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【ナンデモ歴史52】小野但馬守政次追悼〜激辛大河のベルばら世代的考察

私は歴女ですから、大河ドラマはけっこう見ています。アメリカでも、日本語チャンネルで一日遅れでやっております。

そして、「おんな城主直虎」33話は、ネットで騒然となっているので皆様もご存知のとおり。私も、(少なくとも私の中では)このドラマは歴史に残る名作となったと思っています。

とはいえ、これまでも「低視聴率」とバカにされてきたこの作品、今まで批判し続けてきた方が今回もこんな批判を書いております。

http://biz-journal.jp/2017/08/post_20278.html

『おんな城主 直虎』高橋一生ついに退場!「神回」と絶賛されるも、目立つ粗に心配の声

確かに、「近藤がなぜ政次を処刑したのか」については、少々わかりづらいところでもあり、私もちょっとひっかかっていました。そもそも、ウィキペディアで「史実/通説」とされているものを読んでも、「井伊を裏切った」かどで徳川が政次を処刑するというのも変な話だし、井伊が恨みを持って処刑したのなら、なぜ彼の甥とその子孫を末代まで井伊の主要な家臣として処遇したのかもわかりません。このあたりの事情は謎なのですね。

でも、愛あふれるツイッター民の皆様のおかげで、脚本家さんがあちこちに仕込んだヒントがわかり、このお話の中では私なりに腑に落ちました。アメリカ時間で見てからもう2日経っているのに、歴女の血が騒いで仕事が手につかないので、この件以外の感想も含め、私的考察をここに吐き出してしまいたいと思います。

(1)寝返りのエビデンスと近藤のメンツ

まず、近藤が感情的に政次および井伊を恨んでいることが唯一の動機ではありません。確かに、過去の因縁もあるので「嫌い」ですが、それは遠慮なく「やっちまう」ことができる補助的な理由に過ぎません。

本当の動機は、「どさくさにまぎれて井伊谷を自分の領土にしたい、絶好のチャンスだ」という、この時代の武将のごく当たり前の行動様式でしょう。これは、政次が捕らえられたときに、近藤自らが言っています。(「これも世の習いだ、悪く思うな」)

その場合、近藤も今回あらたに今川方から徳川方に寝返るにあたり、本当ならば「寝返りますよ」という証文だけでは弱く、敵方の将の首というエビデンスが欲しいところ。直虎も政次も、当初の「プランA」では「関口の首」をお土産にする予定でした。

しかし、関口も寝返ってしまい、ちょうどよいお土産がなくなってしまった。32話で政次が、関口の家来が引き上げたという話を聞いて、顔を曇らせたのはそのためでしょう。彼は「最悪の場合、自分の首が必要になるかも」とこのとき思ったのではないでしょうか。

さらに、近藤が、家康自身に「切り取り次第」を認めさせるためには、何かしらの大義名分が必要でした。(家康は前回、近藤が政次のことをけなすのを聞いても、「じゃあ井伊を攻めて切り取ってもイイヨ」とは言いませんでしたし、今回も近藤のヤラセを疑っていました。)

それで、近藤は「今川方である政次が徳川(≒武田)に弓を引いた。徳川に味方すると言ったのはウソで、ヤツは大嘘つきの二重スパイであった」とでっちあげ、その首を今川の将の首として、寝返りのエビデンスにしようとした、ということだと思います。(そして、先を急ぐ家康も、疑っていながら近藤に丸投げせざるをえなかった。)

過去の遺恨は材木の件などの「ご近所のイザコザ」程度ですが、この局面でもし直虎と政次が逃亡したり、ヤラセが露見したりすれば、今度こそ近藤のメンツおよび立場へのダメージははるかに大きくなります。そうなれば、近藤は徳川≒武田から自分が責められたくないので、口封じのためにも本気で井伊に攻め込むでしょう。井伊には、どうやらまとまった武力は龍潭寺の僧兵ぐらいしかないようで、とても勝てない。蹂躙されてしまう。そこまで考えて、政次は、近藤のでっちあげストーリーにあえて乗ることにしたのでしょう。

要するに、関係者全員が、近藤のヤラセも政次の立場もうすうすわかった上で、出来レースをやっているということになります。この時代、武力がないということは残酷なことです。

(2)近藤の正当性をくつがえす

近藤は、直虎と政次がつるんでいることは前から見破っていたでしょう。徳政令の話のときに、今川館で政次が「井伊が困ると自分には好都合」と言ったのに対し、「好都合、でござるか?」と疑っています。さらに、直虎は家康に対してすでに「政次は味方」と宣言してしまっています。

