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【ベイエリアの歴史39】カリフォルニア高速鉄道はなぜなかなかできないのか

実を言うと私はかなり「乗り鉄」がはいっています。このため、カリフォルニア高速鉄道が早くできないか・・と心待ちにしているのですが、なかなかできません。

現在のアメリカは、都市構造やライフスタイルが自動車に最適化しているので、鉄道は合わないと思われがちですが、19世紀にカリフォルニアの大発展を支えたのは鉄道でした。このあたりの事情は、以前このブログにかきましたので、下記を参照してください。

ベイエリアの歴史(8) – 鉄道がやってきた

ベイエリアの歴史(9) – 日本との遭遇

しかし、そういうわけで現在は鉄道といえば「儲からない」というのが相場です。私鉄がちゃんと商売になっている日本でも、沿線の不動産開発も込みであって、運賃だけではあまり儲からないのではないかと思います。それで、アメリカの鉄道は自動車に負けて一旦壊滅状態となり、その後も民間ではなかなか進まず「政治がらみ」となり、それも「左寄り(民主党)」勢力が提唱する政策となっています。鉄道を含む公共交通機関は、「自動車を持てない貧乏人のための福祉」というわけです。カリフォルニア高速鉄道が最初に構想されたのは1990年代、現在また返り咲いているジェリー・ブラウンが最初に知事になった頃で、連邦政府も民主党のクリントンが大統領でした。

その後、自動車産業・ガソリン業界フレンドリーなブッシュ政権の間足踏みしていましたが、計画がまた脚光を浴びたのが2009年です。2008年のリーマン・ショック後、大統領に就任したオバマが打ち出した包括的アメリカ再建パッケージ「ARRA」の一環として、鉄道建設の補助金が含まれており、当時のカリフォルニア州知事アーノルド・シュワルツェネッガーがこの補助金を申請したのでした。(ちなみにシュワちゃんは共和党ですが。)

私は何かと「オバマはやはり頭よかった」とつくづく思うことが多いのですが、このARRAは実にインパクトが大きかったと思っています。経済再建が主目的ですが、そのための産業政策としては「環境にやさしい」ことを主眼として打ち出し、それは実は裏では「外国産の石油への依存度を低くする」という安全保障目的もあり、このために深く静かに、「脱・ガソリン自動車」へと世の中がシフトしていきました。ウーバーが2009年に創業したのも、この頃からテスラが大ヒットしたのも、「大都市回帰・ワカモノの自動車離れ」が始まったのも、こんな時代の流れの一環であり、「鉄道」もその一つでした。その後、カリフォルニア州知事がまた民主党のブラウンに戻り、引き続き鉄道建設計画を進めようとしているのですが、まだまだ障害が多く残っています。

最大の難関が「地形」です。縦長のカリフォルニア州は、おおまかに言って縦に3本ほどの山脈が走っており、地図上で左から(1)太平洋岸で海に迫っている山、(2)そのちょっと内側にある山、(3)ネバダ州との境目にあるシエラネバダ山脈、となります。カリフォルニアの2大都市、ロサンゼルスとサンフランシスコは、いずれも「港」として発達した都市であり、海に面しています。サン・フランシスコから南に向かい、(1)と(2)の間の谷が「シリコンバレー」となるわけですが、サンノゼからちょっと南に下ったあたりで(1)と(2)が接近して平地があまりなくなります。そしてさらに南に下ると、ロサンゼルスの北で(1)(2)(3)が全部合体してしまい、市の北側に屏風のように立ちはだかります。

高速101号線は、(1)と(2)の間を縫うように走っていますが、サンノゼの南側市街地を超えると、地形が複雑で道が曲がりくねって走りづらくなります。一方(2)と(3)の間はサンホアキン・バレーとよばれる広大な中央平原で、現在のカリフォルニアの大動脈であるインターステート5号線はその西寄りを縦断しており、交通量もとても多いです。このサンホアキン・バレーの東側、5号線とほぼ平行しているのが、鉄道王レランド・スタンフォードが作ったカリフォルニア縦断鉄道であり、現在も主に貨物車が走っています。この線路に沿って、州道99号線という一般幹線道路もあり、この道沿いはカリフォルニアの「農業銀座」となっています。「港」という「点」で西に面する2大都市に対し、内陸部は道路と鉄道で東へと陸路で続く「線」の交通システムになっていて、この2つのシステムが山脈で分断されているわけです。現在計画されているカリフォルニア高速鉄道は、この区間ではこの鉄道路線を活用することになっており、ここはそれほど問題はありません。

問題は肝心の2大都市の周辺です。まず、ロサンゼルスの北側の屏風山。その比較的低いところを高速5号線が通っていますが、山岳部分の走行距離はだいたい80kmぐらい、関東平野縦断ぐらいの感じです。鉄道は東に迂回してもっと山の幅が短いところを走る(下図黄色線のBakersfieldからSan Fernando Valleyあたりまで)ようですが、それでも山を完全には避けられません。当初は、中央平原とロサンゼルスを結ぶ区間を先行する予定でしたが、この難所をどうするかの技術的・予算的な妥協点がいつまでたっても見つからないので、「それじゃー、北側を先行させよう」という話になりつつあります。じゃぁ北はよいのかというとそうでもありません。中央平原からまっすぐ北のサクラメントまで延ばすならば、平原が続いているのでよいのですが、途中で分岐して西のシリコンバレー・サンフランシスコへ行こうとすると、どうしても(2)の山を超えなければなりません(下図黄緑線のGilroyから合流点まで)。山の険しさや山の幅はロス屏風山よりはマシですが、ここもトンネルを掘るのか上を超えるのか、どちらにしても相当な工事になります。現在この区間を通る一般幹線道路があり、道幅は広いですが、かなり曲がりくねった山道です。かといって、海側に高速鉄道を通せるような地形ではなく、どうしても途中は内陸ルートを使わなければなりません。

