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【記事掲載のお知らせ】ホールフーズのもろもろ

このたび、ビジネス・インサイダー・ジャパンに寄稿することになりました。第一弾は、ホールフーズの件です。連載ではなく、随時寄稿となります。よろしくお願いします。
https://www.businessinsider.jp/post-34472

アマゾンが買収したホールフーズ創業者は「オーガニック運動」実践者でリバタリアン

アマゾンが買収したホールフーズ創業者は「オーガニック運動」実践者でリバタリアン

【ナンデモ歴史51】●の川が火の海になり、世紀の「大逆流」工事へ

10年ほど前の秋、シカゴを訪れたとき、住宅街にはレンガ造りの住宅が並び、街路樹の大きな葉が鮮やかな黄色に色づいて、雨でより色が深くなった茶色の町並みに映えていました。その後、この美しいイメージがが私の「シカゴ」のアイコンになっています。カリフォルニアの我が家近くでは、葉が赤くなるものが多く、黄色はあまりないため、特に印象に残ったのでした。

しかし、昔は違いました。「野蛮人の海岸(barbary's coast)」と呼ばれていた頃のめちゃくちゃなサンフランシスコがすごいブームタウンだと思っていたら、どうやらシカゴのブームタウンぶりはもっと激しかったようです。急激な人口増加にインフラがついていかず、大きなきしみが発生しました。

いろいろありましたが、大きな問題のひとつが公衆衛生でした。この時期多くの旅行者が「今まで行った中で一番汚い町がシカゴ」と書き残しており、あまりの汚染のため伝染病が蔓延していました。下水道がつくられましたが、下水は処理せずそのままシカゴ川に流し込んでいたので、ほとんど意味がありません。住民のトイレからの人●、食肉処理場からの牛豚の内蔵や骨などのクズ、その他あらゆる有機ゴミがシカゴ川に流れ込んで、大変なことになっていました。

1871年、未だに原因がはっきりしないようですが、町の東南の一角で火事が発生しました。当時のシカゴでは木造の家が多かったために、またたく間に火は広がりました。火はだんだん中心街に向けて進んできましたが、その先には、市街地の中央を分断するシカゴ川があります。そこで火は止まるだろう、と多くの人が安心したのも束の間、なんと、●の川から発生するメタンガスに火がついて、火事はむしろ川をつたって燃え広がってしまいました。この火事で、300人が亡くなり、市の全人口30万人のうち1/3が焼け出され、ホームレスとなってしまいました。

しかし、幸いなことにシカゴの産業を支える工場や倉庫群はそれほど大きなダメージを受けず、むしろ復興景気が起こって、住民は家はなくても仕事はいくらでもある、という状態でした。このときの復興都市計画として、住宅をレンガやブラウンストーンににすることが義務付けられ、今の美しいレンガづくりのシカゴの町並みができました。

さらに、大きな改革が計画されました。比較的短い流域からミシガン湖へとゆるやかに流れ込んでいたシカゴ川の流れを逆にして、シカゴ川にミシガン湖のきれいな水を取り込み、ゴミは運河経由でミシシッピ川に押し流す、という「大逆流」土木工事であります。湖から近い川の入り口あたりを掘り下げて水を吸い込み、既存の運河をさらに拡張するという作戦で、これが成功して1900年に完成しました。その後、シカゴのゴミが流れ着くようになったミシシッピ川下流の複数の州から訴訟を起こされ(そりゃそうです、迷惑千万ですよね)、今でもリバークルーズのガイドのおじさんは「これらの州には申し訳ないことをしたんだけどゴニョゴニョ」と述べておりました。このため、現在この運河は「Sanitary and Ship Canal」と、「公衆衛生」という名前がついています。

(運河の入り口、このあたりの底を掘り下げた)

シカゴ川逆流工事は、American Society of Civil Engineeringの選ぶ「20世紀の十大公共工事」のひとつに数えられています。これだけでなく、19世紀終わりから20世紀初頭のバブルの頃のシカゴでは、この種の力任せの大型土木プロジェクトのエピソードがたくさんあります。シカゴは地盤が比較的弱いのですが、深く掘り進んで鉄骨を埋める工法が可能になり、高層ビルが林立するようになりました。ガイドのおじさんは「ニューヨークはすぐ下が岩盤だから簡単だが、我が方は技術の力で解決して、ニューヨークと並び称される高層ビル街を作ったんだ」と、再び対抗意識を表明しました。

また、河口近くのシカゴの市街は水面とあまり違わない高さで危険だったため、「街をジャッキアップする」ということも行われました。「家1軒」のジャッキアップなら、「ビフォー・アフター」で見たことがありますが、街の街路一区画全体をジャッキアップし、その間上に乗っているオフィスや店舗は通常営業を続けていた、というから驚きです。現在のシカゴの河口沿いが、道路が層になって地下道路が多い複雑な構造をしているのは、こういう訳だったのですね。