ここで「今川方の首」として差し出す政次と直虎は同チームで、直虎も実は今川方だと主張すれば、井伊家が旧所領を安堵してくれという話も潰すことができ、近藤は自分が乗り込むことを正当化できます。

直虎チームとしては、「近藤が正当性を持ってしまう」ことを阻止するためには、政次と直虎の立場を切り離すことが必要になってしまいました。井伊はちゃんと徳川に恭順するつもりだったのに、政次が裏切っただけだ、井伊はちゃんと処遇しろ、と言えるようにしておかないといけません。

それで、「大河史に残るラブシーン」との呼び声の高い、罵倒合戦という命がけの大芝居をうちました。それがなければ、近藤の井伊への侵攻は止められても、井伊の本領回復ができなくなります。

ドラマでは見えませんが、磔にするのは見せしめの意味ですので、川のこちら側に、見物人がいたかもしれません。見物人はもともと直虎びいきの井伊の住民ですから、その場面を見て、「直虎あっぱれ、やはり直虎にうちの殿様に戻ってほしい」と思ったことでしょう。

このあと、能面の顔になった直虎が近藤に、「鏃のない矢の件は黙ってやり、近藤を功労者と言い伝えてやるから、井伊の旧領を返せ」と迫ったりでもするのでしょうか?楽しみです。

(3)家康に貸しをつくった

この時点で、徳川はまだ弱小の豆狸であり、信長に踏んづけられたり信玄に書状を鼻紙にされたりしています。家康が今回、土下座後ずさりで直虎を見捨てざるをえなかったのも、大ボス信玄の「早く来い」というお下知に背いたら、自分自身があっという間に鼻をかんで捨てられてしまうからです。

その中でおこった、この一連の悲劇のおかげで、家康は井伊に大きな借りを作ることになってしまいました。このあと、築山殿の件もあり、井伊への「借り」カウンターはさらに高速回転します。

その後の家康の井伊直政(虎松)への扱いが「破格の厚遇」となっていくのは、そんな心理的負い目もあるのかな、と想像します。直親を見殺しにしたという罪悪感を背負っていた政次は、こんどは自分を見殺しにしたことを「家康への貸し」として押し付けたわけです。どこまで意図したことかわかりませんが、彼は、「新参者」「外様」であった井伊家が、徳川でのし上がり、徳川幕府が終わるまで300年近く続くための捨て石になった、と考えると楽しいです。

結果的には、大企業の織田や武田でなく、早いラウンドでベンチャー企業徳川に投資(貸しですが・・・)して、その後大化けしてよかったね、ということになります。

ただ、なぜ、斬首や切腹でなく磔だったのか、についてだけは、演出上の都合だったのかな、とも思いますが。

(4)革命家の甘美な陶酔

なお、このときのふたりの心情については、もう語り尽くされているので、詳細は略しますが、一つだけあまり言われていないことを付け加えておきます。私は、ある意味で「革命家の甘美な陶酔」のようなものを二人だけで共有していたというふうに考えたいです。

ベルばらがあれだけ劇的なのは、オスカルとアンドレが「共に革命に身を投じた」からです。単に同じ理想、というより、「革命」という言葉にはなんとなくエロティックな、自己陶酔するような風味があるので、あえてこの言葉を使います。

ドラマではそれよりもはるかに規模の小さなレベルではありますが、直虎と政次は「同士として共に今の悲しい世の中を変えたい、そのために自分は地獄に落ちてもよい」という情熱を共有していました。その対象がイデオロギーではないので革命とは呼びませんが、彼らが目指したのは、穏やかな里の風景や、陽の光の中で打つ囲碁が象徴する、「人々が幸せに暮らす、ふるさとの安寧」ということで、目指すところはある意味で同じです。それは、江戸時代の歌舞伎のような「お家大事、お家に対する忠義」というイデオロギーとは違い、また普通の恋愛とも違います。(恋愛感情も、多分に混ざっていたとは思いますが。)

そして、一人で黙って悪者として死んでいった「樅の木は残った」の原田甲斐と違って、ふたりで一緒に地獄に堕ちるのだから、ますます甘美ですね。

(5)聖ロンギヌスの槍

ツイッターでこの言葉を見かけ、調べたら面白かったので、画像にはこれを使いました。

キリストと聖ロンギヌス - フラ・アンジェリコのフレスコ画(15世紀)

