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【The Signal #11】 アメリカの「人」と「住」に関する長期トレンド

パートナーであるBlue Field StrategiesニュースレターThe Signal #11に下記を寄稿しました。

少し前、海部は「オンデマンド労働」に関するレポートを書きました。これが話題になっている直接の引き金は、ご存知ウーバーの「運転手側」の事情ですが、実はその裏にはアメリカ社会の「人と仕事」の仕組みに関する大きな時代の変化があります。製造業中心時代の「一日8時間・常時雇用・オフィスに通勤」というスタイルでカバーできない部分があまりに大きくなっているのです。こうした流れの中、労働だけでなく、教育や採用など、いろいろなレベルでさまざまな取組が行われています。

メツラーも、現在教鞭をとっているUCバークレーHaasビジネススクールの日本に関する授業において労働に関するトレンドを取り上げます。さらに、ジャパン・ソサエティにおいても、このテーマに関する公開イベントを開催する予定です。(5月半ばを予定、詳細は後ほどお知らせします。)

一方、住まいや都市についても、大きな変化が訪れています。ウーバーが流行した背景にある「利用者側」の事情とは、アメリカの都市回帰・脱自動車社会の一つの先端的な現象で、「個人で自動車を保有+郊外の大きな家に住んで自動車で生活」とういライフスタイルが少しずつ崩れてきている、ということです。こうした時代の流れに合わせて、連邦運輸省では「スマート・シティ・チャレンジ」をすすめており、今月その最終選考に残った7都市が発表されました。

オンデマンド・サービスのもう一つの雄であるエアビーアンドビーは、家をホテルのように貸し出してシェアするサービスですが、それどころではなく、さらに進んだシェアリング・サービスがついに出現。Roamという「Co-living」サービスで、一ヶ月1600ドル払って、世界中の人たちと住まいをシェアしましょう、という究極の(一時流行した用語でいうと)「ノマド」生活を目指すサービスです。ただし、現在のところ稼働しているのはまだ3ヶ所ぐらいのようです。(写真はRoamサイトより)

その背景には、サンフランシスコの生活コストがバカ高くなっているということがあります。(下図)2011年以来、毎年3%ずつ上がっているということで、2011年に1ドルで買えたものが今は1.16ドル払わないといけないことになります。最近はガソリンや衣類は下がっているのに、住居費・食費などが上がっているのでこの結果。一時は世界に冠たる「モノが高い国」だった日本に行くと、最近はやたらになんでも安く見えます。特に食べ物は、質に対してあんなに安いのはどう考えても変だろうと思うぐらいです。

その「変」な原因の一端が外食産業の賃金の安さと言われており、これがまた日本の「人と仕事」の問題で、最初の話題に戻る・・というループにはいってしまいそうなので、本日はここまでといたします。
- Michi

Friends,

It’s been a momentous few weeks. We wrapped up our work for Japan’s NICT.  Jon’s Haas telecom and media (and Internet, and sharing) class in the evening MBA program has come to a close.  As always, March was a flurry of deadlines and events, and now it’s on to the spring season.

Our post on corporate venture capital - CVCs, don’t go wobbly! - got a response. But, we’ll stand by it - now is the time when CVCs can get some real value for their investment / NRE dollars.  

We’ve been looking at the theme of people, and cities. Michi published a paper on the 1099 economy. Having done so last summer, Jon will look at labor trends in his upcoming Japan class at Haas, and will organize a panel on the theme for the Japan Society.  (Most likely for the week of May 16. Stay tuned.) We also saw some interesting experiments aimed at the nexus of people, cities, and quality of life, such as DoT down-selecting 7 candidates for its Smart City Challenge.

And then there’s RoamKim Mai Cutler, who has tenaciously beaten the drum on the subject of housing and quality of life in the Bay Area, announced she was quitting the Bay Area for an experiment in co-living, namely the aforementioned Roam. Housing for tech nomads?  To Certainly it could work for remote coders / concierges, and just those who want to explore the world without cutting the employment tether.  