この時期、鉄が大量に作られるようになり、土木・建築技術の発達を促した、ということが、シカゴの橋梁や地下道での鉄骨の嵐を見て実感されます。この時期のアメリカの技術革新と経済発展は、「動きが早い」と皆が嘆く現代と較べても、比較にならないほどのパワーとスケールだった、というのが私の持論ですが、その思いをさらに強くしました。

<続く>

出典:Chicago Architecture Foundation River Cruise Guide, Wikipedia

【ナンデモ歴史50】19世紀半ばの「大爆発期」

独立戦争を経てアメリカから欧州勢力が去り、18世紀の終わり頃には初めてフランス人が近くに農場を拓いて定住。そして1816年、アメリカとネイティブ族の間で戦いを終わらせる条約が成立し、シカゴ周辺はアメリカ合衆国に編入されました。

1830年、イリノイ州政府はシカゴ・ポルテージに運河を建設する計画に着手し、当時人口100人であったシカゴが「行政区域」として初めて成立しました。アメリカ国内の町となったシカゴには、五大湖を通ってニューヨークから通商船が到着するようになり、運河建設を期待して、東海岸の投機筋が殺到して土地投機ブームが発生しました。ご存知、アメリカの伝統芸の発動であります。(【14】参照)中西部でとれた農産物は、馬車でシカゴに集められ、船積みされて東に向かって湖を渡り、イリー運河とハドソン川を経由して、大消費地ニューヨークに運ばれるようになりました。シカゴには、このための穀物エレベーターや倉庫がどんどん建設され、人口はわずか10年で4000人に達しました。

シカゴ川とデスプレイン川=ミシシッピ水系をつなぎ、シカゴ・ポルテージを水路に変える「イリノイ・ミシガン運河」は、1848年に完成しました。サンフランシスコからほど近い山岳地帯で金が発見された年と同じ、というのも面白い偶然です。(その翌年1849年が有名なゴールドラッシュの年です。)これにより、大消費地ニューヨークと天然の大水路ミシシッピ水系が完全に水路でつながりました。この年には、鉄道もシカゴにやってきて、さらに「シカゴ商品取引所(Chicago Board of Trade)」が設立され、農産物を中心としたコモディティの先物取引が始まりました。(タイトルバックの写真が、現在のシカゴ商品取引所(Chicago Mercantile Exchange Center)です。)1848年は、シカゴ「大爆発」の年だったのです。

南北戦争前夜、「北部アメリカ」の高度成長期に、アメリカ全国に急速に広がりつつあった物流ネットワークのハブとして、シカゴは爆発的な成長期にはいります。1857年には人口9万人を擁する中西部最大の都市となりました。

穀物や材木に加え、豚や牛もシカゴで屠殺処理され、最初の頃は塩漬け処理や加工食品、その後列車での冷蔵輸送ができるようになってからは生肉として、東海岸の消費地に送られました。このため、食品メーカーがたくさんシカゴで勃興し、西から送られてくる材料をシカゴで加工して販売していました。

農業機械もこの時期に大発展します。1930年代に機械式刈り取り機/鋤を発明したマコーミック家は、この地にMccormick Harvesting Machine社(合併を経て現在はInternational Harvester社)を設立、農業の機械化に貢献し、「奴隷の不要な農業」を実現させました。現在、大きなカンファレンスがよく開催されるシカゴの展示場は、その名を冠した「マコーミック・センター」です。

また、小売店舗が発達していない地方を多く抱えていたアメリカで、「通信販売」事業が始まったのも、物流の中心地であったシカゴです。多くの小さな町では、西部劇に登場するような「ジェネラル・ストア」というナンデモ屋さんしか店が存在しないという時代でしたので、モントゴメリー・ワード社の創業者アーロン・モントゴメリー・ワードは1872年、数枚のカタログを作成して配布し、郵便で注文を受けて品物を郵送する、という商売を始めて大成功しました。モントゴメリー・ワードはシカゴ川が南北二股に分かれて北に向かうあたりに巨大な倉庫を建設し、川を隔ててほど近いところには、巨大な郵便局が作られました。1世紀半近くにわたってアメリカの通販小売を支えた同社はしかし、インターネット出現後の2001年に倒産してしまいました。その巨大倉庫は、その後アールデコ風の装飾を加えて小洒落た外観に化粧直しされ、現在はグルーポンの本社がキーテナントになっていて、時代の流れを感じさせます。もうひとつの通販の雄、シアーズ・ローバック社は1886年創業で、一時は世界で一番高い建物の記録を保持したシアーズ・タワー(現在はウィリス・タワー)も川の近くに建っています。

(グルーポンのロゴを冠した、かつてのモントゴメリー・ワードの倉庫。600 West、1908年建設)