キリストと聖ロンギヌス - フラ・アンジェリコのフレスコ画(15世紀)

 

現在のオフィシャルな聖書には「ロンギヌス」という名前は出てこず、ただ「ローマの兵士の一人が、十字架上のキリストを槍で刺したら、血と水が一滴流れ落ちた」というだけです。なので、私はこの話は知りませんでした。

しかし、聖書にはたくさんの「外伝」があり、その一つにこの兵士の名前がロンギヌスとあるそうです。彼はもともと盲目で、キリストの返り血が目に入って見えるようになり、改心してキリスト教布教を行ったことで、その後聖人に列せられ、その槍は勝利をもたらす「聖遺物」という伝説になって人々が探し求めたといいます。

日本では、ゲームの中でよく知られているものらしいです。

槍をさす構図や、直虎の尼頭巾に一滴だけ飛び散った血の飛沫が、この逸話を思い出させるようです。

前回32話の、小野家臣団の前で振り返る政次という構図が、レンブラントなどのオランダ絵画のようだという指摘もありました。

なにしろ、歴女的にはとても心躍る大河ドラマであります。

【記事掲載のお知らせ】シリコンバレーの新型日本ベンチャーたち

先日のイノベーション・アワードをネタに、「シリコンバレーにおける日本のベンチャーたち」という記事が、ビジネス・インサイダーに掲載されました。

https://www.businessinsider.jp/post-100715

シリコンバレーで戦う、注目の「新・日本型スタイル」ベンチャーたち レッドオーシャンを勝ち抜けるか?

シリコンバレーで戦う、注目の「新・日本型スタイル」ベンチャーたち レッドオーシャンを勝ち抜けるか?

【イベントお知らせ】ジャパン・ソサエティ「イノベーション・アワード」に出ます

7月28日午後、スタンフォード大において、北加ジャパン・ソサエティの「イノベーション・アワード」というイベントが開催されます。

私は、この4月からジャパン・ソサエティのボードメンバーとなり、このイベントの運営にも関わっています。また、当日は受賞者パネルのモデレーターとして登壇することにもなりました。

今年の受賞者は、日本からはPreferred Network、アメリカからはCylanceです。キーノートは、ベンチャーキャピタルのパネルと、ポケモン・カンパニー/Nianticです。日本発の期待のベンチャー5社の展示もあります。

お時間がありましたら、ぜひおいでください。チケット購入は下記からお願いします。

http://www.usjinnovate.org/

【記事掲載のお知らせ】ファッション弱者にもありがたいベンチャーたち

BIJに記事が掲載されました。今回は、先週発表されたアマゾンの「おまかせ洋服ボックス」の先駆けであるベンチャー群を、自分の体験も交えて書いてみました。

ファッション・コスメの分野だと、シリコンバレーよりもニューヨークのベンチャーが多く活躍しているのが面白いのですが、どうしても服のセンスが「ニューヨーク」風です。かといって、サンフランシスコ風だと「なんか、ユニクロでよくね?」と思ってしまうという問題もあります。

で、ニューヨーク風でいいやと思ってやっていると、久しぶりに会った友人から、「かいふさんがスカートはいてるの、初めて見た!」とか驚かれたり😅 なんせ、ファッション弱者です。

https://www.businessinsider.jp/post-34659

アマゾン支配とはならない。定額レンタルやオンライン試着

アマゾン支配とはならない。定額レンタルやオンライン試着

【記事掲載のお知らせ】ホールフーズのもろもろ

このたび、ビジネス・インサイダー・ジャパンに寄稿することになりました。第一弾は、ホールフーズの件です。連載ではなく、随時寄稿となります。よろしくお願いします。
https://www.businessinsider.jp/post-34472

アマゾンが買収したホールフーズ創業者は「オーガニック運動」実践者でリバタリアン

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【ナンデモ歴史51】●の川が火の海になり、世紀の「大逆流」工事へ

10年ほど前の秋、シカゴを訪れたとき、住宅街にはレンガ造りの住宅が並び、街路樹の大きな葉が鮮やかな黄色に色づいて、雨でより色が深くなった茶色の町並みに映えていました。その後、この美しいイメージがが私の「シカゴ」のアイコンになっています。カリフォルニアの我が家近くでは、葉が赤くなるものが多く、黄色はあまりないため、特に印象に残ったのでした。