Backdrop: the cost of living in the San Francisco has increased 3% year on year since 2011.  What was a dollar in 2011 is $1.16 now. The Bureau of Labor Statistics notes that energy and apparel prices in San Francisco have dropped, the former at about the same rate that “shelter” costs have increased. So if energy (gas) and shelter net each other out, then the overall upward pull would likely be in food and other staples.  Certainly one feels this at restaurants, or when buying a cup of coffee, increases in the cost of which became a subject in 2011.

March showers have brought April flowers. It’s spring in the Bay Area. Come see us.

- Jon

【The Signal #10】インテル・キャピタルとCVCの考察

少々前になりますが、パートナーであるBlue Field StrategiesニュースレターThe Signal #10に下記を寄稿しました。


日本の大企業が、イノベーションの突破口を探すためにシリコンバレーのベンチャーと関係を築こうと、当地に戻ってくる動きがここ数年相次いでいます。そのためのベンチャー投資を行うために、コーポレート・ベンチャー・キャピタル(CVC)を設立することも多いです。

さて、そのCVC分野で不動のトップといえばインテル・キャピタルです。過去25年以上にわたり、数多くの大成功ベンチャーに投資してきた実績に輝く同社ですが、つい最近、保有ポートフォリオのうち10億ドル以上を売却する予定との報道があり、ベンチャー業界に驚きが広がっています。

売却の理由は、外因ではなく内因であり、インテルの本業戦略とつながりが弱いことが指摘されています。確かに、インテル・キャピタルの人は「自分たちはファイナンシャル・インベスターであって、本業シナジーよりもリターンを重視する」と明言しており、投資先分野の選定で考慮するとか、まわりまわってインテルのチップの売上に寄与しそうとか、多少の関連がある程度にとどまります。

リターン重視か、本業シナジーか、のバランス問題は、日本企業も含め、CVCでは常について回ります。そこを突破して、シリコンバレーの大手VCと肩を並べる格をもつに至っているCVCは、インテルとあとはグーグルぐらいしかありません。他にも問題はいろいろあり、なにしろCVCというのはなかなか難しい商売だといえます。

ここまでは一般論ですが、現在は伝統的ベンチャー・キャピタル(CVCでないもの)の資金流入が減速しつつあり(下記グラフ参照)、その中で、より長期的投資を指向するCVCが見直される可能性もあります。

Total VC deals and dollars: 2015. Source: NVCA

投資を受ける側からすると、CVCからの投資を受けると、「投資家の競合相手をお客さんにできるか」という点での制約があり、これもCVCの難しさの一つです。しかし、他の一般VCからの資金がアテにならない場合には、CVCからの投資を受け入れることをより前向きに考えることになります。

ベンチャー資金全体とCVCは過去何年にもわたって乱高下を繰り返しています(下記グラフ参照)。一つ言えることは、CVCで成功するためには、厳しい時期にすぐ諦めず、根気強く続けていくことが大切、ということだと思います。 

VC investment, CVC investment, and CVC deal participation rate: 1995-2015. NVCA data

-Michi

We were kidding when we said the rain had ebbed in the Bay Area. Really kidding.  (In sum: reservoirs are filling, groundwater far from being refilled.)

We were struck by the news that Intel Capital might sell off its portfolio, or at least $1B of it. First, Intel Capital is likely the most active corporate venture firm in history, or at least is over its 25-year life.  Should this be treated as a bellwether for the CVC sector? Or a move driven by Intel-specific strategy? In the latter category, GE’s exit from its positions as GE Capital comes to mind as a comparable.  That’s apples-to-oranges in that Intel Capital isn’t financing Intel customers, but rather putting Intel’s cash flow of today into the innovative businesses of tomorrow.   But to the extent this move is driven by internal strategy, not external climate, we can point to GE’s exit of its Capital portfolio as a comparable.

Our own personal experience with Intel Capital puts them as somewhat unique within CVC. Most CVCs follow a lead. Intel Capital will set the terms of an investment. They know that Intel’s imprimatur can “make” a startup, and act accordingly. They also invest with the goal of financial return, not just strategic.