産業と物流の大革新が起こり、泥棒男爵たちも含む「起業家」がまだ規制もへったくれもない新世界で大暴れし、シカゴなどいくつかの都市を中心として北部が大成長した結果、南北戦争が起こります。エイブラハム・リンカーンはイリノイ州選出の上院議員で、1860年、シカゴで開催された共和党党大会で、大統領候補に指名されました。当時、北部の産業勢力は共和党を支持しており、南部の奴隷制をベースとした産業構造と対立したというわけです。その後、移民の流入と激しい労働争議の時代を経て、シカゴは現在ではガチガチの民主党の地盤となっており、2008年には再びシカゴから、有色人種初のバラク・オバマ大統領が出たということに、あらためて感慨を覚えます。

現在、シカゴの中心街ミシガン通りがシカゴ川を超える橋のたもとに、リンカーンが現代の男性を諭し導く姿を模した巨大な像が建っています。その目線の先には、川に面して巨大なトランプタワーが屹立しています。あのリンカーンが、かつて自らが指導した共和党の現在の姿を見て、天上界で何を思っているだろう、と思いを馳せてしまいました。

<続く>

出典: Chicago Architecture Foundation River Cruise Guide, Wikipedia

【ナンデモ歴史49】「くさいネギ」シカゴの誕生

アメリカでは新学期も何も関係ないのですが、本ブログの「ベイエリアの歴史」シリーズは、本日より「ナンデモ歴史」としてリニューアルいたします!というか、もともと脱線しまくりでしたが、もはやまるでベイエリアと関係なくなって意味不明というのが理由です。引き続き、「歴女」の琴線に触れる歴史をナンデモ書いていきます。

先日シカゴに行く機会があり、友人たちが「シカゴ建築の歴史探訪リバークルーズ」というのに連れて行ってくれました。4月とはいえ、川面を渡る風は寒く、持参のユニクロダウンジャケットもむなしくガチガチ震えながらも、ガイドのおじさんが1時間半にわたり船上で滔々と語るシカゴとその建築の歴史は、めちゃくちゃネタが満載で、ちゃんと調べたい意欲がわいてきてしまいました。ということで、本日より数回にわたり、シカゴの歴史を書いていきます。

サンフランシスコと比べて、シカゴは「古い町」だと思い込んでいましたが、遡ると実はそれほど大きな違いはありません。シカゴの周辺にはもともと、アルゴンキン系のネイティブ・アメリカンが住んでおり、そこに最初に接触したヨーロッパ起源の人たちは、カナダのフランス植民地からやってきました。17世紀のことです。

【26】で述べたように、「船で欧州からやってきて、海に面した河口を発見して川を遡り、その流域を自国領と宣言する」というのがこの時代の通常のパターンでしたが、フランス人はカナダから五大湖経由でミシシッピ川を発見して下っていき、河口のニューオーリンズに達するという逆方向の経緯でした。そして広大なミシシッピ川流域をフランス領ルイジアナという「自国領」と宣言したのでしたね。

1673年、ルイ・ジョリエという裕福な毛皮商のフランス系カナダ人と、ジャック・マリエットというイエズス会宣教師の二人が、ミシシッピ川の探検に出発しました。まだカブリエ・ド・ラ・サールがニューオーリンズまで達する前のことです。カナダからミシガン湖をわたり、現在のウィスコンシン州グリーンベイから支流を経てミシシッピ川を下りましたが、途中まで行ったところで、ネイティブの人たちがヨーロッパの品物を持っているのを見かけ、スペイン人と出くわすとマズイと判断して引き返すことにしました。しかし、流れに沿って川を下るのは簡単ですが、漕いで遡るのはとても体力がいります。疲れてきたところ、途中でガイド役のネイティブ人が「湖までの近道を知っている」と言うので、それに従うことにしました。一行は、ミシシッピ川から支流のデスプレイン川にはいり、後に「シカゴ・ポルテージ Chicago Portage」と呼ばれる短い陸路を経てシカゴ川に達し、シカゴ川を下ってミシガン湖に至りました。当時、シカゴ川とデスプレイン川/ミシシッピ川はつながっていませんでした。

陸上輸送が発達していなかったこの時代、水路は圧倒的に効率的な交通手段でしたが、川の通行ではところどころ、滝や急流を避けたり、ある川から別の川に移ったりするため、船と積み荷を人間がかついで歩く「ポルテージ」という手段をとらなければなりませんでした。ジョリエ一行が往路でたどった旅程も、途中にいくつかポルテージが必要でしたが、なんせポルテージは大変なので、復路シカゴルートだと「ポルテージが短くて済む」ということが通商をしたい人にはとても魅力的で、これがシカゴの都市としての優位の原点となります。

シカゴ川がミシガン湖に流れ込む河口部分が現在のシカゴです。この付近には、ガイドのおじさん曰く「くさいネギ」(野生のニンニクとの記述もある)がたくさん自生しており、この植物をネイティブの人たちは「シカグワ」と呼んでいたので、これがフランス語風に「シカゴウ」となったのが町の名前となりました。「シカゴ」という言葉の響きはとてもカッコイイのですが、ガイドのおじさんは「イギリスのステキな町の名前がニューヨークの起源なのに、シカゴはくさいネギなのがくやしい」と、このあと数回にわたって登場する「ニューヨークへの対抗意識」を表明しました。