しかし、昔は違いました。「野蛮人の海岸(barbary's coast)」と呼ばれていた頃のめちゃくちゃなサンフランシスコがすごいブームタウンだと思っていたら、どうやらシカゴのブームタウンぶりはもっと激しかったようです。急激な人口増加にインフラがついていかず、大きなきしみが発生しました。

いろいろありましたが、大きな問題のひとつが公衆衛生でした。この時期多くの旅行者が「今まで行った中で一番汚い町がシカゴ」と書き残しており、あまりの汚染のため伝染病が蔓延していました。下水道がつくられましたが、下水は処理せずそのままシカゴ川に流し込んでいたので、ほとんど意味がありません。住民のトイレからの人●、食肉処理場からの牛豚の内蔵や骨などのクズ、その他あらゆる有機ゴミがシカゴ川に流れ込んで、大変なことになっていました。

1871年、未だに原因がはっきりしないようですが、町の東南の一角で火事が発生しました。当時のシカゴでは木造の家が多かったために、またたく間に火は広がりました。火はだんだん中心街に向けて進んできましたが、その先には、市街地の中央を分断するシカゴ川があります。そこで火は止まるだろう、と多くの人が安心したのも束の間、なんと、●の川から発生するメタンガスに火がついて、火事はむしろ川をつたって燃え広がってしまいました。この火事で、300人が亡くなり、市の全人口30万人のうち1/3が焼け出され、ホームレスとなってしまいました。

しかし、幸いなことにシカゴの産業を支える工場や倉庫群はそれほど大きなダメージを受けず、むしろ復興景気が起こって、住民は家はなくても仕事はいくらでもある、という状態でした。このときの復興都市計画として、住宅をレンガやブラウンストーンににすることが義務付けられ、今の美しいレンガづくりのシカゴの町並みができました。

さらに、大きな改革が計画されました。比較的短い流域からミシガン湖へとゆるやかに流れ込んでいたシカゴ川の流れを逆にして、シカゴ川にミシガン湖のきれいな水を取り込み、ゴミは運河経由でミシシッピ川に押し流す、という「大逆流」土木工事であります。湖から近い川の入り口あたりを掘り下げて水を吸い込み、既存の運河をさらに拡張するという作戦で、これが成功して1900年に完成しました。その後、シカゴのゴミが流れ着くようになったミシシッピ川下流の複数の州から訴訟を起こされ(そりゃそうです、迷惑千万ですよね)、今でもリバークルーズのガイドのおじさんは「これらの州には申し訳ないことをしたんだけどゴニョゴニョ」と述べておりました。このため、現在この運河は「Sanitary and Ship Canal」と、「公衆衛生」という名前がついています。

(運河の入り口、このあたりの底を掘り下げた)

シカゴ川逆流工事は、American Society of Civil Engineeringの選ぶ「20世紀の十大公共工事」のひとつに数えられています。これだけでなく、19世紀終わりから20世紀初頭のバブルの頃のシカゴでは、この種の力任せの大型土木プロジェクトのエピソードがたくさんあります。シカゴは地盤が比較的弱いのですが、深く掘り進んで鉄骨を埋める工法が可能になり、高層ビルが林立するようになりました。ガイドのおじさんは「ニューヨークはすぐ下が岩盤だから簡単だが、我が方は技術の力で解決して、ニューヨークと並び称される高層ビル街を作ったんだ」と、再び対抗意識を表明しました。

また、河口近くのシカゴの市街は水面とあまり違わない高さで危険だったため、「街をジャッキアップする」ということも行われました。「家1軒」のジャッキアップなら、「ビフォー・アフター」で見たことがありますが、街の街路一区画全体をジャッキアップし、その間上に乗っているオフィスや店舗は通常営業を続けていた、というから驚きです。現在のシカゴの河口沿いが、道路が層になって地下道路が多い複雑な構造をしているのは、こういう訳だったのですね。

この時期、鉄が大量に作られるようになり、土木・建築技術の発達を促した、ということが、シカゴの橋梁や地下道での鉄骨の嵐を見て実感されます。この時期のアメリカの技術革新と経済発展は、「動きが早い」と皆が嘆く現代と較べても、比較にならないほどのパワーとスケールだった、というのが私の持論ですが、その思いをさらに強くしました。

<続く>

出典:Chicago Architecture Foundation River Cruise Guide, Wikipedia

【ナンデモ歴史50】19世紀半ばの「大爆発期」

独立戦争を経てアメリカから欧州勢力が去り、18世紀の終わり頃には初めてフランス人が近くに農場を拓いて定住。そして1816年、アメリカとネイティブ族の間で戦いを終わらせる条約が成立し、シカゴ周辺はアメリカ合衆国に編入されました。