By the way, this news comes right as we posit that now is the time for corporate venture. Either we are contrarian or just plain wrong. Still, if you believe the goal of corporate venture is to invest today’s cash flow into nurturing tomorrow’s innovative technology, then it makes sense to do so when traditional VC money is getting a little harder to find, as shown in the chart below.  (First chart above)

When the flow of VC money is slowing, startups may be more willing to accommodate CVC-specific requests.  Speaking as an alum of a startup (Rosum) funded by Motorola Ventures, Steamboat Ventures (Disney), and In-Q-Tel (US intelligence community), the challenge for startups with CVC money is always determining whether the corporate investor request is an “n of 1” or an “n of many”.  (N=1 means non-scalable product, customized to one buyer. This is not a startup business model.)  Still, at a time when traditional VC is more scarce, now is the time that entrepreneurs may heed CVC requests more closely.  We say this as CVC deal participation is at 1999 and 2008 levels, but could also potentially be at the peak of its sawtooth pattern as shown in the chart below – the light blue line shows CVC deal participation rate.  (Second chart above)

We have seen CVCs retract from Silicon Valley and then come back again, and can only say that persistence is its own reward.  

– Jon

【女性経営者の系譜1】「あさが来た」とヴーヴ・クリコの物語

「あさが来た」は当地アメリカでも日本語チャンネルで放映しており、私も毎日見ている。一応宣言しておくと、私は新次郎派ではなく五代様派である。

あさちゃんを見ていると、さらに100年ほど前のもう一人のフランスの女性経営者を思い出してならない。現代もシャンパンの大手として世界的に知られるヴーヴ・クリコ社を興した、バーブ・ニコール・ポンサルダンである。彼女の物語は、「Widow Clicquot」(クリコ未亡人)という本に詳しい。うまくシリーズになるかどうかよくわからないが、まずはこの本をもとにした彼女の話から書き始めてみたいと思う。

シャンパーニュ地方で発泡ワインを発明したのは、これまた現代に名前の残るドン・ペリニヨンという修道士だったと言われているが、本によると、これは多分に「マーケティング目的の伝説」ではないかとされる。当時は泡ができてしまっては失敗だったので、ペリニヨンさんはなんとか「泡が出ないように」と研究していたのだという。

なにしろ、彼の研究で泡が出る原因が理解されて、シャンパンが商品化され、ルイ14世が異常に愛したおかげでフランス貴族の間でシャンパンがもてはやされるようになった。その頃、シャンパーニュ地方の実業家フィリップ・クリコという人がシャンパンづくりを始めた。といっても、シャンパンだけ作っていたのではなく、この時代によくある、いろいろな事業をもつミニ・コングロマリットのような感じで、フィリップの息子フランソワは主に毛織物の取引と金融業を手がけていた。この息子にお嫁にきたのが、バーブ・ニコールである。バーブ・ニコールの実家ポンサルダン家は、繊維事業を保有する裕福な実業家で、政治家でもあった。

フランソワは若くして病気で亡くなり、バーブ・ニコールは未亡人(フランス語でヴーヴVeuve)となった。紆余曲折の末、義父フィリップとバーブ・ニコールがパートナーシップで事業を運営する形となり、またシャンパン事業に専念することとなった。このため、現在でも正式な社名は、両者の苗字を合わせた「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」となっている。

しかし、風雲急を告げる時代である。フランス革命が起こり、シャンパンの顧客であった貴族という人たちがいなくなってしまい、シャンパンの商売は危機を迎える。バーブ・ニコールは、当時の大新興市場であったロシアに市場拡大をはかり、ちょうど軌道に乗りかけた頃、ナポレオン戦争が起こる。ロシアもフランスと戦争となり、シャンパンの輸出ができなくなってしまった。