 

地形だけでなく、政治的にも問題があります。内陸部は中規模の都市は多くありますがそれでも田舎なので、鉄道が地域経済をより活性化すると期待されています。しかし、「北」ルートが都市部に突入するサンノゼあたりはかなり人口密集地で騒音が問題となり、また政治的にも高速鉄道賛成派よりもっと左寄りで「そんなもの作るカネがあるなら、地元民の足である市内交通網に使え」と反対する人も多く、この先すんなり行くとも思えません。というわけで、最初は需要は少ないけれど問題も少ない内陸部から工事が始まるようです。そうこうするうちに、万万が一共和党のトランプが大統領にでもなってしまったら、「貧乏人のための鉄道にカネ使うなんてやめてしまえ」と言い出しかねず、また政治プロセスが止まってしまうかもしれません。なんせ「政治」鉄道なので、そうすれば、また4年か8年か、政権が代わるまで待たなければならないかもしれません。現在の計画でSF-LA間が完成するのは2029年となっていますが、全くアテにならず、果たして私が生きている間にカリフォルニア新幹線に乗ることができるのか、本当に私には信じられません。

出典: Wikipedia

 

【ベイエリアの歴史38】サンノゼ州立大学のYoshihiro Uchida Hall

さて、久しぶりにベイエリアの歴史シリーズです。他のエントリーに合わせて、少々体裁を変更しました。

今日は息子のロボティクス試合の応援に、サンノゼ州立大学(SJSU)にいってきました。この大学はサンノゼ市街地のどまんなかにあり、カリフォルニア州立大(CSU=California State Universityシステム、UC=University of Californiaシステムとは違う)のひとつで、アップル、グーグル、インテルなど、地元の大企業への最大のソフトウェア・エンジニア供給大学として知られています。

この大学のもう一つの特徴は「ダイバーシティ」をとても重視していることで、現在も人種・民族がとても平等に混ざっているのですが、歴史的にも、かつて差別されていた日系アメリカ人に早くから門戸を開いていたようです。先日、サンノゼ日本町での地元コミュニティの方々とのミーティングのとき、SJSU出身者がとても多かったのが印象に残っています。

今日、試合の合間にキャンパスを歩いていたら、「Yoshihiro Uchida Hall」という名前の建物を見つけました。調べてみると、Uchida先生は、ご自身もSJSU出身で、1940年代からSJSUで柔道を教え、戦後アメリカで柔道を広め国際的なスポーツへと発展させた大きな功績のある方だそうです。体重別等級の仕組みを提唱し、1964年、柔道が初めて登場した東京オリンピックでは、アメリカ代表チームの監督も勤めました。彼のおかげで、アメリカ国内でSJSUはその後も無敵を誇っているそうです。現在は90歳を超えていらっしゃいますが、引き続き柔道の指導を続けられています。

Uchida先生が始めた道場のある建物がYoshihiro Uchida Hallというわけですが、当初は皮肉なことに、戦時中日系人収容所へ日系人を送り込むための書類を処理する事務所が置かれていた建物だったそうです。(Uchida先生ご自身は軍人として従軍、家族が収容所に送られました。)この建物は2014年に建て替えられ、大きなスポーツ・コンプレックスの一部になっています。

サンノゼ日系祭りのとき、「剣道のてんぷらの隣は柔道のうどん」ということで、私は前回のお祭りでは、剣道てんぷら屋で揚げ玉がたまると隣の柔道うどん屋に運びこむ係をやっていたのですが、侮ってはいけなかったようです。いや、別に侮っていませんが・・・(^^ゞ

(写真は、SJSUキャンパスに立つYoshihiro Uchida先生)

【女性経営者の系譜2】大塚家具、ヴーヴ・クリコ、そして「GJP」

昨日、フォーブスが「アジアの女性ビジネスリーダー50名」を発表、その中に日本からはDeNAの南場智子さん、大塚家具の大塚久美子さん、アート引越センターの寺田千代乃さん、トレンドマイクロのエバ・チェンさんの4名が選ばれました。

この4人には共通点があります。いずれも、創業者または創業家である、ということです。この点については、Newspicksでフォーブス・ジャパンの谷本有香さんも(おそらく選者ご自身で)指摘しておられます。

当シリーズの第一回でヴーヴ・クリコを取り上げましたが、大塚久美子さんもバーブ・ニコール・ポンサルダンの境遇と少々似ています。「嫁入り先」ではなく「生家」ですが、私がWidow Clicquotの本を読んでいる間、頭に思い浮かべていたのは、(当時まだ「あさが来た」が始まっていなかったので)あさちゃんではなく久美子さんでした。

この本によると、バーブ・ニコールが活躍した頃、なぜか突然、シャンパン業界では複数の女性トップリーダーが固まって出現したそうです。その理由として、著者は「家業が傾いたとき、女性が活躍するチャンスが訪れるというケースが歴史的に多い」と述べています。当時、シャンパン業界全体が危機にありました。このくだりを読んだとき、人口構成の変化にさらされている家具業界も長期的に「危機状態」であり、家業が傾いて久美子さんの活躍のチャンスが訪れたというパターンか、と思い出したというわけです。

そう考えると、「男性が見捨ててしまった衰退業界の家業」が女性経営者のニッチ、という、あまり楽しくないまとめになってしまいます。この点について定量的な研究を見たことがないので、本当にそうであると言い切れるわけではないのですが、実感的にはそれに近いものを感じています。