1830年、イリノイ州政府はシカゴ・ポルテージに運河を建設する計画に着手し、当時人口100人であったシカゴが「行政区域」として初めて成立しました。アメリカ国内の町となったシカゴには、五大湖を通ってニューヨークから通商船が到着するようになり、運河建設を期待して、東海岸の投機筋が殺到して土地投機ブームが発生しました。ご存知、アメリカの伝統芸の発動であります。(【14】参照)中西部でとれた農産物は、馬車でシカゴに集められ、船積みされて東に向かって湖を渡り、イリー運河とハドソン川を経由して、大消費地ニューヨークに運ばれるようになりました。シカゴには、このための穀物エレベーターや倉庫がどんどん建設され、人口はわずか10年で4000人に達しました。

シカゴ川とデスプレイン川=ミシシッピ水系をつなぎ、シカゴ・ポルテージを水路に変える「イリノイ・ミシガン運河」は、1848年に完成しました。サンフランシスコからほど近い山岳地帯で金が発見された年と同じ、というのも面白い偶然です。(その翌年1849年が有名なゴールドラッシュの年です。)これにより、大消費地ニューヨークと天然の大水路ミシシッピ水系が完全に水路でつながりました。この年には、鉄道もシカゴにやってきて、さらに「シカゴ商品取引所(Chicago Board of Trade)」が設立され、農産物を中心としたコモディティの先物取引が始まりました。(タイトルバックの写真が、現在のシカゴ商品取引所(Chicago Mercantile Exchange Center)です。)1848年は、シカゴ「大爆発」の年だったのです。

南北戦争前夜、「北部アメリカ」の高度成長期に、アメリカ全国に急速に広がりつつあった物流ネットワークのハブとして、シカゴは爆発的な成長期にはいります。1857年には人口9万人を擁する中西部最大の都市となりました。

穀物や材木に加え、豚や牛もシカゴで屠殺処理され、最初の頃は塩漬け処理や加工食品、その後列車での冷蔵輸送ができるようになってからは生肉として、東海岸の消費地に送られました。このため、食品メーカーがたくさんシカゴで勃興し、西から送られてくる材料をシカゴで加工して販売していました。

農業機械もこの時期に大発展します。1930年代に機械式刈り取り機/鋤を発明したマコーミック家は、この地にMccormick Harvesting Machine社(合併を経て現在はInternational Harvester社)を設立、農業の機械化に貢献し、「奴隷の不要な農業」を実現させました。現在、大きなカンファレンスがよく開催されるシカゴの展示場は、その名を冠した「マコーミック・センター」です。

また、小売店舗が発達していない地方を多く抱えていたアメリカで、「通信販売」事業が始まったのも、物流の中心地であったシカゴです。多くの小さな町では、西部劇に登場するような「ジェネラル・ストア」というナンデモ屋さんしか店が存在しないという時代でしたので、モントゴメリー・ワード社の創業者アーロン・モントゴメリー・ワードは1872年、数枚のカタログを作成して配布し、郵便で注文を受けて品物を郵送する、という商売を始めて大成功しました。モントゴメリー・ワードはシカゴ川が南北二股に分かれて北に向かうあたりに巨大な倉庫を建設し、川を隔ててほど近いところには、巨大な郵便局が作られました。1世紀半近くにわたってアメリカの通販小売を支えた同社はしかし、インターネット出現後の2001年に倒産してしまいました。その巨大倉庫は、その後アールデコ風の装飾を加えて小洒落た外観に化粧直しされ、現在はグルーポンの本社がキーテナントになっていて、時代の流れを感じさせます。もうひとつの通販の雄、シアーズ・ローバック社は1886年創業で、一時は世界で一番高い建物の記録を保持したシアーズ・タワー(現在はウィリス・タワー)も川の近くに建っています。

(グルーポンのロゴを冠した、かつてのモントゴメリー・ワードの倉庫。600 West、1908年建設)

産業と物流の大革新が起こり、泥棒男爵たちも含む「起業家」がまだ規制もへったくれもない新世界で大暴れし、シカゴなどいくつかの都市を中心として北部が大成長した結果、南北戦争が起こります。エイブラハム・リンカーンはイリノイ州選出の上院議員で、1860年、シカゴで開催された共和党党大会で、大統領候補に指名されました。当時、北部の産業勢力は共和党を支持しており、南部の奴隷制をベースとした産業構造と対立したというわけです。その後、移民の流入と激しい労働争議の時代を経て、シカゴは現在ではガチガチの民主党の地盤となっており、2008年には再びシカゴから、有色人種初のバラク・オバマ大統領が出たということに、あらためて感慨を覚えます。