このとき、バーブ・ニコールは大きな賭けに出る。戦争が終わり、経済制裁が解かれそうだがいつになるかまだわからない、という頃に、アムステルダムまで陸路で密かに大量のシャンパンを輸送、そこからロシアまでつてを頼って船で密輸するという計画を立てた。しかし、結局その船は出ることができず、倉庫に大量のシャンパンが眠る状態となった。当時の技術ではシャンペンを質を保って長期保存することは難しく、今さら持って帰ることもできない。どこにも動かせないまま時間が経ってシャンパンがダメになったらクリコ社は倒産、というとき、ギリギリの時期に禁輸が解け、港からロシアにすぐに出荷することができた。このおかげで、他のシャンパン・メーカーを大幅に出し抜いて、クリコ社はロシアで圧倒的なシェアを持つようになり、欧州各国でも広がり、世界的なブランドとなったのである。

その後、さらにバーブ・ニコールは、製造技術の革新もおこなった。シャンパンの製造過程でどうしてもイーストの澱がたまるのだが、これを除去するのは、熟練の職人が手作業で行っていたため、シャンパンの大量生産のネックとなっていた。バーブ・ニコールは、技術者と一緒にいろいろ工夫する中で、二次発酵の間、ビンを蓋で密閉して斜め下向けに傾けて保存できるラックを発明。発酵期間中にときどきビンを回して澱をビンの口にため、その後ビンを取り出し、上向きにしながら一気に蓋を抜くと、空気がポンと抜けるときに澱も一緒に飛び出す、というdégorgement(デゴルジュマン)という手法である。

バーブ・ニコールが1866年に亡くなった後、同社は曾孫娘が相続、1987年にはルイヴィトン・モエヘネシー(LVMH)社の傘下にはいっている。1972年以来、同社は世界の優れた女性経営者を表彰する「ヴーヴ・クリコ女性経営者」を付与している。

富裕な家に生まれ、嫁ぎ先が時代の変化で危機に陥り、その家業の経営を引き継いでさらに新事業として発展させた、という経緯は、あさちゃんとまるで同じでなのである。

東京民泊戦争: 「外国からの来訪者」としての見方

またもや、「民泊」に関するNewspicksコメントに意外なほど多数のlikeをいただいたので、コメントに書ききれなかったことを追記してみる。

少し前に「オンデマンド労働」に関するレポートをKDDI総研サイトに寄稿した。ここでは労働力の供給について問題にしたが、民泊というオンデマンド宿泊についても同様で、キーは「従来よりも、はるかに多様なタイプの供給を爆発的に増やす」ということが画期的だと思う。

地方は事情が異なるが、東京に関して言えば、しばしば「外国人旅行者が増えて需要が増大し、宿の供給が足りない」ということが言われる。確かに、私も東京出張時にホテルが取りづらくて苦労している。

もう一つの側面としては、東京のホテルが「一人または二人の単位で宿泊する形態に最適化している」ということがある。昨年末東京でairbnbを利用した動機は、「家族全員」で泊まろうとすると、ホテルなら2部屋とらなければならず、ベラボウに高くなってしまうということだった。我が家の子どもたちはもう大人サイズなので、一人づつベッドが必要。それで、都内で広い部屋に泊まった。(地方の温泉宿では、ふつうに旅館に全員で泊まったので問題なかった。)同じオーナーが隣にもっと大きな一軒家を持っていてやはり貸していたが、そこにはフランス人の大家族が、おばあちゃんから赤ちゃんまでみんなで長期滞在していた。オーナーは海外経験が豊富な方で、外国人対応まったく問題ナシ。

ホテルは設備投資が大きいので、どうしても「最も需要が大きいタイプの宿泊形態」に合わせる。我が家やこのフランス人家族のような需要は、全体からみればわずかしかない。そんなマイノリティのために、わざわざ家族用の大きな部屋を作って遊ばせておく余裕などない。また、外国人対応を可能にするには、外国語のできるスタッフを雇うという余計なコストがかかるので、中小ホテルではそのコストをかけず、出張者や冠婚葬祭などで東京に出てくる日本人を相手にしているほうが効率がよかったわけだ。しかし、airbnbで個人オーナーが全世界を相手にすれば、商売が成り立つという仕組みが新しくできたわけだ。ありがたや。