(シカゴの語源となった「くさいネギ」、現在の英語ではrampと呼ばれるらしい)

ちなみに、シカゴはイリノイ州に属しますが、「Illinois」というつづりは、フランス語をご存知の方なら「イリノワ」と読みたくなると思います。「イリニ族」が住んでいたので、「イリニの」「イリニの人」といった意味のフランス語というわけです。

その後、この地域で欧州各国を巻き込んだアルゴンキン対イロコイ、というネイティブ族同士の大きな争いが発生したため、18世紀の数十年にわたり、ヨーロッパ起源の人は定住することができず、放置されていました。

<続く>

出典: Chicago Architectural Foundation River Cruise Guide, Wikipedia

【ベイエリアの歴史48】今日は「フレッド・コレマツの日」です

本日、アメリカ版グーグルの検索トップページは、こんなイラストになっています。1月30日は、カリフォルニア州の祝日「フレッド・コレマツの日」、戦時中に迫害され、戦後名誉回復のために裁判を戦い抜いた日系アメリカ人、フレッド・コレマツ(日本名:是松豊三郎)さんの誕生日を記念するもので、このイラストは勲章(後述)をつけ桜に囲まれたコレマツさん、彼の背後のグレーのプレハブ小屋は第二次世界大戦中の日系人収容所の建物、彼の前のグレーの杭は収容所を囲う鉄条網の柵をあらわしているようです。

コレマツさんは1919年、カリフォルニア州オークランド(サンフランシスコから湾を隔てた向かい側)で生まれました。当時の日系アメリカ人の常として、学業でも仕事でも、希望がかなわず、断念したり失業したりすることが続きました。

そして1942年、問題の「大統領令9066号」が出されます。(今トランプが乱発しているあの「大統領令」と同じ仕組みのものを、ルーズヴェルトがだしたのでした。詳しくはベイエリアの歴史(18)を参照。)悪名高い日系人収容所の悲劇が始まるのですが、この法律は正確には、「日系人は太平洋岸から160kmまでの除外地域から退去しろ」という内容でしたので、自ら退去すればいい、ということでコレマツさんは身元を隠して東を目指しました。しかし途中で捕まってしまい、留置所に送られます。

ALCU(American Civil Rights Union、このところの入国禁止騒ぎで脚光を浴びている団体)の北カリフォルニア支部長と弁護士の助けを経て、コレマツはアメリカ政府に対して裁判を戦い始めます。いったんは保釈金を払って解放されたのに、また逮捕され、ユタ州にある収容所に送られてしまいました。収容所から裁判を戦い続け、有罪となっても控訴し、最高裁まで行きましたが、1944年に最高裁でも「日本人のスパイ活動は事実であり、戦時下では軍事上必要なことである」との判断により、有罪は覆りませんでした。

戦後は沈黙を守り続けていましたが、1980年にカーター大統領により日系人収容所の調査が始まって見直しが行われ、1988年には議会が強制収容に対する謝罪と補償を決めました。この時代の変化を受けて、1982年にコレマツも、法学者や日系人弁護士などの助けを得て、再審を求めて、再び戦い始めます。

1983年、北カリフォルニア州連邦地裁において、逆転無罪の判決を勝ち取り、コレマツの犯罪歴は抹消されました。法廷でコレマツは、「私は政府にかつての間違いを認めて欲しいのです。そして、人種・宗教・肌の色の関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです」と述べました。そして1998年、クリントン大統領は、「アメリカ市民として人権のために戦った名誉」のしるしとして、コレマツさんにアメリカ文民向け最高位である大統領自由勲章を授けました。コレマツさんはその後、2005年に亡くなり、2010年にカリフォルニア州は1月30日を祝日として制定しました。

収容所内では、コレマツさんは日系人仲間から排斥され孤立していました。アメリカ政府に協力するほうがよいので命令に従う、と考える日系人が多かったため、政府を相手に訴訟するなどけしからん、というわけです。収容所内では、コレマツさんに限らず、立場や考え方の対立で、仲間内どころか、家族の中でも厳しい対立が数多くあり、戦後日系人コミュニティを分断する深い傷を残しました。(ジョージ・タケイによる収容所体験を描いた「Allegiance」というミュージカルでは、このあたりの事情がわかりやすく描かれていました。)トランプ大統領による人権侵害に対する静かな抗議として、グーグルはフレッド・コレマツさんをページトップに掲げています。日本ではほとんど知られていないですが、この機会に、皆様にもコレマツさんの業績についてぜひ知っていただきたいと思います。詳しくは、ウィキペディアなどを参照してください。