2013年に、母校一橋大学の女性卒業生・関係者が集まるフォーラム「エルメス」の立ち上げに携わりましたが、そのときに講演会のパネル出演者を探す中で、「普通の企業の管理職女性」というのがとても少なく、人選に苦労しました。もちろん全くいないわけではありません。たとえば高島屋の石原一子さんと肥塚見春さんが該当しますが、あまりに偉すぎて、女子会に毛が生えたような会にお呼びするなど恐れ多く、もっと「フツーの課長とか部長とかやってる仲間はいないのか?」と探したのですが、本当に少ない。みんないろいろな分野で頑張っているのですが、なぜかフツーの企業のサラリーウーマンではないのです。

私はこれを「GJP現象」と名づけました。Gは外資、Jは自営、Pはプロフェッショナル。ある程度の実績が外にも知られているような女性の仲間は、ほとんどこのどれかに当てはまってしまうのです。J(自営)には、大塚久美子さんのような「家業」、南場智子さんのような「ベンチャー」、そして私のような「フリーランス」まで含めます。P(プロフェッショナル)には、弁護士、会計士、編集者などが該当します。

企業内の女性のニッチとして、「4R」=人事HR、広報PR、株主対応IR、調査Researchというのがよく言われますが、これはどちらかというとアメリカ風で、日本の企業ではあまり当てはまらないように思います。

仕事のやり方やライフスタイルの点で、自分の裁量がききやすいところを探して居場所を築いてきた結果「GJP」になったわけで、女性のキャリア構築戦略としては「当たり」のやり方であったと言えます。しかしこの3つの分野だけではどうしても数はかせげず、ボリュームゾーンである「フツーの企業のフツーの管理職→幹部」という道が開かれないと、数多くの女性がフツーに仕事ができる環境にはならないと思います。

さすがに最近では、女性経営者・管理職が、一昔前のような「スーパーウーマン」でなければならないという雰囲気は脱してきており、若い世代では今後さらに「フツーウーマン」になっていくと信じています。しかし、昨日の「フォーブス」の記事で、「あ、大塚さんが選ばれた!」と喜ぶ一方で、改めて「現状はまだまだ」と打ちのめさるという、複雑な気分になってしまいました。

(写真は昨年4月、大塚家具ショールームの漆家具展示)

【The Signal #11】 アメリカの「人」と「住」に関する長期トレンド

パートナーであるBlue Field StrategiesニュースレターThe Signal #11に下記を寄稿しました。

少し前、海部は「オンデマンド労働」に関するレポートを書きました。これが話題になっている直接の引き金は、ご存知ウーバーの「運転手側」の事情ですが、実はその裏にはアメリカ社会の「人と仕事」の仕組みに関する大きな時代の変化があります。製造業中心時代の「一日8時間・常時雇用・オフィスに通勤」というスタイルでカバーできない部分があまりに大きくなっているのです。こうした流れの中、労働だけでなく、教育や採用など、いろいろなレベルでさまざまな取組が行われています。

メツラーも、現在教鞭をとっているUCバークレーHaasビジネススクールの日本に関する授業において労働に関するトレンドを取り上げます。さらに、ジャパン・ソサエティにおいても、このテーマに関する公開イベントを開催する予定です。(5月半ばを予定、詳細は後ほどお知らせします。)

一方、住まいや都市についても、大きな変化が訪れています。ウーバーが流行した背景にある「利用者側」の事情とは、アメリカの都市回帰・脱自動車社会の一つの先端的な現象で、「個人で自動車を保有+郊外の大きな家に住んで自動車で生活」とういライフスタイルが少しずつ崩れてきている、ということです。こうした時代の流れに合わせて、連邦運輸省では「スマート・シティ・チャレンジ」をすすめており、今月その最終選考に残った7都市が発表されました。

オンデマンド・サービスのもう一つの雄であるエアビーアンドビーは、家をホテルのように貸し出してシェアするサービスですが、それどころではなく、さらに進んだシェアリング・サービスがついに出現。Roamという「Co-living」サービスで、一ヶ月1600ドル払って、世界中の人たちと住まいをシェアしましょう、という究極の(一時流行した用語でいうと)「ノマド」生活を目指すサービスです。ただし、現在のところ稼働しているのはまだ3ヶ所ぐらいのようです。(写真はRoamサイトより)

その背景には、サンフランシスコの生活コストがバカ高くなっているということがあります。(下図)2011年以来、毎年3%ずつ上がっているということで、2011年に1ドルで買えたものが今は1.16ドル払わないといけないことになります。最近はガソリンや衣類は下がっているのに、住居費・食費などが上がっているのでこの結果。一時は世界に冠たる「モノが高い国」だった日本に行くと、最近はやたらになんでも安く見えます。特に食べ物は、質に対してあんなに安いのはどう考えても変だろうと思うぐらいです。

その「変」な原因の一端が外食産業の賃金の安さと言われており、これがまた日本の「人と仕事」の問題で、最初の話題に戻る・・というループにはいってしまいそうなので、本日はここまでといたします。
- Michi

Friends,

It’s been a momentous few weeks. We wrapped up our work for Japan’s NICT.  Jon’s Haas telecom and media (and Internet, and sharing) class in the evening MBA program has come to a close.  As always, March was a flurry of deadlines and events, and now it’s on to the spring season.

Our post on corporate venture capital - CVCs, don’t go wobbly! - got a response. But, we’ll stand by it - now is the time when CVCs can get some real value for their investment / NRE dollars.  

We’ve been looking at the theme of people, and cities. Michi published a paper on the 1099 economy. Having done so last summer, Jon will look at labor trends in his upcoming Japan class at Haas, and will organize a panel on the theme for the Japan Society.  (Most likely for the week of May 16. Stay tuned.) We also saw some interesting experiments aimed at the nexus of people, cities, and quality of life, such as DoT down-selecting 7 candidates for its Smart City Challenge.

