアメリカ人をジェット・リーがやっつける話がありました。)

しかし、市民権を取れないなどの法的な制約が緩和されず、なまじ優秀なためにかえって、職を奪われる白人からは攻撃され、仕方なく中国人たちは自分たちだけのコミュニティに固まって閉鎖的な生活を強いられ、ますます孤立と差別が激化していきます。米国に帰化できず、いつ国外追放されるかわからない不安定な身分が続きます。中国本国での伝統的価値観から女性は家に縛られて動けず、男性だけが渡航したのに、白人とは結婚できないため、中国人売春婦の人身売買という問題も発生します。(1890年時点でも、中国移民に占める女性の割合は5%以下でした。)中国人に対する暴力事件や差別待遇がますます激化し、1882年には「中国人排斥法」が成立し、中国からの移民の受け入れを事実上停止。その後も違法移民や例外的にはいってくる移民は続きましたが、数は10年で1-2万人のレベルまで激減しました。

アメリカに残った中国系の人たちは、鉄道完成後の農業ブームのときには農業労働者となり、また南北戦争後に奴隷解放で人手不足になった南部にも労働者としてはいっていったりしました。中国人排斥法は、第2次世界大戦でアメリカと中国が「同盟国」となった1943年に廃止されましたが、結婚などの差別は1960年代まで続きました。現在、中国系はアジア系アメリカ人の半分以上を占めますが、それでもアジア系全体でも米国人全体の5.6%にすぎません。最初からアメリカ市民権から締め出された中国系は、アイリッシュのような政治的な手段での地位向上をはかることが、第二次大戦後までできませんでした。そしてこの流れは、その後日系移民にも続いていきます。

安い給料で働く優秀な労働者という意味では、中国でiPhoneを作っている現代の人たちもアメリカ人から職を奪うとして同様に糾弾されています。アメリカ国内での中国系の地位はすっかり回復しましたが、似たような構造は現代でも残っているのですね。

出典:Wikipedia, KQED

800px-The_only_one_barred_out_cph.3b48680中国人排斥法を描いた風刺画

 

ベイエリアの歴史(29)- アイルランド移民の地位向上戦略

そもそも私が移民の話を始めた動機は、「日系移民」を理解するため、他の移民のパターンを見てみようということでした。その意味からすると、前回から引き続くアイルランド移民の物語には、注目すべき重要な点があります。アメリカの歴史上初めて、「移民排斥運動が起こった」そして「それを克服した」という点です。

19世紀前半にも、それまでと較べて大幅に欧州からの移民が増えていました。ナポレオン戦争後の欧州の人手過剰状態という「プッシュ要因」と、アメリカ側で1825年のエリー運河開通により中西部への交通が開けて農業開拓に伴う労働需要があったという「プル要因」の両方があったためで、(27)で述べたドイツ移民と同様に、北欧や中欧から、プロテスタント=中間層の移民がたくさんやってきました。アイルランドでも、北部はプロテスタントが多く、彼らはこの流れに乗ってすでにアメリカに来ていました。

これらの人たちが比較的問題なく、既存のアメリカ社会に受け入れられたのに対し、その後やってきたアイルランドのカトリック=貧民層は、突然大量にやってきて、価値観やライフスタイルも異なっており、不信感を持たれました。既存のアメリカ人労働者たちが、安い賃金で働く移民に職を奪われたり、賃金水準を押し下げたりすることに反発したのも、その後多くの「移民排斥」と共通しています。

もともと農民であったアイルランド人移民が、なぜ中西部の農場での「年季奉公人=奴隷的労働者」ではなく、都市に多く滞留するようになったのかは、私がこれまで読んだものではあまりはっきりしません。アイルランドからは家族全員の移住ではなく、家族の中で若い者が一人だけ家を出て、「棺桶船」とあだ名された劣悪な環境の船にぎっしり詰め込まれて海を渡りました。自力で農地開拓する資本もバックアップするコミュニティも、教育も職業スキルもないので、仕方なく「最低層の労働者」として都市で働くことになりました。農村よりは都市のほうが、まだ差別の中でもましな生活ができたから、ということかもしれません。ニューヨーク、ボストン、シカゴなどの大都市では、こうしたアイルランド人のコミュニティが形成されていき、貧困の中で犯罪者も多く出ました。