 

「売らないドレス屋」に行ってみた

相変わらず、日本でもアメリカでも、大型小売店舗がダメダメという報道をあちこちで見かけます。

かく言う私は、友人に勧められ、昨夏頃から「洋服の定額制オンラインレンタル」というサービスを利用しはじめて以来、お店で服(下着以外)を買うことがほとんどなくなりました。

そして先週、女子会仲間と連れ立って、サンフランシスコに「ファッション・ショッピング」に出かけましたが、行き先はそういうわけで「売らないドレス屋」2店。

ひとつは、Rent the Runwayという、普段着・ドレスの「月額定額レンタルサービス」。手元に3枚まで持っていてよい、という制限があり、何回返してもOKという、NetflixのDVD郵送レンタルと同じ方式です。詳細は、渡辺千賀さんのブログに書いてあるのでこちらを参照のこと。パーティドレスのレンタルから始まって、現在は普段の仕事着やリゾート着などもそろっています。

さて、このレンタルサービス、本拠はニューヨークで、それ以外にも全米いくつかの都市に「ショップ」を持っており、最近サンフランシスコにもオープンしたので、行ってみたわけです。場所は、ユニオンスクエア近くの高級デパート、ニーマンマーカスの一角。ぱっと見普通のブティックのようですが、要するに「試着オンリー」。カウンターで借りているものを返したり、注文済みのものをピックアップしたりもできますが、基本的にレンタルのトランザクションはネットでやらねばなりません。ただ、(たぶん予約しておけば)ドレスなどを「その場で借りる」ということもできるらしいですが。

そういうわけで、置いてある洋服はそれぞれ一枚(つまり一サイズしかない)で、店に在庫はありません。試着といっても、自分のサイズがあるわけではないので、小さすぎるのを無理やり当てたり大きすぎるのをつまんでみたりしながら、想像をはたらかせます。それでも、やはりネット上で見るだけよりは自分に似合うかの感覚はわかる、まさにショールームというわけです。

もうひとつの行き先は、MM Lafleurという、オンライン・ブティック。こちらもニューヨークの会社で、オンラインで自社ブランドの服(仕事着ぽいものが多いが、体にやさしくフィットして着心地がよい)を売っていて、ショールームをあちこちの都市で行脚しており、ときどきサンフランシスコにもやってきます。ここも試着オンリーで、自社ブランドだけなのでチョイスも少ないですが、サイズは大体そろっていて自分のサイズを試着できます。スタイリストさんに希望を言うと、いろいろ見繕って持ってきてくれて、買いたいものがあれば、その場でオンラインオーダーを入れてくれます。基本的には予約が必要ですが、私はこれまで2回とも、友人の予約に付き添いでついていって、それでもついでに試着させてくれます。店では、シャンパンまでふるまってくれる、本当に「サービス」ビジネスという感じです。

こうやって考えて見ると、トラディショナルな小売店というのは、上記のような「サービス」の部分に加えて、在庫を持っていなければならない、という重荷があります。販売のトランザクションの手間ももちろんあります。それがない、「スタイリストが試着だけさせてくれるサービス店」というのは、大幅に小売店のコストを軽減することになります。デパートのパーティドレス売り場では、返品率が異常に高い(パーティで一回着て返品する人がものすごく多い)という話もあり、デパートはパーティドレス売り場はやめたいらしいので、それよりはレンタルのほうが理にかなっています。最近はeコマースの配達部分の人が雇えなくてコストが上がり、困っているので、その問題はありますが、別の部分に課題が移行する感じ。

千賀さんのブログにあるように、このビジネスモデルが果たして長続きするのかどうか、まだわかりません。ただ、「小売業」の役割のうち、かならずしも「陳列・在庫・販売」のセットを全部そろえていなくても、バラして役割を持たせるというモデルも、試されているということになります。私としては、千賀さん同様、レンタル・サービスをありがたく満喫しているので、ぜひなくならないでほしいところです。

2月28日、東京で「働くの未来」について講演します

リクルート・ワークス研究所では、新しい「働く」の姿を模索する研究プロジェクトを実施し、私はコンサルタントとして活動に参加していましたが、このたび、研究成果の発表を東京で行うことになりました。

シリコンバレーでは、ライドシェア・サービスとして有名なUberが、「働き方」に関しても「オンデマンド労働」という新しい仕組みを作り上げました。そのインパクトがいろいろと取りざたされている中、日本でもDeNAが「フリーランス」のウェブサイト・ライターを雇っていたことから、フリーランスについて注目されるようになりました。

そんな中で、「リアル」な実態は何なのか、何がメリットで何が課題なのか、といったところを、シリコンバレーの経験や私自身が長年フリーランスとして働いてきた経験も含めて、実感的にお話したいと思います。

ご興味のある方は、下記からお申し込みください。

http://www.works-i.com/tech/event.php

【ベイエリアの歴史47】1992年、静かなる時代転換(ただしイケメンに限る)