And then there’s RoamKim Mai Cutler, who has tenaciously beaten the drum on the subject of housing and quality of life in the Bay Area, announced she was quitting the Bay Area for an experiment in co-living, namely the aforementioned Roam. Housing for tech nomads?  To Certainly it could work for remote coders / concierges, and just those who want to explore the world without cutting the employment tether.  

Backdrop: the cost of living in the San Francisco has increased 3% year on year since 2011.  What was a dollar in 2011 is $1.16 now. The Bureau of Labor Statistics notes that energy and apparel prices in San Francisco have dropped, the former at about the same rate that “shelter” costs have increased. So if energy (gas) and shelter net each other out, then the overall upward pull would likely be in food and other staples.  Certainly one feels this at restaurants, or when buying a cup of coffee, increases in the cost of which became a subject in 2011.

March showers have brought April flowers. It’s spring in the Bay Area. Come see us.

- Jon

【The Signal #10】インテル・キャピタルとCVCの考察

少々前になりますが、パートナーであるBlue Field StrategiesニュースレターThe Signal #10に下記を寄稿しました。


日本の大企業が、イノベーションの突破口を探すためにシリコンバレーのベンチャーと関係を築こうと、当地に戻ってくる動きがここ数年相次いでいます。そのためのベンチャー投資を行うために、コーポレート・ベンチャー・キャピタル(CVC)を設立することも多いです。

さて、そのCVC分野で不動のトップといえばインテル・キャピタルです。過去25年以上にわたり、数多くの大成功ベンチャーに投資してきた実績に輝く同社ですが、つい最近、保有ポートフォリオのうち10億ドル以上を売却する予定との報道があり、ベンチャー業界に驚きが広がっています。

売却の理由は、外因ではなく内因であり、インテルの本業戦略とつながりが弱いことが指摘されています。確かに、インテル・キャピタルの人は「自分たちはファイナンシャル・インベスターであって、本業シナジーよりもリターンを重視する」と明言しており、投資先分野の選定で考慮するとか、まわりまわってインテルのチップの売上に寄与しそうとか、多少の関連がある程度にとどまります。

リターン重視か、本業シナジーか、のバランス問題は、日本企業も含め、CVCでは常について回ります。そこを突破して、シリコンバレーの大手VCと肩を並べる格をもつに至っているCVCは、インテルとあとはグーグルぐらいしかありません。他にも問題はいろいろあり、なにしろCVCというのはなかなか難しい商売だといえます。

ここまでは一般論ですが、現在は伝統的ベンチャー・キャピタル(CVCでないもの)の資金流入が減速しつつあり(下記グラフ参照)、その中で、より長期的投資を指向するCVCが見直される可能性もあります。

Total VC deals and dollars: 2015. Source: NVCA

投資を受ける側からすると、CVCからの投資を受けると、「投資家の競合相手をお客さんにできるか」という点での制約があり、これもCVCの難しさの一つです。しかし、他の一般VCからの資金がアテにならない場合には、CVCからの投資を受け入れることをより前向きに考えることになります。

ベンチャー資金全体とCVCは過去何年にもわたって乱高下を繰り返しています(下記グラフ参照)。一つ言えることは、CVCで成功するためには、厳しい時期にすぐ諦めず、根気強く続けていくことが大切、ということだと思います。 

VC investment, CVC investment, and CVC deal participation rate: 1995-2015. NVCA data

-Michi

We were kidding when we said the rain had ebbed in the Bay Area. Really kidding.  (In sum: reservoirs are filling, groundwater far from being refilled.)

We were struck by the news that Intel Capital might sell off its portfolio, or at least $1B of it. First, Intel Capital is likely the most active corporate venture firm in history, or at least is over its 25-year life.  Should this be treated as a bellwether for the CVC sector? Or a move driven by Intel-specific strategy? In the latter category, GE’s exit from its positions as GE Capital comes to mind as a comparable.  That’s apples-to-oranges in that Intel Capital isn’t financing Intel customers, but rather putting Intel’s cash flow of today into the innovative businesses of tomorrow.   But to the extent this move is driven by internal strategy, not external climate, we can point to GE’s exit of its Capital portfolio as a comparable.

Our own personal experience with Intel Capital puts them as somewhat unique within CVC. Most CVCs follow a lead. Intel Capital will set the terms of an investment. They know that Intel’s imprimatur can “make” a startup, and act accordingly. They also invest with the goal of financial return, not just strategic.

By the way, this news comes right as we posit that now is the time for corporate venture. Either we are contrarian or just plain wrong. Still, if you believe the goal of corporate venture is to invest today’s cash flow into nurturing tomorrow’s innovative technology, then it makes sense to do so when traditional VC money is getting a little harder to find, as shown in the chart below.  (First chart above)

When the flow of VC money is slowing, startups may be more willing to accommodate CVC-specific requests.  Speaking as an alum of a startup (Rosum) funded by Motorola Ventures, Steamboat Ventures (Disney), and In-Q-Tel (US intelligence community), the challenge for startups with CVC money is always determining whether the corporate investor request is an “n of 1” or an “n of many”.  (N=1 means non-scalable product, customized to one buyer. This is not a startup business model.)  Still, at a time when traditional VC is more scarce, now is the time that entrepreneurs may heed CVC requests more closely.  We say this as CVC deal participation is at 1999 and 2008 levels, but could also potentially be at the peak of its sawtooth pattern as shown in the chart below – the light blue line shows CVC deal participation rate.  (Second chart above)

We have seen CVCs retract from Silicon Valley and then come back again, and can only say that persistence is its own reward.  