アイルランド移民は、他の移民コミュニティと較べていくつか特徴がありました。一つは「女性が多く、約半分を占めていた」ことです。女性が結婚するのに多額の持参金が必要だったために、飢饉の貧困の中で結婚が難しかったことなどがその背景として挙げられています。彼女らは家内女中として働き、第二世代以降は教師などの職を得て自立していきます。このため、アイルランド系コミュニティでは、女性の地位が比較的高かったとされます。一方、男性は「スト破りの代替労働者」となったり、消防や警察などの危険な公的職業に就いたり、少し後には鉄道建設労働者ともなりました。もう一つは、「帰国率がきわめて低かった」ことです。イタリア、ギリシア、ハンガリーなどからの移民は、半数近くがその後本国に帰っていたのに対し、アイルランドでは10%以下でした。アメリカの貧民窟でもまだ本国よりマシという状態だったからで、文字通りの「背水の陣」だったわけです。

そんな中で、移民排斥と戦うために、アイルランド人たちは、カトリックをアイデンティティのシンボルとしてコミュニティの結束をつくりあげ、そのコミュニティの数を束ねて政治に参加し、異議を申し立てることで道を開くことに成功しました。一貫して「民主党」を支持し、民主党から議会にアイルランド系の代表を送り込み、「バチカンへの精神的な帰依」と、「アメリカ国家への政治的な忠誠」とは矛盾するものではない、ということを、長い間にわたってコツコツと積み上げて実証してきました。

差別といっても、もともと白人でキリスト教でもあるアイルランド人は、こうしたきわめて尋常な政治的手段で、アメリカ社会に同化することに成功したわけです。差別されていたからこそ、コミュニティとしてのアイデンティティを保って数をまとめるという意図があるためか、それ以前にもっと順調に同化したドイツや北欧などと比べ、バグパイプやアイリッシュ・ダンスなどの「文化」の保持もより意識的に行われ、今でも白人エスニックの中では目立つ存在です。アイリッシュといえば「子沢山」というのも定番のジョークネタですが、それももしかしたら、人口=票を増やそうとワザとやったのかもしれません。

飢饉以降、アイルランドからアメリカに移民した人は700万人とされ、現在アメリカには「アイルランド系」と自称する人が3500万人います。アイルランド本国の人口の7倍以上にあたるわけですね。私自身カトリック教徒でもありますが、普通の生活の中で「カトリックが差別されている」と感じたことは全くありません。

それでも、1960年代に登場したJFケネディ大統領の時代までは、まだまだアイルランド人やカトリックへの差別がそこここに残っていた、という記述には少々驚きます。そして、2015年の現在に至るまで、このボストン出身の民主党政治家が、実は歴史上唯一のカトリック信徒の米国大統領です。

そういえば、先週のフランシス教皇来米時に、NBCニュースで、JFケネディの姪にあたるマリア・シュライバー(元シュワちゃんの妻)がコメンテーターをやっていたのですが、そうやって考えるとなかなか奥が深いものがあります。

John_F._Kennedy,_White_House_color_photo_portraitJohn F. Kennedy from National Archives and Records Administration

出典: 『辺境のマイノリティとしてのアイルランド人』在日米国大使館U.S. Census Bureau

ベイエリアの歴史(28)- やっぱり人災だったアイルランドのジャガイモ飢饉

アメリカではちょうど先週、ローマ教皇フランシスが来米して大騒ぎでしたが、カトリックはアメリカでは歴史的にも現在でも、マイノリティの立場です。ここまで見てきたように、プロテスタント=中間層が新天地での事業に成功して定着してきたわけですが、そこに最初にまとまったグループとしてやってきたカトリックの人たちがアイルランド人でした。

私の「宗教=階級闘争」の図式でいうと、カトリックは「領主+農民」のパターンですが、イギリスの場合はカトリックが国教会になってしまったので、イギリスに征服された植民地であったアイルランドでは、「領主は国教会+農民はカトリック」という色分けになりました。その昔のイギリス国教会は、プロテスタントのピューリタンやクエーカーを追い出し、返す刀でアイルランドのカトリックもいじめぬくというジャイアンでしたが、例によって宗教は「特定のグループの人たちを色付けするための記号」に過ぎません。

そのグループの人たちがアメリカに大量に流入したきっかけは、19世紀半ばの「ジャガイモ飢饉」でしたが、天候不良や作物の病気による飢饉は歴史上何度もあったはずなのに、なぜそのジャガイモ飢饉がそれほどの大事件であり、それほどの移民を短期間の間に発生させたのか?というのが私の本日の課題です。

アイルランドは、この時期はイギリス連合王国に併合されていましたが、異なる言語を話す貧しい辺境でもあり、過去に何度も反乱や戦争があったために「アブナイ場所」とされ、領主は「不在地主」となっていました。工業も鉱物資源もないアイルランドは、イギリス人の食料を供給する農業植民地となり、よい農地はイギリス輸出用のビーフやバターを生産するための牧草地や穀物畑として使われ、農民自身には痩せた土地しか残されませんでした。不在地主の徴税代理人は、まるで時代劇に出てくる「悪代官」そのもので、当時の税制の中で税金をよりたくさん取れるように、農民の借りる土地をどんどん細かく細分化し、搾取しまくりました。農民が土地に投資して改善を行ったとしても、その資産は領主に属することになっていたため、農民はプロセス改良投資を行う意欲がなく、不在地主も事情を知らずほったらかしで、生産性が低いままでした。農民は作物をイギリスに輸出し、それで稼いだものの大半を地代としてイギリスにいる領主に支払うという「二重搾取」の図式になっており、1829年に「カトリック差別法」が撤廃されるまで、土地の所有も投票もできませんでした。ほとんど「農奴」のようなものです。