2008年にオバマが流れを断ち切るまで、共和党のブッシュ王朝、民主党のクリントン王朝が交代で大統領になるのかもねー、といった話がありました

その王朝創始者である(?)クリントン夫が大統領選挙に勝ったのは1992年のことでした。その頃私はニューヨークに住んでいましたが、正直いってその時の自分の感想をよく覚えていません。2000年に子ブッシュがゴアに勝ったときは「えー、なんかやだなー」と思った記憶があるのですが、前に書いたように80年代は「共和党でいいんじゃね」と漠然と思っていたし、92年当時それほど共和党がキライではなかったので、どっちでもいいやー、ぐらいだったのかな、と思い返しています。

しかし、これまた前に書いたように、カリフォルニアがガチガチの共和党支持から民主党支持にあっさり鞍替えしたのが1992年で、その後は一度も共和党に戻ることなく、ずーっと民主党が勝っているガチガチのブルーステートになりました。

今ウィキペディアでこのときの経緯を読んでも、現職の強みを吹っ飛ばすほどの、巨大州カリフォルニアの大転換をもたらすほどの、大きな落ち度が父ブッシュにあったようには見えません。一方で、ビル・クリントンは選挙戦の間から女性スキャンダルが出たりして、ヒーコラ言いながら当選にこぎつけたように読めます。

ただ、ブッシュの言っていることが「なんとなくズレている」感じがしたことは覚えています。それは、やはり1989年の「ベルリンの壁崩壊」が原因でしょう。選挙戦中、ブッシュは「外交戦略」の実績を強調していました。実際に、レーガンのときからずっと言ってきた「ソ連打倒、社会主義打倒」を彼のときに成し遂げたワケです。これに対し、クリントンは「格差社会是正」などの国内問題を取り上げていました。

マルクス・レーニン主義も「資本家打倒」的な思想なわけですが、「ナニナニ打倒」というスローガンは長期的にはあまりよくない、と改めて思います。打倒が実現した瞬間に終わりになってしまうからです。共和党も、「ソ連打倒」が終わってしまっておしまい、でした。

当時のビル・クリントンとアル・ゴアの写真を並べると、まぁ、ぶっちゃけ、父ブッシュよりずっと若くて、イケメンであります。長身・イケメンが選挙に勝つことが多い、というのはよく言われることで(もちろん例外もあり、ゴアも子ブッシュに負けました)、オバマも「イケメン」点が加点されたという側面もあります。そして今年の大統領選が「嫌われ者同志の戦い」と言われるのは、実は「どっちもイケメンではないから」がホンネだと思ったりいたします。

とにかく、ベルリンの壁も、クリントン政権の誕生も、なぜか当時の私にはそれほど劇的な記憶として残っていません。ベルリンの壁も「へぇー、そんなことほんとにできるんだ、でもまたこの人達は、プラハの春みたいに弾圧されて、もとに戻っちゃうのではないのかな・・」と思っているうちに、いつの間にか戻らなくなりました。

そしてその後、90年代の間に、共和党の言うことが(私にすればどうでもいいような)ライフスタイル保守に偏っていき、どんどん共和党のイメージが悪くなってしまいました。

本当に大きなコトは、庶民から見れば遠い世界の出来事のようなことで、それがだんだん積み重なり、静かにいつの間にか変わっていくのかもしれません。

「死ぬ気」でやってるヒラリーと普通のオバサンの役割

単なる感想の回です。昨日の大統領ディベートを見終わって、いろいろ考えました。

ヒラリー・クリントンは「健康不安」と言われていますが、実際に病気を持っているいないにかかわらず、68歳です。(トランプはもっと年寄りですが。)私よりも一回りも上です。私はヒラリーに比べればずっと楽ちんな仕事ですが、それでも更年期の時期を過ぎて、がくっと体力が落ちました。同年代の多くの女性よりは体力的に恵まれていると思うし、ずっとスポーツをやってきているし、まさか私が・・と思っていたのに、最近は骨粗鬆症の一歩手前で足の甲を骨折したり、ムリをして疲労のあまり階段から落ちて数週間寝たきりになったりしています。

どんなに健康に気をつけ、いろんなことをヘルプする人が周囲にいたとしても、あんなに厳しい選挙戦を戦っているヒラリーは体力的にはとてもシンドいのではないかと思ってしまいます。今後、アメリカの大統領は世界一の激務で、どの大統領も任期中にボロボロに老化します。本当に、ヒラリーは「死んでも仕方ない」という覚悟でやっているような気がします。