– Jon

【女性経営者の系譜1】「あさが来た」とヴーヴ・クリコの物語

「あさが来た」は当地アメリカでも日本語チャンネルで放映しており、私も毎日見ている。一応宣言しておくと、私は新次郎派ではなく五代様派である。

あさちゃんを見ていると、さらに100年ほど前のもう一人のフランスの女性経営者を思い出してならない。現代もシャンパンの大手として世界的に知られるヴーヴ・クリコ社を興した、バーブ・ニコール・ポンサルダンである。彼女の物語は、「Widow Clicquot」(クリコ未亡人)という本に詳しい。うまくシリーズになるかどうかよくわからないが、まずはこの本をもとにした彼女の話から書き始めてみたいと思う。

シャンパーニュ地方で発泡ワインを発明したのは、これまた現代に名前の残るドン・ペリニヨンという修道士だったと言われているが、本によると、これは多分に「マーケティング目的の伝説」ではないかとされる。当時は泡ができてしまっては失敗だったので、ペリニヨンさんはなんとか「泡が出ないように」と研究していたのだという。

なにしろ、彼の研究で泡が出る原因が理解されて、シャンパンが商品化され、ルイ14世が異常に愛したおかげでフランス貴族の間でシャンパンがもてはやされるようになった。その頃、シャンパーニュ地方の実業家フィリップ・クリコという人がシャンパンづくりを始めた。といっても、シャンパンだけ作っていたのではなく、この時代によくある、いろいろな事業をもつミニ・コングロマリットのような感じで、フィリップの息子フランソワは主に毛織物の取引と金融業を手がけていた。この息子にお嫁にきたのが、バーブ・ニコールである。バーブ・ニコールの実家ポンサルダン家は、繊維事業を保有する裕福な実業家で、政治家でもあった。

フランソワは若くして病気で亡くなり、バーブ・ニコールは未亡人(フランス語でヴーヴVeuve)となった。紆余曲折の末、義父フィリップとバーブ・ニコールがパートナーシップで事業を運営する形となり、またシャンパン事業に専念することとなった。このため、現在でも正式な社名は、両者の苗字を合わせた「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」となっている。

しかし、風雲急を告げる時代である。フランス革命が起こり、シャンパンの顧客であった貴族という人たちがいなくなってしまい、シャンパンの商売は危機を迎える。バーブ・ニコールは、当時の大新興市場であったロシアに市場拡大をはかり、ちょうど軌道に乗りかけた頃、ナポレオン戦争が起こる。ロシアもフランスと戦争となり、シャンパンの輸出ができなくなってしまった。

このとき、バーブ・ニコールは大きな賭けに出る。戦争が終わり、経済制裁が解かれそうだがいつになるかまだわからない、という頃に、アムステルダムまで陸路で密かに大量のシャンパンを輸送、そこからロシアまでつてを頼って船で密輸するという計画を立てた。しかし、結局その船は出ることができず、倉庫に大量のシャンパンが眠る状態となった。当時の技術ではシャンペンを質を保って長期保存することは難しく、今さら持って帰ることもできない。どこにも動かせないまま時間が経ってシャンパンがダメになったらクリコ社は倒産、というとき、ギリギリの時期に禁輸が解け、港からロシアにすぐに出荷することができた。このおかげで、他のシャンパン・メーカーを大幅に出し抜いて、クリコ社はロシアで圧倒的なシェアを持つようになり、欧州各国でも広がり、世界的なブランドとなったのである。

その後、さらにバーブ・ニコールは、製造技術の革新もおこなった。シャンパンの製造過程でどうしてもイーストの澱がたまるのだが、これを除去するのは、熟練の職人が手作業で行っていたため、シャンパンの大量生産のネックとなっていた。バーブ・ニコールは、技術者と一緒にいろいろ工夫する中で、二次発酵の間、ビンを蓋で密閉して斜め下向けに傾けて保存できるラックを発明。発酵期間中にときどきビンを回して澱をビンの口にため、その後ビンを取り出し、上向きにしながら一気に蓋を抜くと、空気がポンと抜けるときに澱も一緒に飛び出す、というdégorgement(デゴルジュマン)という手法である。

バーブ・ニコールが1866年に亡くなった後、同社は曾孫娘が相続、1987年にはルイヴィトン・モエヘネシー(LVMH)社の傘下にはいっている。1972年以来、同社は世界の優れた女性経営者を表彰する「ヴーヴ・クリコ女性経営者」を付与している。

富裕な家に生まれ、嫁ぎ先が時代の変化で危機に陥り、その家業の経営を引き継いでさらに新事業として発展させた、という経緯は、あさちゃんとまるで同じでなのである。

東京民泊戦争: 「外国からの来訪者」としての見方

またもや、「民泊」に関するNewspicksコメントに意外なほど多数のlikeをいただいたので、コメントに書ききれなかったことを追記してみる。

少し前に「オンデマンド労働」に関するレポートをKDDI総研サイトに寄稿した。ここでは労働力の供給について問題にしたが、民泊というオンデマンド宿泊についても同様で、キーは「従来よりも、はるかに多様なタイプの供給を爆発的に増やす」ということが画期的だと思う。

地方は事情が異なるが、東京に関して言えば、しばしば「外国人旅行者が増えて需要が増大し、宿の供給が足りない」ということが言われる。確かに、私も東京出張時にホテルが取りづらくて苦労している。

もう一つの側面としては、東京のホテルが「一人または二人の単位で宿泊する形態に最適化している」ということがある。昨年末東京でairbnbを利用した動機は、「家族全員」で泊まろうとすると、ホテルなら2部屋とらなければならず、ベラボウに高くなってしまうということだった。我が家の子どもたちはもう大人サイズなので、一人づつベッドが必要。それで、都内で広い部屋に泊まった。(地方の温泉宿では、ふつうに旅館に全員で泊まったので問題なかった。)同じオーナーが隣にもっと大きな一軒家を持っていてやはり貸していたが、そこにはフランス人の大家族が、おばあちゃんから赤ちゃんまでみんなで長期滞在していた。オーナーは海外経験が豊富な方で、外国人対応まったく問題ナシ。