さらにもう一つ、気づいたことがある。airbnbの貸し手になるには、本気でコレで商売する覚悟が必要だと実感したということだ。私自身、ちょっとこの商売やってみようか、と考えたことがあるが、東京で2ヶ所泊まったところのオーナーさんは、いずれも私からのメールや電話にすぐに返答し、到着時間に合わせてカギを受け渡すなど、24時間体制で対応してくださった。24時間ずっとこの仕事をやっているワケではないが、連絡があればすぐに出動できる状態でいなければならない、という大変さは、母親業で日々実感しているだけに、よくわかる。もちろん、ちゃんとやらないオーナーもいるだろうが、そういう人はあっという間に悪いレビューを書かれて沈んでしまうだろう。何事も人様にお金を頂いて商売するということは大変なことだ。それで、私が貸し手になるのは断念した。フロントがあってスタッフが24時間対応してくれる、という点は、民泊に比べてホテルのよい点であることは確かだ。カギの受け渡しの打ち合わせがけっこう面倒だったので、一人で出張するならできればホテルがいいな、とも感じた。それでも、民泊のオーナーさんは、出来る限り対応する努力をしているアントレプレナーだ。その営業努力には頭が下がった。

ついでに小さい話だがもう一つ。これまた少し前に、「外国人旅行者が好きな日本の観光スポット」として、意外なものが上位に上がってきたという記事があった。外国人だけではなく日本人も含めて、今どきの旅行者にとって、SNSにアップして話題になりやすい、「ユニークなフォトジェニック」であることはとても重要だと思う。当たり前の作りのホテルや旅館では写真に撮ろうと思わない。ユニークな体験をしやすい、airbnb的な世界のほうが、Facebookにアップしたい意欲がわく。

外国人旅行者が騒いで他の住民に迷惑をかけるというケースが実際には全体の中でどのぐらいあるのだろう?その被害と、これまでいろいろな理由で東京に泊まれなかった外国人旅行者が民泊のおかげで泊まれるようになって東京が受ける恩恵と、どっちが大きいのだろう?私のケースはごく小さな個人の感想でしかないが、マクロで見てどうなのか、興味深いところだ。そして、ホテル側がこの新しい状況に対抗するには、一方的に反対反対ではなく、「なぜ民泊がウケるのか」を自分で実感してみて、その上で自分たちの制約の中でできる適切な対策を打っていくという必要があると思う。というか、そうしてほしいものだ。

「サード・オフセット戦略」とシリコンバレー

一昨日、Newspicksで「米国のハイテク兵器がすごい」という記事にこんなコメントを何気なく入れたのだが・・・

こんな国に勝てるわけない、というほどの高度な武器を持ってそれをあえて宣伝することは、大国同士の戦争抑止につながる情報戦。

ちょうどその翌日、地元のフォーラムに行ってみたら、米国国防省の人が来ていて、まさにこの話を始めたのでビックリ。そして、この件にはちゃんと名前がついていることも判明した。その名を「サード・オフセット戦略」という。

オフセット戦略とは、予算や兵員数などある部分で仮想敵国に対し自国が劣っている場合、別の面で圧倒して力の差を打ち消す(オフセット)という軍事戦略用語で、米国の場合はその「別の面」とは常に「最新鋭技術」である。ファースト・オフセットは第2次世界大戦時の核兵器。しかし、大戦後にソ連陣営が追いついてきたので、今度は70年代から、インターネット・GPS・ステルス機などによる「セカンド・オフセット」を実施。湾岸戦争ではその成果を見せつけて世界に宣伝する結果となった。ところがそれで安心していたら、最近ではロシアも中国もまた追いついてきてしまった。

それで、今度は3番目の新しいオフセット戦略を実行する、ということが2014年に発表されている。技術要素としては、ディープ・ラーニング、ドローン、ロボティクス、メッシュネットワークなどといったものが想定されている。

そして、「民間の新興企業との協力」というのも、そのコンセプトの中にしっかり含まれている。この方針に基づき、昨年秋に、国防省のリエゾンオフィスがシリコンバレーに設立されたのだそうだ。やっていることやその苦労話は、AT&Tのような米国の域外大企業がシリコンバレーとのつきあい方に四苦八苦しているのとまるっきり同じである。