ずっと法律と政治の世界で努力を重ねてきて、子供を育て、たぶんその間はいろんなことを諦めながら、チャンスを伺い、選挙に出て一度は失敗し、さらに巻き返し、そしてようやく巡ってきた最大のチャンスです。彼女自身のメリットは、いまさらお金のためや名誉のためではないでしょう。選挙に出たり、実際に大統領になれば、黙って静かにしていれば決して起こらないいろんなバッシングにさらされます。それでも、やろうという根性は、ある意味では「野心」なのでしょうけれど、いろんなモノを背負って、たとえ死んでも今やらねばならない、という使命感があるのではないかと。(そして、思いつきのぽっと出のトランプごときにこんな目に合わされるのは本当に理不尽と思っていることでしょう。)自分と比べて、ついそんなことを思ってしまいました。

私はといえば、別に何事も成し遂げていないただのオバサンです。昔は、スーパーウーマンに少しでも近づこうと努力しました。それで多少は前進できましたが、まぁせいぜいこんなところです。それでも、56歳のこのトシまで、子供にも恵まれながら、ずっと仕事をして経験を積み重ねてくることができました。私よりも年上のワーキング・ウーマンは、少なくとも身の回りにあまり多くありません。かつて、このトシで働いている方はごく少数の「スーパーウーマン」でした。超絶的な才能や運や体力に恵まれていたり、お金持ちで家庭の管理を人に任せることができたり、子供をもたなかったり。そうではなく、自分で家事も育児もやるミドルクラスの普通の女性が、このトシまで仕事して経験を積む、という例は、日本でもアメリカでも、過去にはあまり多くないと思います。私達が、第一世代ぐらいかもしれません。

歴史に残る業績はヒラリーにまかせて、私は普通のオバサンとして、何かあったとしてもどうせ大したことない「最後の業績」を無理して追い求めるよりも、この後に続く世代の女性たちが「死ぬ思い」をしなくても普通にコツコツと仕事を続けていくモデルになるほうがいいのかもしれない、と思うようになっています。もう階段から落ちないよう、慢性病にもならないよう、あまりムリをせずひどいボロボロにならない程度に、コツコツとやっていこうかと思います。

オリンピックの「オンデマンド放映」とは何か

オリンピックというのは、きわめて多くの種目のスポーツが同時並行して競われ、きわめて多くの国が参加して、きわめて多くの視聴者が世界中にいる、という、究極のビッグデータ的イベントです。

周波数と一日24時間という大きな制約がある地上波テレビでは、その中からごく一部分しか抜き出すことができません。また、地上波テレビは多くの場合(日本ならNHK以外)CMでお金を稼ぎますので、CMが流れる瞬間になるべく多くの人が見ているようにしなければなりません。このため、どうしても「最大公約数的」に、その国の選手が活躍する+テレビ向けのメジャーなスポーツを選んで放映します。

アメリカは1970年代頃からケーブルテレビが普及しだして、何度かの政策的な後押しを経て、現在では全家庭の85%程度が、ケーブルまたはその競合の有料テレビを契約するに至っています。ケーブルでは周波数の制約がないので、きわめて多数のチャンネルを設定することができます。スポーツは地上波・ケーブルのキラーコンテンツでもあり、アメリカのテレビ業界ではスポーツは特別な地位にあります。アメリカでは、4大メジャー局のひとつNBCがオリンピック放映権を持っていますが、NBCは傘下にNBCSN、MSNBC、Bravo、USA、Telemundoなどのケーブル・チャンネルがあり、これらのケーブルチャンネルでも放映しています。それでも、放映される中身はやはりテレビ局が選んで編成しています。

さらに、ネットでのオンデマンド放映もあります。この形態がいつ始まったかはよく覚えていませんが、オリンピックでいうとすでに数回はオンデマンドでやっています。最初のうちは、「オリンピック・オンデマンド・パッケージ」のような形で有料でサインアップしなければならなかったので、全く人気がありませんでしたが、2010年前後から、テレビ業界が「ユーチューブ対策」として「TV everywhere」とよばれる方式を積極的に導入し、ケーブルテレビの契約者がパスワード認証で他の端末(パソコン、スマホなど)で番組を見られるようになり、ケーブル契約のオマケとして、オリンピックのオンデマンドが見られるようになっています。

NBCはこの(1)地上波(2)ケーブル(3)オンデマンド、の3つの方式のミックスでオリンピックを放映しているわけで、それぞれの方式に一長一短があり、それぞれに合わせた中身とビジネスモデルになっています。いずれもCMとケーブル会社から受け取る配信料の組み合わせで、(1)はCMの比重が大きく、(3)は配信料が大きく、(2)はその中間となります。

ここで「ケーブルからの配信料」というのがキーとなります。ケーブル契約者(単純化するためにケーブルと呼びますが、衛星テレビなど他の有料テレビでも同様)は、月に100ドル以上の高い加入料を払っています。NBCなどの地上波チャンネルも、MSNBCなどのケーブル専門チャンネルも、加入者が払う加入料から一部をコンテンツ料金として受け取る仕組みになっています。地上波主要局とESPN・ディズニー・ディスカバリーなどといったケーブル専門の主要チャンネルは、「ベーシック・パッケージ」という基本サービスに含まれており、それ以外の例えばHBOなどのプレミアム・チャンネルは個別に契約することになります。

