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ベイエリアの歴史(31) - 悲劇のハワイ王家と明治天皇

(9)で書いたように、1869年にカリフォルニアにやって来て「ワカマツ・ファーム」を拓いた旧会津藩士グループがいましたが、その前年ハワイにも、同様にオランダ系アメリカ人商人が率いた約150人の日本移民(「元年者」と呼ばれた)が到着しました。どちらのグループも、明治政府に認められていない立場でした。そしてその頃のハワイは独立国で、まだアメリカの一部ではありませんでした。

年季奉公契約だった元年者は一部が数年で帰国、数十人がそのままハワイに定住しましたが、その後明治政府はしばらくの間、日本からハワイへの移民を停止していました。当時の明治政府は、不平等条約改正が至上命令であり、そのために日本国の「国家ブランド」づくりに躍起でした。一方で、前回(30)に書いたような中国系アメリカ移民の惨状は情報としてはいっており、「日本国民をそんな目に合わせたくない」というか、「ハワイで日本人がこんなみっともない状態になったら、国家としての威信に関わる」というか、そんなことだったのではないかと思います。

当時は、1795年にハワイ王国を建国したカメハメハ一世(大王)の直系が途絶え、傍系のカラカウア王の治世でした。ハワイの王様は短命の人が多く、100年の歴史の間に王様が8代います。当時のハワイにはアメリカから伝統芸「土地投機」の人たちがどんどんやってきていました。土地所有という概念のなかったハワイ人を押しのけ、彼らのタロイモ畑をサトウキビのプランテーションに変えて、砂糖をアメリカに売って儲けておりました。アメリカからの入植者たちは、ハワイ人を蔑み、宗教や文化の面でもアメリカ流をがんがん推進しており、歴代の王様でも、そうしたアメリカ人を受け入れようとする人と排除しようとする人が両方あって、政策は揺れ動いていました。また日本の幕末と同じように、欧米人同士が競争で勢力拡張を図っていたので、アメリカ人入植者はなんとかハワイをアメリカに併合しようと画策します。

そんな中、比較的治世の長かったカラカウア王は、なんとかハワイの独立を守ろうと考え、アメリカのグラント大統領と会って貿易交渉を行ったり、少し前に禁止されていたフラを復活させたりしていました。とはいっても、当時のハワイの国力でアメリカと戦って勝てるはずもないため、外交的な打開策を見出すべく、アジアからインドを経てヨーロッパ各国を周り、アメリカ経由で戻るという世界一周の旅に出ます。太平洋地域の国を糾合してアメリカに対抗する、という構想をもっていた彼は、とりわけ日本に期待をもっていたようです。日本はハワイと同じように島国で、王政であり、欧米列強からのプレッシャーを受けながらも改革を実行し、独立を維持していました。

1881年に日本にやってきたカラカウア王は、日本から見ると、史上初の外国の元首の来訪でした。ドナルド・キーン著「明治天皇」では、天皇がそのとき、外交や政治の文脈を超えて、王の訪日を喜び、心から歓待していた様子が伺えます。ヨーロッパの王家どうしのコミュニティには相手にされず、国内では立場上誰に対してもなかなか打ち解けることができなかった明治天皇にとって、カラカウア王はまさに、心強い同じ立場の仲間と思えたのでしょう。

王は、上記のような「連合構想」とともに、王の姪であるカイウラニ王女(当時5歳)と、日本の皇族、東伏見宮依仁親王(当時13歳)との縁談を明治天皇に持ちかけましたが、明治政府はどちらも断ってしまいます。ただ、その際に、日本からの移民をハワイで受け入れるという点については合意され、1885年からハワイへのオフィシャルな移民が始まります。

しかし、カラカウア王とハワイ王国はその後、悲しい運命をたどります。アメリカ人入植者からのプレッシャーで、不本意な内容の憲法を受け入れさせられ、その憲法では参政権が一定以上の資産・収入のあるアメリカ人に有利であり、ハワイ人やアジア系移民は事実上排除されてしまいます。王党派とアメリカ人の板挟みの中で、かつては「メリー・モナーク(陽気な王様)」とあだ名された王はアルコール依存症となり、1891年に療養先のサンフランシスコで崩御。後を継いだのは、彼の妹リリウオカラニ女王でしたが、1893年にアメリカ人主導のクーデターが起き、女王はカラカウア王が建てたイオラニ宮殿に幽閉され、王国は滅亡します。このとき、日本は邦人保護の名目で東郷平八郎率いる海軍をハワイに派遣して、王家に味方する姿勢を見せています。

アメリカ人たちはハワイ共和国を宣言しますが、その後王党派の反乱などを経て、1898年にはアメリカに併合され準州となりました。1898年といえば、米西戦争でアメリカが落日のスペインの棺の蓋に釘を打った年で、アジアでスペインの植民地だったフィリピンをアメリカが獲得したため、太平洋の補給基地としてのハワイの重要性が高まっていたという背景もあります。

日本の皇族初の国際結婚が幻となったカイウラニ王女は、リリウオカラニ女王の王位後継者と指名されていました。ハワイ王家の女性を母に、スコットランド人を父にもつ王女は、知性が高く美貌で、国民の人気も高かったと言われます。王国滅亡のとき、アメリカ海軍の封鎖によりハワイからは誰も出られなかったため、まだ17歳だった王女が留学先のイギリスからたった一人でアメリカに渡り、クーデターの不当を当時のクリーブランド大統領に訴え、調査実行の約束を取り付けます。「島の野蛮人」だと思っていたハワイの王女が、実はとても優れた美しい女性だったことに当時のアメリカのメディアは驚いたようで、写真がたくさん残っています。

しかし、その甲斐なくハワイはアメリカに併合され、1897年にハワイに戻ったあと、1899年にカイウラニ王女は23歳の若さで病気で亡くなりました。最後の女王リリウオカラニはその後1917年まで、ハワイ人の尊敬を受けて生き延びました。リリウオカラニ女王は「アロハ・オエ」の作者として知られており、また、カイウラニ王女は2009年「プリンセス・カイウラニ」という映画になっています。

日本とハワイの間の合意で実施されていた官製移民は、ハワイ王国が滅亡した1893年で終わり、その後は民間人仲介として移民が続きましたが、これもアメリカ併合後の1900年に中止となりました。

Kaiulani_in_1897_(PPWD-15-3.016)

カイウラニ王女

出典: Wikipedia、ドナルド・キーン「明治天皇」The Princess Kaiulani Project