大航海時代に欧州にはいってきたじゃがいもは、痩せた土地でも育つため、こうした事情をかかえるアイルランドの農民にとって重要な食料となりました。土地が細分化しているので、多種の作物を作るというわけにいかず、ひたすらじゃがいもを作るしかなく、しかも育てられていたのは同じ品種のじゃがいもばかり。じゃがいもは、穀物と較べて長期保存がきかないという弱点がありましたが、他に有効な代替作物もありませんでした。そこへ、じゃがいも疫病が大発生しました。

それまでも、じゃがいもの不作という事態はときどき起こっていて、農民にとっては「なんとか共生していくしかない」ものだったのですが、このときは別のいくつかの要因が重なりました。

まず、この直前までに、アイルランドの人口が急激に増加していたこと。飢饉直前の1841年には800万人を超え、過去50年に倍増の勢いでした。(マルサスの人口論そのものですね・・)次に、19世紀半ばといえば(8)で述べたような「泥棒男爵」の時代で、暴力的な投資家が跋扈し、政治的には「レッセ・フェール」の考え方が強い時代であったこと。このため、当時の資本主義総本山であるイギリス政府が「アイルランド貧民救済」という政策をとることに躊躇しました。さらに、領主による「強制退去」が加わってしまったことが第三の要因で、これらが重なって移民の大流出となりました。

飢饉の原因はじゃがいも疫病であり、全体的な天候不順ではなかったため、じゃがいも以外の作物は普通にとれており、実は飢饉の1845-52年の期間中に、イギリスへの畜産物や穀物の輸出はむしろ「増えていた」のだそうです。本来ならば疫病の発生がわかった時点で、イギリスへの食料輸出を止めて、これらの食料を地元消費にまわせば飢饉を回避できたはずなのに、イギリス政府はその手段をとらず、領主階級である政治家は「貧民たちに天罰が下った」という主旨の発言などしておりました。

そして、当時の税制では、年間4ポンド以下の地代しか払わない貧しいテナント一人につき、領主が付加税を負担しなければならなかったため、細分化した貧農をたくさんかかえる領主はたくさん税金を払うという仕組みになっていました。貧農との「共同体意識」を全く持たない不在領主は、飢饉で没落した貧農を土地から追い出し、自分の税負担を減らそうとします。このため、1847年に大掛かりな「強制退去」が発生しました。

こうした要因が重なり、直接の餓死と栄養不良による病死を合わせて100万人以上(推計によってはそれ以上)、そして移民として流出したのが100万人以上、合計して全人口の20-25%がアイルランドから消えました。日本の県でいえば、福島県や群馬県がだいたい人口200万ですから、中ぐらいの県が一つ、数年で消えてしまったようなものです。アイルランドはその後も1960年ぐらいまで長期的な人口減が続き、現在でも450万人にとどまっており、飢饉前の人口を回復していません。飢饉前は、ケルト語系の独自の言語をもっていましたが、人口減以降は英語が支配的になって現在に至っています。

こうした経緯をみると、税制や不作為を原因とした「人災」という側面が強く、またそれはかなり「植民地に対する差別意識と搾取構造」に根ざしています。穿った見方をすれば、イギリスの政治家が「アイルランドにこれ以上反乱を起こさせないために、わざとほっておく」と考えたのかも、と見ることもでき、ジャガイモ飢饉は「不作為によるジェノサイドだった」と唱える学者もあるそうです。

Emigrants_Leave_Ireland_by_Henry_Doyle_1868

去っていく移民を見送るアイルランド人家族

出典: Wikipedia

ベイエリアの歴史(27) - アメリカの建前とドイツからの難民

ピューリタン達がニューイングランドに来てさらに半世紀ほど後、もう一人の重要人物がアメリカ大陸にやってきます。 当時のイギリス国王チャールズ2世は、裕福な軍人で英国教会教徒のウィリアム・ペンに借金しており、そのカネを返すかわりに、オランダからぶんどったばかりのニュージャージの南部・西部(=辺境)を「大勉強!あげちゃう!」と与えました。親父ペンには、当時の新思想に染まった理想主義の同名の息子がおり、「ぼ、ぼ、ぼくは、父さんのような腐った大人になりたくないんダ!」とプロテスタントのクエーカー派に改宗しました。息子ペンは、イギリスでますますプロテスタントへの迫害が厳しくなって、新大陸で理想郷を作りたいと思っていたので、(この親父と王様のきたない大人どうしの取引で得た)新天地に仲間と一緒に喜び勇んで出かけていきます。(大人たちは、厄介な息子と厄介な新興宗教を追っ払ってせいせいしたんだと思います。)1681年のことです。