ということで、私のコメントはだいたいあってたと、ちょっとドヤ顔したかったので書いてみただけだ。

(写真は2014年にサード・オフセット戦略を発表するヘーゲル国防長官。出典:米国防省)

 

ベイエリアの歴史(37)- フランス植民地はビジネスモデル不在

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本日は脱線の回です。今回のフランスでのテロ事件と、アフリカ・イスラム圏の旧フランス植民地の事情が関係あるのかわかりませんが、旧フランス植民地は不安定で争いが多い、といわれます。この点につき、ここまで植民地のビジネスモデルについて書いてきた中で、私なりにいろいろ考えます。簡単に言うと、フランスの植民地は、「ビジネスモデルがなかった」、あるいは何かあったとしてもきちんとエクセキュートできず、このため植民地の住民と共存共栄の関係を築くことができなかったのでは、と考えています。 (26)で書いたように、フランスの植民地は前期と後期に分けることができます。「前期」はアメリカ大陸でしたが、カナダをイギリスに取られ、ナポレオンがルイジアナをやけくそでアメリカ合衆国に売却して、いったん全部なくなってしまいます。古い時代の植民地ビジネスモデルの典型は、オランダ型の「アービトラージ貿易の拠点」であり、より新しいモデルとしてイギリス型の「土地投機」がアメリカで行われましたが、フランスはどちらのモデルも作れず、植民地からの収入よりもメンテナンス・コストのほうが高くなって、植民地を維持できなくなったのでしたね。

さて、そのフランスが再度植民地競争シーンに登場するのは、19世紀半ば頃のナポレオン3世の時代です。この人は19世紀最大の奇人ともいえる超変な人で、別の記事でもう少し詳しく書きたいと思いますが、なにしろ「フランスの栄光を再び」ということで、当時先行していたライバルのイギリスに負けないよう、突如として植民地獲得に乗り出しました。イギリスがまだがっちり確保していなかったところ、つまりは「二級立地」に進出するという「モスバーガー戦略」でありましたが、「選択と集中」を全然せず、アフリカと中近東とインドシナと南太平洋と、などと手当たり次第に戦線を拡大していき、最後はメキシコで致命的なミスを冒して、彼自身の転落につながっていきます。

ナポレオン3世の手当たり次第なやり方は、ちゃんとした「ビジネスモデル」があってやっていたのではなく、イギリスとの競争に煽られ、「国家威信」にドライブされていたように見えます。

イギリスの場合は「土地投機」ですから、入手した土地が価値を生み出すようにしないといけません。現代の土地デベロッパーが、工場を誘致したりショッピングモールを建てたり、アクセスのための道路や鉄道を作るのと同じです。そこで、植民地にプランテーションをつくり、インドやアメリカで綿花を作ってイギリスに持ってきて製品にして売るという仕組みをつくり、そのための輸送や通信のインフラを整備し、人も大量に送り込んでいます。良かったのか悪かったのかの価値評価は置くとして、兎にも角にも植民地に資金と人が投下され、インフラで恩恵を蒙る「味方」も現地にそれなりにたくさん存在しました。

しかし、19世紀後半の短期間に急激に薄く広がったフランスの植民地では、イギリスほどの投資やインフラ整備が行われた様子はありません。「前期植民地」のカナダ・アメリカでも、フランスの「インフラ投資不足」が直接命取りになったのですが、非白人住民の多い「後期植民地」では、現地住民の民族分布を完全に無視した行政区分を敷き、住民の土地所有を認めず、現地住民を低い立場において、搾取する構造を作りました。土地に投資して上がりを得るビジネスでなく、「国家威信」が主な目的であったように見える所以です。

ナポレオン3世がこれほど急激に植民地を拡大できたのは、他のヨーロッパ強国が、ナポレオン戦争後にフランスを封じ込めるための「ウィーン体制」という複雑なパワーバランスをヨーロッパ域内で維持することを重視し、その代わりフランスがヨーロッパの外でジャイアン化して暴れるのには目をつぶっていたという事情もあります。

