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ベイエリアの歴史(30)- ヘルシーだったゆえに苦労した中国系移民

アイリッシュの他にも、イタリア、ギリシア、ポーランド、ユダヤなどいろいろな人々がヨーロッパからやって来ましたし、アフリカから連れてこられた奴隷もたくさんいましたが、東のほうの話にちょっと飽きてきたので、話をカリフォルニアに戻すことにします。

中国からの移民が本格的にカリフォルニアに流入しだしたのは、1850年ころのことでした。ゴールドラッシュの鉱夫として人が必要だった一方、中国では清朝末期の太平天国の乱で国土の荒廃と農民の困窮が加速していました。「金の山」の魅力につられてやってきた人たちは、目論見外れてひどい労働環境で働かされたわけですが、それでも本国の惨状よりはマシ、というお約束の移民ストーリーです。広東地方では、村を挙げて若い男子を出稼ぎに送り出し、地元に送金させました。1850年代に中国人のアメリカ移民は4万人台程度にまで達します。

ここまで見てきたヨーロッパ系移民と異なり、中国移民は最初からアメリカで法的に厳しい差別をされていました。中国人は移民一世がアメリカ市民権をとることはできず、ヨーロッパ系米国人と結婚することも土地の所有も許されず、また「非アメリカ市民の鉱夫」(=中国移民)は特別な人頭税も課されていました。当時、中国はまだ清朝の皇帝が支配する体制で、漢民族は満州風の辮髪を強制されており、契約年季があければ本国に帰るつもりの「出稼ぎ」であったために、辮髪を切ることに躊躇した人が多く、そのために見かけも一般アメリカ人から見ると「異様」でした。英語も話せず、知能の低い二級民族であるとの烙印を勝手に押されていました。1862年にカリフォルニア州知事となった鉄道王レランド・スタンフォードは、「アジアのクズどもからカリフォルニアを守らなければならない」などと演説したりしています。

しかし、大陸横断鉄道の建設が(8)で述べたような「ゲーミフィケーション」のフェーズにはいり、建設のための人手が足りなくなってきました。当時は東からはいってきたアイルランド系の移民が鉄道建設労働者に多かったのですが、それでも足りないので、現場監督が試しに中国人を雇ってみたところ、これが大成功。アイリッシュよりもはるかに効率がよい、ということに気がついてしまいました。

中国人たちは、村から送り出された若い男子ばかり。彼らは料理人を雇い、サクラメントやサンフランシスコから乾燥食品を持込み、豚や鶏を飼い、野菜や魚まで入手して、バラエティのある食生活をしていたそうです。また、お湯を沸かしてお茶を淹れるという習慣がありました。これに対し、アイリッシュたちは、ポテトとビーフしか食べず、生水と酒ばかり飲んでおり、病気やトラブルが多発していました。このため、崖から吊るされて岩を掘るといった厳しい現場の環境でも、中国人は赤痢にもかからず健康で、体格は貧弱で給料はアイリッシュより安いのに、黙々とチームワークを発揮して働く、優秀な労働者でした。

もちろん、鉄道会社にとってはこんなありがたい社畜はいません。おかげで、セントラル・パシリック鉄道の労働者の9割が中国人となり、会社は大儲けです。1868年には、アヘン戦争後の天津条約の改訂版であるバーリンゲーム条約が締結され、清から米国への移民が正式に法的に認められて、アメリカからは中国にエージェントがでかけ、中国人をリクルートして回りました。渡航のお金がない中国人は、渡航後の給料から渡航費を払うという契約で、どんどん連れてこられました。このため、1870年代には12万人以上という、移民のピークを迎えます。(そういえば、「Once upon a Time in China」というこの時代を描いた映画で、中国人を騙してアメリカに奴隷として売り飛ばすアメリカ人をジェット・リーがやっつける話がありました。)

しかし、市民権を取れないなどの法的な制約が緩和されず、なまじ優秀なためにかえって、職を奪われる白人からは攻撃され、仕方なく中国人たちは自分たちだけのコミュニティに固まって閉鎖的な生活を強いられ、ますます孤立と差別が激化していきます。米国に帰化できず、いつ国外追放されるかわからない不安定な身分が続きます。中国本国での伝統的価値観から女性は家に縛られて動けず、男性だけが渡航したのに、白人とは結婚できないため、中国人売春婦の人身売買という問題も発生します。(1890年時点でも、中国移民に占める女性の割合は5%以下でした。)中国人に対する暴力事件や差別待遇がますます激化し、1882年には「中国人排斥法」が成立し、中国からの移民の受け入れを事実上停止。その後も違法移民や例外的にはいってくる移民は続きましたが、数は10年で1-2万人のレベルまで激減しました。

アメリカに残った中国系の人たちは、鉄道完成後の農業ブームのときには農業労働者となり、また南北戦争後に奴隷解放で人手不足になった南部にも労働者としてはいっていったりしました。中国人排斥法は、第2次世界大戦でアメリカと中国が「同盟国」となった1943年に廃止されましたが、結婚などの差別は1960年代まで続きました。現在、中国系はアジア系アメリカ人の半分以上を占めますが、それでもアジア系全体でも米国人全体の5.6%にすぎません。最初からアメリカ市民権から締め出された中国系は、アイリッシュのような政治的な手段での地位向上をはかることが、第二次大戦後までできませんでした。そしてこの流れは、その後日系移民にも続いていきます。

安い給料で働く優秀な労働者という意味では、中国でiPhoneを作っている現代の人たちもアメリカ人から職を奪うとして同様に糾弾されています。アメリカ国内での中国系の地位はすっかり回復しましたが、似たような構造は現代でも残っているのですね。

出典:Wikipedia, KQED

800px-The_only_one_barred_out_cph.3b48680中国人排斥法を描いた風刺画