現在、シカゴの中心街ミシガン通りがシカゴ川を超える橋のたもとに、リンカーンが現代の男性を諭し導く姿を模した巨大な像が建っています。その目線の先には、川に面して巨大なトランプタワーが屹立しています。あのリンカーンが、かつて自らが指導した共和党の現在の姿を見て、天上界で何を思っているだろう、と思いを馳せてしまいました。

<続く>

出典: Chicago Architecture Foundation River Cruise Guide, Wikipedia

【ナンデモ歴史49】「くさいネギ」シカゴの誕生

アメリカでは新学期も何も関係ないのですが、本ブログの「ベイエリアの歴史」シリーズは、本日より「ナンデモ歴史」としてリニューアルいたします!というか、もともと脱線しまくりでしたが、もはやまるでベイエリアと関係なくなって意味不明というのが理由です。引き続き、「歴女」の琴線に触れる歴史をナンデモ書いていきます。

先日シカゴに行く機会があり、友人たちが「シカゴ建築の歴史探訪リバークルーズ」というのに連れて行ってくれました。4月とはいえ、川面を渡る風は寒く、持参のユニクロダウンジャケットもむなしくガチガチ震えながらも、ガイドのおじさんが1時間半にわたり船上で滔々と語るシカゴとその建築の歴史は、めちゃくちゃネタが満載で、ちゃんと調べたい意欲がわいてきてしまいました。ということで、本日より数回にわたり、シカゴの歴史を書いていきます。

サンフランシスコと比べて、シカゴは「古い町」だと思い込んでいましたが、遡ると実はそれほど大きな違いはありません。シカゴの周辺にはもともと、アルゴンキン系のネイティブ・アメリカンが住んでおり、そこに最初に接触したヨーロッパ起源の人たちは、カナダのフランス植民地からやってきました。17世紀のことです。

【26】で述べたように、「船で欧州からやってきて、海に面した河口を発見して川を遡り、その流域を自国領と宣言する」というのがこの時代の通常のパターンでしたが、フランス人はカナダから五大湖経由でミシシッピ川を発見して下っていき、河口のニューオーリンズに達するという逆方向の経緯でした。そして広大なミシシッピ川流域をフランス領ルイジアナという「自国領」と宣言したのでしたね。

1673年、ルイ・ジョリエという裕福な毛皮商のフランス系カナダ人と、ジャック・マリエットというイエズス会宣教師の二人が、ミシシッピ川の探検に出発しました。まだカブリエ・ド・ラ・サールがニューオーリンズまで達する前のことです。カナダからミシガン湖をわたり、現在のウィスコンシン州グリーンベイから支流を経てミシシッピ川を下りましたが、途中まで行ったところで、ネイティブの人たちがヨーロッパの品物を持っているのを見かけ、スペイン人と出くわすとマズイと判断して引き返すことにしました。しかし、流れに沿って川を下るのは簡単ですが、漕いで遡るのはとても体力がいります。疲れてきたところ、途中でガイド役のネイティブ人が「湖までの近道を知っている」と言うので、それに従うことにしました。一行は、ミシシッピ川から支流のデスプレイン川にはいり、後に「シカゴ・ポルテージ Chicago Portage」と呼ばれる短い陸路を経てシカゴ川に達し、シカゴ川を下ってミシガン湖に至りました。当時、シカゴ川とデスプレイン川/ミシシッピ川はつながっていませんでした。

陸上輸送が発達していなかったこの時代、水路は圧倒的に効率的な交通手段でしたが、川の通行ではところどころ、滝や急流を避けたり、ある川から別の川に移ったりするため、船と積み荷を人間がかついで歩く「ポルテージ」という手段をとらなければなりませんでした。ジョリエ一行が往路でたどった旅程も、途中にいくつかポルテージが必要でしたが、なんせポルテージは大変なので、復路シカゴルートだと「ポルテージが短くて済む」ということが通商をしたい人にはとても魅力的で、これがシカゴの都市としての優位の原点となります。