347px-Dame_Europa_25ジャイアン化したナポレオン3世

そして、ナポレオン3世を選挙で選んだ(彼は最初大統領に当選し、その後皇帝になった)フランス国民は、ナポレオン時代の「大きな領土を持つ栄光あるフランス」を良きものとみなし、そのフランスの領土を再び拡大するナポレオン3世のやり方を支持していました。19世紀ヨーロッパ歴史講義で、講師のロバート・ワイナー教授は「現代でも、フランス国民は一般に広い植民地を持っていたことを誇りと考える傾向が強く、評価の低かったナポレオン3世が再評価される中でも、特に植民地の拡大が彼の功績として見直されている」と述べています。

なお、日本にフランスが最初にやってきたのも、まさにナポレオン3世の時代、日本の幕末でした。それまで江戸時代中期から後期にかけて、日本の沿岸に出没していたのは、おもにオロシャ(=ロシア)とエゲレス(=イギリス)だったのに、この頃突然フランスがやってきて、徳川幕府に取り行ったのは、奇人ナポレオン3世のジャイアン政策のせいです。彼は、当時最大のライバルであったイギリスに対して、植民地では融和的な行動をとることが多かったのですが、日本では例外的に、フランスは幕府、イギリスは薩長と別れて戦いました。結果はみなさまご存知のとおりです。

19世紀後半以降の帝国主義時代、日本から見ると「欧米列強」は、どいつもこいつも同じように、領土拡大にひた走っていたように見えますが、拡大した領土にどれだけ投資して何を作ってどう儲けるか、という戦略において、やはりイギリスがずば抜けて上手かったと言えそうです。スペインは当時すでに脱落気味、ロシア・ドイツ・イタリアはあまりにも参入が遅くて間に合わず、そしてフランスは表面だけイギリスの真似をして領土を拡大したところで終わってしまった、と言えそうです。

出典:Wikipedia, Long 19th Century: European History from 1789 to 1917

ベイエリアの歴史(36) - 「ジューイッシュ戦略」も封じられた日系人

「人種差別」には、ふたつの側面があります。一つは①外見や慣習の異なる人達に対して、どう扱っていいのかわからない、共通の関心事がなくつきあいづらい、彼らの生活慣習は自分たちにとって迷惑である、といった感情的な面。もう一つは②安価な労働力を安定的に確保するため、敢えて特定のグループの人たちを低い地位にしばりつけておこう、という社会構造的な面です。 ①の「お前らキライだ」というだけなら、そもそも国に入ってこないようにしたり、国に帰れと追い出したりするのですが、②の安価な労働力が欲しい人たちがそれなりにいれば、移民を受け入れることになります。安価に抑えるためには、そのセクターが常に供給過剰でなければならないので、最下層に移民をたくさん受け入れることになります。アメリカで移民の流入が爆発的に増えるのは19世紀後半から20世紀初頭にかけての「泥棒男爵の時代」、つまり未洗練・荒唐無稽の資本家が力にまかせて跋扈した時代であり、泥棒男爵達が安価な労働力を必要としたからでしたね。そして泥棒男爵たちは、一種類のグループだけだとアイリッシュのような政治的な勢力になってしまうので、あえて細かく分ける、という戦略をある程度意識的にとったのかもしれません。「①排斥」があるのに、なぜ完全にシャットダウンしないかというと、「②受け入れ+差別」のメリットがあるからです。

実はありがたいはずの安価な労働力に対し、時々大きな排斥運動が起こるのは、下層にいる既存住民が、競合勢力がはいってきて自分たちの給与水準が下がることを嫌うことが大きな要因で、そこに①の感情要因が加わります。つまり、下層民ほど「排斥」側に寄ります。一方で、彼らをつかって甘い汁を吸う人たちは、新しいグループを次々と入れ、勝手に自分たちで争うように、つまり下層民を分断するようにし、自分の手を汚さずにニンマリしています。こうした泥棒男爵は「受け入れ+差別」に寄ります。このとき、カリフォルニアでニンマリしていた代表例が、鉄道王であり政治家としても権勢を振るった、例のレランド・スタンフォードです。この分断構造に気づいてしまった人たちが「万国の労働者よ団結せよ」という方法を編み出したのも、ちょうどこの時代です。