ホテルは設備投資が大きいので、どうしても「最も需要が大きいタイプの宿泊形態」に合わせる。我が家やこのフランス人家族のような需要は、全体からみればわずかしかない。そんなマイノリティのために、わざわざ家族用の大きな部屋を作って遊ばせておく余裕などない。また、外国人対応を可能にするには、外国語のできるスタッフを雇うという余計なコストがかかるので、中小ホテルではそのコストをかけず、出張者や冠婚葬祭などで東京に出てくる日本人を相手にしているほうが効率がよかったわけだ。しかし、airbnbで個人オーナーが全世界を相手にすれば、商売が成り立つという仕組みが新しくできたわけだ。ありがたや。

さらにもう一つ、気づいたことがある。airbnbの貸し手になるには、本気でコレで商売する覚悟が必要だと実感したということだ。私自身、ちょっとこの商売やってみようか、と考えたことがあるが、東京で2ヶ所泊まったところのオーナーさんは、いずれも私からのメールや電話にすぐに返答し、到着時間に合わせてカギを受け渡すなど、24時間体制で対応してくださった。24時間ずっとこの仕事をやっているワケではないが、連絡があればすぐに出動できる状態でいなければならない、という大変さは、母親業で日々実感しているだけに、よくわかる。もちろん、ちゃんとやらないオーナーもいるだろうが、そういう人はあっという間に悪いレビューを書かれて沈んでしまうだろう。何事も人様にお金を頂いて商売するということは大変なことだ。それで、私が貸し手になるのは断念した。フロントがあってスタッフが24時間対応してくれる、という点は、民泊に比べてホテルのよい点であることは確かだ。カギの受け渡しの打ち合わせがけっこう面倒だったので、一人で出張するならできればホテルがいいな、とも感じた。それでも、民泊のオーナーさんは、出来る限り対応する努力をしているアントレプレナーだ。その営業努力には頭が下がった。

ついでに小さい話だがもう一つ。これまた少し前に、「外国人旅行者が好きな日本の観光スポット」として、意外なものが上位に上がってきたという記事があった。外国人だけではなく日本人も含めて、今どきの旅行者にとって、SNSにアップして話題になりやすい、「ユニークなフォトジェニック」であることはとても重要だと思う。当たり前の作りのホテルや旅館では写真に撮ろうと思わない。ユニークな体験をしやすい、airbnb的な世界のほうが、Facebookにアップしたい意欲がわく。

外国人旅行者が騒いで他の住民に迷惑をかけるというケースが実際には全体の中でどのぐらいあるのだろう?その被害と、これまでいろいろな理由で東京に泊まれなかった外国人旅行者が民泊のおかげで泊まれるようになって東京が受ける恩恵と、どっちが大きいのだろう?私のケースはごく小さな個人の感想でしかないが、マクロで見てどうなのか、興味深いところだ。そして、ホテル側がこの新しい状況に対抗するには、一方的に反対反対ではなく、「なぜ民泊がウケるのか」を自分で実感してみて、その上で自分たちの制約の中でできる適切な対策を打っていくという必要があると思う。というか、そうしてほしいものだ。

「サード・オフセット戦略」とシリコンバレー

一昨日、Newspicksで「米国のハイテク兵器がすごい」という記事にこんなコメントを何気なく入れたのだが・・・

こんな国に勝てるわけない、というほどの高度な武器を持ってそれをあえて宣伝することは、大国同士の戦争抑止につながる情報戦。

ちょうどその翌日、地元のフォーラムに行ってみたら、米国国防省の人が来ていて、まさにこの話を始めたのでビックリ。そして、この件にはちゃんと名前がついていることも判明した。その名を「サード・オフセット戦略」という。

オフセット戦略とは、予算や兵員数などある部分で仮想敵国に対し自国が劣っている場合、別の面で圧倒して力の差を打ち消す(オフセット)という軍事戦略用語で、米国の場合はその「別の面」とは常に「最新鋭技術」である。ファースト・オフセットは第2次世界大戦時の核兵器。しかし、大戦後にソ連陣営が追いついてきたので、今度は70年代から、インターネット・GPS・ステルス機などによる「セカンド・オフセット」を実施。湾岸戦争ではその成果を見せつけて世界に宣伝する結果となった。ところがそれで安心していたら、最近ではロシアも中国もまた追いついてきてしまった。

それで、今度は3番目の新しいオフセット戦略を実行する、ということが2014年に発表されている。技術要素としては、ディープ・ラーニング、ドローン、ロボティクス、メッシュネットワークなどといったものが想定されている。

そして、「民間の新興企業との協力」というのも、そのコンセプトの中にしっかり含まれている。この方針に基づき、昨年秋に、国防省のリエゾンオフィスがシリコンバレーに設立されたのだそうだ。やっていることやその苦労話は、AT&Tのような米国の域外大企業がシリコンバレーとのつきあい方に四苦八苦しているのとまるっきり同じである。

ということで、私のコメントはだいたいあってたと、ちょっとドヤ顔したかったので書いてみただけだ。

(写真は2014年にサード・オフセット戦略を発表するヘーゲル国防長官。出典:米国防省)

 