シカゴ川がミシガン湖に流れ込む河口部分が現在のシカゴです。この付近には、ガイドのおじさん曰く「くさいネギ」(野生のニンニクとの記述もある)がたくさん自生しており、この植物をネイティブの人たちは「シカグワ」と呼んでいたので、これがフランス語風に「シカゴウ」となったのが町の名前となりました。「シカゴ」という言葉の響きはとてもカッコイイのですが、ガイドのおじさんは「イギリスのステキな町の名前がニューヨークの起源なのに、シカゴはくさいネギなのがくやしい」と、このあと数回にわたって登場する「ニューヨークへの対抗意識」を表明しました。

(シカゴの語源となった「くさいネギ」、現在の英語ではrampと呼ばれるらしい)

ちなみに、シカゴはイリノイ州に属しますが、「Illinois」というつづりは、フランス語をご存知の方なら「イリノワ」と読みたくなると思います。「イリニ族」が住んでいたので、「イリニの」「イリニの人」といった意味のフランス語というわけです。

その後、この地域で欧州各国を巻き込んだアルゴンキン対イロコイ、というネイティブ族同士の大きな争いが発生したため、18世紀の数十年にわたり、ヨーロッパ起源の人は定住することができず、放置されていました。

<続く>

出典: Chicago Architectural Foundation River Cruise Guide, Wikipedia

【ベイエリアの歴史48】今日は「フレッド・コレマツの日」です

本日、アメリカ版グーグルの検索トップページは、こんなイラストになっています。1月30日は、カリフォルニア州の祝日「フレッド・コレマツの日」、戦時中に迫害され、戦後名誉回復のために裁判を戦い抜いた日系アメリカ人、フレッド・コレマツ(日本名:是松豊三郎)さんの誕生日を記念するもので、このイラストは勲章(後述)をつけ桜に囲まれたコレマツさん、彼の背後のグレーのプレハブ小屋は第二次世界大戦中の日系人収容所の建物、彼の前のグレーの杭は収容所を囲う鉄条網の柵をあらわしているようです。

コレマツさんは1919年、カリフォルニア州オークランド(サンフランシスコから湾を隔てた向かい側)で生まれました。当時の日系アメリカ人の常として、学業でも仕事でも、希望がかなわず、断念したり失業したりすることが続きました。

そして1942年、問題の「大統領令9066号」が出されます。(今トランプが乱発しているあの「大統領令」と同じ仕組みのものを、ルーズヴェルトがだしたのでした。詳しくはベイエリアの歴史(18)を参照。)悪名高い日系人収容所の悲劇が始まるのですが、この法律は正確には、「日系人は太平洋岸から160kmまでの除外地域から退去しろ」という内容でしたので、自ら退去すればいい、ということでコレマツさんは身元を隠して東を目指しました。しかし途中で捕まってしまい、留置所に送られます。

ALCU(American Civil Rights Union、このところの入国禁止騒ぎで脚光を浴びている団体)の北カリフォルニア支部長と弁護士の助けを経て、コレマツはアメリカ政府に対して裁判を戦い始めます。いったんは保釈金を払って解放されたのに、また逮捕され、ユタ州にある収容所に送られてしまいました。収容所から裁判を戦い続け、有罪となっても控訴し、最高裁まで行きましたが、1944年に最高裁でも「日本人のスパイ活動は事実であり、戦時下では軍事上必要なことである」との判断により、有罪は覆りませんでした。

戦後は沈黙を守り続けていましたが、1980年にカーター大統領により日系人収容所の調査が始まって見直しが行われ、1988年には議会が強制収容に対する謝罪と補償を決めました。この時代の変化を受けて、1982年にコレマツも、法学者や日系人弁護士などの助けを得て、再審を求めて、再び戦い始めます。

1983年、北カリフォルニア州連邦地裁において、逆転無罪の判決を勝ち取り、コレマツの犯罪歴は抹消されました。法廷でコレマツは、「私は政府にかつての間違いを認めて欲しいのです。そして、人種・宗教・肌の色の関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです」と述べました。そして1998年、クリントン大統領は、「アメリカ市民として人権のために戦った名誉」のしるしとして、コレマツさんにアメリカ文民向け最高位である大統領自由勲章を授けました。コレマツさんはその後、2005年に亡くなり、2010年にカリフォルニア州は1月30日を祝日として制定しました。