地上波テレビは、日本と同様アメリカでも、CM収入が下がりつつあり(それでも多いですが)、これを補うために、地上波各局は配信料を引き上げるようケーブル会社と交渉(時には決裂して、チャンネルがブラックアウトしてしまうことも)したり、ケーブル専用チャンネルを買収してチャンネル数を増やしたりしており、「オンデマンド」の展開もこの努力の一つです。オンデマンドで視聴する加入者は、ケーブル契約者であり、ユーザー名でトラックすることもできるので、その分の配信料受け取りを増やすことに加え、ユーザー・プロファイルに合わせた広告を配信(テレビと同じような番組埋め込みCM)することも可能です。(やっているかどうかわかりませんが)

オンデマンドの場合は、NBCのサイトでスポーツ種目や選手名からサイト内サーチをかけることができます。例えば「Kei Nishikori」でサーチすると、錦織の出ている試合でオンデマンド配信されている過去の動画がずらっと出てきます。そのうち見たいものをクリックすると、ケーブル会社のアカウント情報(ユーザー名とパスワード)入力を求められ、ログインなしでも初回は「お試し30分」だけ見られますが、それ以上はログインする必要があります。動画は、見慣れた試合中継のようなアナウンサーも解説者もおらず、試合の映像と場内の音声が淡々と流れるだけです。(ただ、映像は通常のスポーツ中継と全く同じで、点数をとった選手をアップにしたり、水泳では水の中からの映像がはいったりなど、画面が切り替わってわかりやすく見せるようにはしています。)

NBCのサイトは必ずしもインターフェースが使いやすいとはいえませんが、それでも「日本選手を見たい」とか、「マイナースポーツを見たい」という人にはとてもありがたい仕組みです。これだけ大量の動画を短期間に多数の視聴者が集中する環境で、認証して配信するというのはかなりの技術が必要で、つい職業病でそちらの心配をしてしまいますが、今やビッグデータ技術の進展のおかげで、このような配信方法が可能となっているわけです。アメリカでも、最初の頃はもっと見づらくて大変でしたが、技術面でもどんどん進歩しているのがわかります。

一つ、重要なポイントとしては、オンデマンド配信が始まってから、テレビの視聴者はかえって増えているということが一般に言われています。今回のリオも、(例えばロシアがドーピングでやられてその分アメリカがメダル独占状態という点もありますが)過去最高の視聴者数になると見込まれていますし、例えばアメリカン・フットボールなどでも同様の結果が出ているので、テレビ各局は積極的にオンデマンド技術に投資するようになっています。

アメリカでビジネス的にこれが成り立つのは、上記のように「ケーブル契約が高くて、配信料としてコンテンツ各社にもたくさん流すだけの原資がある」という特殊事情があります。また、2007年の「脚本家組合スト」をきっかけとして、コンテンツ会社が受け取ったコンテンツ料を、俳優・監督・脚本家から各種スタッフに至るまで、どれだけの配分をするかという仕組みも整備されているため、テレビを作る人たちも、こうしてオンデマンドからの配信料が増えると自分たちも潤うというインセンティブがあります。

私は最近の日本のオンデマンド放映事情をあまり詳しく知らないのですが、Newspicksのコメントを見る限り、まだそれほど進んでいないように見えます。その背景事情はとりあえず置いておき、日本でも今後、「CMではない加入料を誰が入り口で十分な額徴収するか(お金の入り口の多様化)」という点と、「コンテンツ配信料をどう配分するか」という点を、アメリカとは背景が違うので、日本式のやり方で整備する必要があると思っています。絶対ダメな理由がいくらでも出てくることを覚悟でいうと、私は、NHK料金徴収の仕組みを使い、NHKが子会社を作って「配信インフラ」と「料金回収」のプラットフォームになり、民放のオンデマンド配信を代行するのがいいのでは、と思ったりしています。

アメリカの場合、ケーブル料金が高いというのは継続的に批判を浴びている点ではありますが、そのおかげで、上記のように試行錯誤したり、制作方式や配信方式に先行投資したりする原資ともなっているワケです。そして、こういう大手のユーザーがあるために、アメリカではビッグデータのスタートアップがどんどん生まれてくるというエコシステムも形成されています。

日本のブロードバンドや映像配信サービスはアメリカと比べてあまりにも遅れていて、いわば「ビジネスモデルのトリクルダウンの一番トップ」にあるべき映像サービスの遅れが、日本のIT競争力をさらに弱めてしまうと懸念しています。ちょうど、東京オリンピックもあることですし、テレビ局の及び腰の元凶と言われてきた某芸能事務所も弱体化の様子を見せていることですし、ここで頑張って、日本でもテレビのオンデマンドを本格的に拡大する努力を、テレビ側の人たちがすべき、と私は考えています。