ベイエリアの歴史(37)- フランス植民地はビジネスモデル不在

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本日は脱線の回です。今回のフランスでのテロ事件と、アフリカ・イスラム圏の旧フランス植民地の事情が関係あるのかわかりませんが、旧フランス植民地は不安定で争いが多い、といわれます。この点につき、ここまで植民地のビジネスモデルについて書いてきた中で、私なりにいろいろ考えます。簡単に言うと、フランスの植民地は、「ビジネスモデルがなかった」、あるいは何かあったとしてもきちんとエクセキュートできず、このため植民地の住民と共存共栄の関係を築くことができなかったのでは、と考えています。 (26)で書いたように、フランスの植民地は前期と後期に分けることができます。「前期」はアメリカ大陸でしたが、カナダをイギリスに取られ、ナポレオンがルイジアナをやけくそでアメリカ合衆国に売却して、いったん全部なくなってしまいます。古い時代の植民地ビジネスモデルの典型は、オランダ型の「アービトラージ貿易の拠点」であり、より新しいモデルとしてイギリス型の「土地投機」がアメリカで行われましたが、フランスはどちらのモデルも作れず、植民地からの収入よりもメンテナンス・コストのほうが高くなって、植民地を維持できなくなったのでしたね。

さて、そのフランスが再度植民地競争シーンに登場するのは、19世紀半ば頃のナポレオン3世の時代です。この人は19世紀最大の奇人ともいえる超変な人で、別の記事でもう少し詳しく書きたいと思いますが、なにしろ「フランスの栄光を再び」ということで、当時先行していたライバルのイギリスに負けないよう、突如として植民地獲得に乗り出しました。イギリスがまだがっちり確保していなかったところ、つまりは「二級立地」に進出するという「モスバーガー戦略」でありましたが、「選択と集中」を全然せず、アフリカと中近東とインドシナと南太平洋と、などと手当たり次第に戦線を拡大していき、最後はメキシコで致命的なミスを冒して、彼自身の転落につながっていきます。

ナポレオン3世の手当たり次第なやり方は、ちゃんとした「ビジネスモデル」があってやっていたのではなく、イギリスとの競争に煽られ、「国家威信」にドライブされていたように見えます。

イギリスの場合は「土地投機」ですから、入手した土地が価値を生み出すようにしないといけません。現代の土地デベロッパーが、工場を誘致したりショッピングモールを建てたり、アクセスのための道路や鉄道を作るのと同じです。そこで、植民地にプランテーションをつくり、インドやアメリカで綿花を作ってイギリスに持ってきて製品にして売るという仕組みをつくり、そのための輸送や通信のインフラを整備し、人も大量に送り込んでいます。良かったのか悪かったのかの価値評価は置くとして、兎にも角にも植民地に資金と人が投下され、インフラで恩恵を蒙る「味方」も現地にそれなりにたくさん存在しました。

しかし、19世紀後半の短期間に急激に薄く広がったフランスの植民地では、イギリスほどの投資やインフラ整備が行われた様子はありません。「前期植民地」のカナダ・アメリカでも、フランスの「インフラ投資不足」が直接命取りになったのですが、非白人住民の多い「後期植民地」では、現地住民の民族分布を完全に無視した行政区分を敷き、住民の土地所有を認めず、現地住民を低い立場において、搾取する構造を作りました。土地に投資して上がりを得るビジネスでなく、「国家威信」が主な目的であったように見える所以です。

ナポレオン3世がこれほど急激に植民地を拡大できたのは、他のヨーロッパ強国が、ナポレオン戦争後にフランスを封じ込めるための「ウィーン体制」という複雑なパワーバランスをヨーロッパ域内で維持することを重視し、その代わりフランスがヨーロッパの外でジャイアン化して暴れるのには目をつぶっていたという事情もあります。

347px-Dame_Europa_25ジャイアン化したナポレオン3世

そして、ナポレオン3世を選挙で選んだ(彼は最初大統領に当選し、その後皇帝になった)フランス国民は、ナポレオン時代の「大きな領土を持つ栄光あるフランス」を良きものとみなし、そのフランスの領土を再び拡大するナポレオン3世のやり方を支持していました。19世紀ヨーロッパ歴史講義で、講師のロバート・ワイナー教授は「現代でも、フランス国民は一般に広い植民地を持っていたことを誇りと考える傾向が強く、評価の低かったナポレオン3世が再評価される中でも、特に植民地の拡大が彼の功績として見直されている」と述べています。

なお、日本にフランスが最初にやってきたのも、まさにナポレオン3世の時代、日本の幕末でした。それまで江戸時代中期から後期にかけて、日本の沿岸に出没していたのは、おもにオロシャ(=ロシア)とエゲレス(=イギリス)だったのに、この頃突然フランスがやってきて、徳川幕府に取り行ったのは、奇人ナポレオン3世のジャイアン政策のせいです。彼は、当時最大のライバルであったイギリスに対して、植民地では融和的な行動をとることが多かったのですが、日本では例外的に、フランスは幕府、イギリスは薩長と別れて戦いました。結果はみなさまご存知のとおりです。

19世紀後半以降の帝国主義時代、日本から見ると「欧米列強」は、どいつもこいつも同じように、領土拡大にひた走っていたように見えますが、拡大した領土にどれだけ投資して何を作ってどう儲けるか、という戦略において、やはりイギリスがずば抜けて上手かったと言えそうです。スペインは当時すでに脱落気味、ロシア・ドイツ・イタリアはあまりにも参入が遅くて間に合わず、そしてフランスは表面だけイギリスの真似をして領土を拡大したところで終わってしまった、と言えそうです。