収容所内では、コレマツさんは日系人仲間から排斥され孤立していました。アメリカ政府に協力するほうがよいので命令に従う、と考える日系人が多かったため、政府を相手に訴訟するなどけしからん、というわけです。収容所内では、コレマツさんに限らず、立場や考え方の対立で、仲間内どころか、家族の中でも厳しい対立が数多くあり、戦後日系人コミュニティを分断する深い傷を残しました。(ジョージ・タケイによる収容所体験を描いた「Allegiance」というミュージカルでは、このあたりの事情がわかりやすく描かれていました。)トランプ大統領による人権侵害に対する静かな抗議として、グーグルはフレッド・コレマツさんをページトップに掲げています。日本ではほとんど知られていないですが、この機会に、皆様にもコレマツさんの業績についてぜひ知っていただきたいと思います。詳しくは、ウィキペディアなどを参照してください。

 

「売らないドレス屋」に行ってみた

相変わらず、日本でもアメリカでも、大型小売店舗がダメダメという報道をあちこちで見かけます。

かく言う私は、友人に勧められ、昨夏頃から「洋服の定額制オンラインレンタル」というサービスを利用しはじめて以来、お店で服(下着以外)を買うことがほとんどなくなりました。

そして先週、女子会仲間と連れ立って、サンフランシスコに「ファッション・ショッピング」に出かけましたが、行き先はそういうわけで「売らないドレス屋」2店。

ひとつは、Rent the Runwayという、普段着・ドレスの「月額定額レンタルサービス」。手元に3枚まで持っていてよい、という制限があり、何回返してもOKという、NetflixのDVD郵送レンタルと同じ方式です。詳細は、渡辺千賀さんのブログに書いてあるのでこちらを参照のこと。パーティドレスのレンタルから始まって、現在は普段の仕事着やリゾート着などもそろっています。

さて、このレンタルサービス、本拠はニューヨークで、それ以外にも全米いくつかの都市に「ショップ」を持っており、最近サンフランシスコにもオープンしたので、行ってみたわけです。場所は、ユニオンスクエア近くの高級デパート、ニーマンマーカスの一角。ぱっと見普通のブティックのようですが、要するに「試着オンリー」。カウンターで借りているものを返したり、注文済みのものをピックアップしたりもできますが、基本的にレンタルのトランザクションはネットでやらねばなりません。ただ、(たぶん予約しておけば)ドレスなどを「その場で借りる」ということもできるらしいですが。

そういうわけで、置いてある洋服はそれぞれ一枚(つまり一サイズしかない)で、店に在庫はありません。試着といっても、自分のサイズがあるわけではないので、小さすぎるのを無理やり当てたり大きすぎるのをつまんでみたりしながら、想像をはたらかせます。それでも、やはりネット上で見るだけよりは自分に似合うかの感覚はわかる、まさにショールームというわけです。

もうひとつの行き先は、MM Lafleurという、オンライン・ブティック。こちらもニューヨークの会社で、オンラインで自社ブランドの服(仕事着ぽいものが多いが、体にやさしくフィットして着心地がよい)を売っていて、ショールームをあちこちの都市で行脚しており、ときどきサンフランシスコにもやってきます。ここも試着オンリーで、自社ブランドだけなのでチョイスも少ないですが、サイズは大体そろっていて自分のサイズを試着できます。スタイリストさんに希望を言うと、いろいろ見繕って持ってきてくれて、買いたいものがあれば、その場でオンラインオーダーを入れてくれます。基本的には予約が必要ですが、私はこれまで2回とも、友人の予約に付き添いでついていって、それでもついでに試着させてくれます。店では、シャンパンまでふるまってくれる、本当に「サービス」ビジネスという感じです。

こうやって考えて見ると、トラディショナルな小売店というのは、上記のような「サービス」の部分に加えて、在庫を持っていなければならない、という重荷があります。販売のトランザクションの手間ももちろんあります。それがない、「スタイリストが試着だけさせてくれるサービス店」というのは、大幅に小売店のコストを軽減することになります。デパートのパーティドレス売り場では、返品率が異常に高い(パーティで一回着て返品する人がものすごく多い)という話もあり、デパートはパーティドレス売り場はやめたいらしいので、それよりはレンタルのほうが理にかなっています。最近はeコマースの配達部分の人が雇えなくてコストが上がり、困っているので、その問題はありますが、別の部分に課題が移行する感じ。

千賀さんのブログにあるように、このビジネスモデルが果たして長続きするのかどうか、まだわかりません。ただ、「小売業」の役割のうち、かならずしも「陳列・在庫・販売」のセットを全部そろえていなくても、バラして役割を持たせるというモデルも、試されているということになります。私としては、千賀さん同様、レンタル・サービスをありがたく満喫しているので、ぜひなくならないでほしいところです。