1385042673_william-penn-16441718ウィリアム・ペン(息子)

しかし実は、この息子ペンは優秀なリーダーでした。彼はこの土地をシルバニア(ラテン語で「森の国」)と名付けようとし、チャールズ2世は親父ペンに敬意を評して「ペンシルバニア」と名づけました。息子ペンは、「信教の自由、主権在民、三権分立」という新しい考え方の統治システムをつくり、その理想に忠実にオープン・ポリシーを掲げ、どのプロテスタントの宗派でも、あるいはカトリック教徒であっても、誰でも平等に権利が与えられるようにしました。当時、ニューイングランドではピューリタン以外は入れないという「ピューリタン原理主義」になってしまっていたので、自由の国ペンシルバニアと、それに隣接する、オランダ領時代からの「フリーダム」気質のニューヨーク・ニュージャージーに、あらゆる宗派の人々が欧州から続々とやってきました。

やってきた人々は、イギリスの各種プロテスタント、オランダのカルヴァン派、フランスのユグノー、北欧人などいろいろですが、中でもドイツからは、各種プロテスタントとカトリックも少々入り混じった人々が、怒涛のようにやってきました。ドイツ語のデマ、と言いましたが、1680年にペンシルバニアの人口の60%がイギリスで33%がドイツ、ニュージャージーとデラウェアでは6-11%がドイツ出身だったそうで、かなりたくさん(おそらく数十万人の桁?)いた、というのは嘘ではなさそうです。(フランスもオランダも、自国の領地があるのに、せいぜい数千人でしたよね。)18世紀の本国の人口が、フランス(2200万人)に次いでドイツ(1700万人)であり、オランダやイギリスと比べ一桁多く、とにかく母数が大きかったということでしょう。また、ペンの統治システムのおかげでインフラ整備も進み、フランス植民地ほど住民がバタバタ死ぬ状態ではなかったのだろう、ともいえます。

ここまで見てきたイギリス、オランダ、フランスの場合は、いずれも北米に「領地」を持っていてそこに自国民が合法的に「植民する」というパターンでしたが、ドイツは当時まだ欧州の中の後進国で、海外領地どころではなく、前回述べたように、戦国時代に日本にやってきた欧州人の中には、ドイツ人もオーストリア人もいませんでしたよね。1600年代当時のドイツは、同時期の「江戸幕府」と似たような構造で、神聖ローマ帝国=オーストリア(天皇家)はオスマントルコと宗教改革にやられ続けて衰退しつつあるけれど「キリスト教会の守護者」としての正統性で君臨だけはしており、その下に数百の封建諸侯(大名)が割拠して、その中で一番大きいホーエンツォレルン家(徳川家)のプロイセンが「盟主」(征夷大将軍)として浮上してきました、という感じです。

この頃、宗教戦争に端を発して、みんな(いくつかのドイツ諸侯含む)でオーストリアをいじめた「三十年戦争」が起こり、戦場となったオーストリア/ドイツは、泥仕合の末に国内でカトリックとプロテスタントが現状維持というどっちつかずの終わり方となり、権力は細分化のまま固定しました。同時期に、フランスはルイ14世の絶対王政に向かい、イギリスは共和制を着々とつくりあげたのに対し、ドイツはずるずると競争優位を失い、戦乱で荒廃した住民の生活は貧窮し、どこでもいいから逃げ出したいという人が続出したのです。つまり、このときのドイツ移民とは、「経済難民」のようなものといえます。その後もドイツからの移民の波は続き、フランス革命からナポレオン戦争にかけて、またまたドイツが踏み荒らされてしまった頃がピークだったようです。

難民といっても、やはりプロテスタント、つまり職人・商工業者という「中間層」の人々が多く、今でも世界に冠たる「ドイツのクラフツマンシップ」で知られる人々が大量にはいってきて、その後のアメリカ北部の工業の発展を支えていきます。

そして、ペンのつくった理想郷の統治の仕組みは、その後アメリカ合衆国に受け継がれ、その理想は(本音ではいろんな人がいろんな考えを持っていますが、「建前」として)アメリカ人のアイデンティティを支える「理念」となっています。(をい、トランプ、きいてる?)

出典: 在日米国大使館、fujiyanの添書き、Wikipedia、Civil Liberties