出典:Wikipedia, Long 19th Century: European History from 1789 to 1917

ベイエリアの歴史(36) - 「ジューイッシュ戦略」も封じられた日系人

「人種差別」には、ふたつの側面があります。一つは①外見や慣習の異なる人達に対して、どう扱っていいのかわからない、共通の関心事がなくつきあいづらい、彼らの生活慣習は自分たちにとって迷惑である、といった感情的な面。もう一つは②安価な労働力を安定的に確保するため、敢えて特定のグループの人たちを低い地位にしばりつけておこう、という社会構造的な面です。 ①の「お前らキライだ」というだけなら、そもそも国に入ってこないようにしたり、国に帰れと追い出したりするのですが、②の安価な労働力が欲しい人たちがそれなりにいれば、移民を受け入れることになります。安価に抑えるためには、そのセクターが常に供給過剰でなければならないので、最下層に移民をたくさん受け入れることになります。アメリカで移民の流入が爆発的に増えるのは19世紀後半から20世紀初頭にかけての「泥棒男爵の時代」、つまり未洗練・荒唐無稽の資本家が力にまかせて跋扈した時代であり、泥棒男爵達が安価な労働力を必要としたからでしたね。そして泥棒男爵たちは、一種類のグループだけだとアイリッシュのような政治的な勢力になってしまうので、あえて細かく分ける、という戦略をある程度意識的にとったのかもしれません。「①排斥」があるのに、なぜ完全にシャットダウンしないかというと、「②受け入れ+差別」のメリットがあるからです。

実はありがたいはずの安価な労働力に対し、時々大きな排斥運動が起こるのは、下層にいる既存住民が、競合勢力がはいってきて自分たちの給与水準が下がることを嫌うことが大きな要因で、そこに①の感情要因が加わります。つまり、下層民ほど「排斥」側に寄ります。一方で、彼らをつかって甘い汁を吸う人たちは、新しいグループを次々と入れ、勝手に自分たちで争うように、つまり下層民を分断するようにし、自分の手を汚さずにニンマリしています。こうした泥棒男爵は「受け入れ+差別」に寄ります。このとき、カリフォルニアでニンマリしていた代表例が、鉄道王であり政治家としても権勢を振るった、例のレランド・スタンフォードです。この分断構造に気づいてしまった人たちが「万国の労働者よ団結せよ」という方法を編み出したのも、ちょうどこの時代です。

そして、日系人コミュニティでは①の排斥「感情」をできるだけ抑えようと、アメリカ社会に溶け込むための大変な努力を続けてきました。それでも差別が続いたのは、白人といかにも見かけが違うという①の面が拭えなかったことに加え、②の構造要因が引き続きあり、それに太平洋戦争の要因が加わった、という3つの要因があると思います。精神論だけでは、移民の問題は解決しないのです。

(30)で述べたように、日系より前に、すでに中国系移民がたくさん北カリフォルニアにはいっており、「中国人排斥法」ができていました。この時点では中国人に対して②より①のほうが強くなってしまったのですが、泥棒男爵さんたちがまだまだ移民を必要としていたので、日本人が入ってくることになりました。

サンノゼでも中国人排斥が激しく、中国系の人たちには家主がアパートを貸さなかったのですが、おそらくは宗教的な信条から、中国人を受け入れてくれたジョン・ヘインレンという地主があり、彼の所有地がサンノゼのチャイナタウンとなりました。なお、ヘインレンさんはメソジスト教徒であり、「メソジストの人たちは一般に日系移民に親切だったため、多くの日系人がメソジストに改宗した」というお話を、現在でも日本町の中心であるウェスレー合同メソジスト教会のキース・イノウエ牧師が語ってくださいました。

幸い、ここでは「分断」が起こらず、チャイナタウンの人たちは新しくはいってきた日系移民を受け入れてくれました。習慣が似ていて、日本に近い食べ物や生活用品が入手できるということで、日本人がチャイナタウンの近辺に住むようになり、初期の頃に日系農家が必要なものを購入するのにクレジットを供与してくれたのも、日系農家の産物を買ってくれたのも、チャイナタウンの商店でした。

日本町で講演をしてくださったジミさんが生まれたのは1922年頃で、ジミさんは日本町の産婆さんのところで生まれたそうです。この頃、日系人は病院を使うことができなかったからです。日系人が医師になることもできませんでした。ジミさんは本当は大工になりたかったのですが、「なれない」と言われました。そのための教育を受けることはできないことはなかったけれど、卒業後に大工の組合にはいることができず、そうすると仕事が来ないので、実質的には「なれない」からやめておけ、と学校の先生に言われたのです。

米国南部の黒人差別のような、制度的なあからさまな差別ではなかったけれど、こうした形で日系人は、専門職としての技能を身につけてのし上がる、という道も封じられていました。以前述べた、移民ののし上がり戦略の典型として、敢えて特色あるコミュニティを維持して数の力で政治に参加していく「アイリッシュ戦略」を挙げましたが、人数が少ない場合、教育により技能を身につけ、専門職として個人の地位を向上させるという、ユダヤ系型の「ジューイッシュ戦略」があります。数が少ない日系人は「アイリッシュ戦略」が採れませんでしたが、技能職から締め出されていたので、「ジューイッシュ戦略」の道も封じられていました。

こうしてサンノゼの日系移民は、「農業」に縛り付けられていました。しかし、1913年にCalifornia Alien Land Lawができ、1920年にはそれが強化されて、日系人は土地を所有することも、長期リースすることもできなくなりました。1920年の法改正は、日系人排斥の激化に伴い、日系農家をターゲットにしていました。それでも農業しかできなかったので、日系農家は、白人農家に「名義貸し」をしてもらっていました。土地改良や農器具への投資も日系人が行い、本当に単に名前を貸すだけなのに、売上のかなりの部分を白人農家が取っており、貸した白人農家はおいしい商売でした。

日系ミュージアムで当時の農機具展示を見ながら、差別で甘い汁を吸っている②的な人というのが必ずどこかにいるものだなー、と改めて思った次第です。

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当時日系人農家が産物の出荷に使っていた箱。日本人の名前は全く記載されていない。(サンノゼ日系アメリカ人ミュージアム展示)

出典: San Jose Japantown - A Journey、The Japanese American Museum of San Jose, Wikipedia