そして、日系人コミュニティでは①の排斥「感情」をできるだけ抑えようと、アメリカ社会に溶け込むための大変な努力を続けてきました。それでも差別が続いたのは、白人といかにも見かけが違うという①の面が拭えなかったことに加え、②の構造要因が引き続きあり、それに太平洋戦争の要因が加わった、という3つの要因があると思います。精神論だけでは、移民の問題は解決しないのです。

(30)で述べたように、日系より前に、すでに中国系移民がたくさん北カリフォルニアにはいっており、「中国人排斥法」ができていました。この時点では中国人に対して②より①のほうが強くなってしまったのですが、泥棒男爵さんたちがまだまだ移民を必要としていたので、日本人が入ってくることになりました。

サンノゼでも中国人排斥が激しく、中国系の人たちには家主がアパートを貸さなかったのですが、おそらくは宗教的な信条から、中国人を受け入れてくれたジョン・ヘインレンという地主があり、彼の所有地がサンノゼのチャイナタウンとなりました。なお、ヘインレンさんはメソジスト教徒であり、「メソジストの人たちは一般に日系移民に親切だったため、多くの日系人がメソジストに改宗した」というお話を、現在でも日本町の中心であるウェスレー合同メソジスト教会のキース・イノウエ牧師が語ってくださいました。

幸い、ここでは「分断」が起こらず、チャイナタウンの人たちは新しくはいってきた日系移民を受け入れてくれました。習慣が似ていて、日本に近い食べ物や生活用品が入手できるということで、日本人がチャイナタウンの近辺に住むようになり、初期の頃に日系農家が必要なものを購入するのにクレジットを供与してくれたのも、日系農家の産物を買ってくれたのも、チャイナタウンの商店でした。

日本町で講演をしてくださったジミさんが生まれたのは1922年頃で、ジミさんは日本町の産婆さんのところで生まれたそうです。この頃、日系人は病院を使うことができなかったからです。日系人が医師になることもできませんでした。ジミさんは本当は大工になりたかったのですが、「なれない」と言われました。そのための教育を受けることはできないことはなかったけれど、卒業後に大工の組合にはいることができず、そうすると仕事が来ないので、実質的には「なれない」からやめておけ、と学校の先生に言われたのです。

米国南部の黒人差別のような、制度的なあからさまな差別ではなかったけれど、こうした形で日系人は、専門職としての技能を身につけてのし上がる、という道も封じられていました。以前述べた、移民ののし上がり戦略の典型として、敢えて特色あるコミュニティを維持して数の力で政治に参加していく「アイリッシュ戦略」を挙げましたが、人数が少ない場合、教育により技能を身につけ、専門職として個人の地位を向上させるという、ユダヤ系型の「ジューイッシュ戦略」があります。数が少ない日系人は「アイリッシュ戦略」が採れませんでしたが、技能職から締め出されていたので、「ジューイッシュ戦略」の道も封じられていました。

こうしてサンノゼの日系移民は、「農業」に縛り付けられていました。しかし、1913年にCalifornia Alien Land Lawができ、1920年にはそれが強化されて、日系人は土地を所有することも、長期リースすることもできなくなりました。1920年の法改正は、日系人排斥の激化に伴い、日系農家をターゲットにしていました。それでも農業しかできなかったので、日系農家は、白人農家に「名義貸し」をしてもらっていました。土地改良や農器具への投資も日系人が行い、本当に単に名前を貸すだけなのに、売上のかなりの部分を白人農家が取っており、貸した白人農家はおいしい商売でした。

日系ミュージアムで当時の農機具展示を見ながら、差別で甘い汁を吸っている②的な人というのが必ずどこかにいるものだなー、と改めて思った次第です。

Boxes

当時日系人農家が産物の出荷に使っていた箱。日本人の名前は全く記載されていない。(サンノゼ日系アメリカ人ミュージアム展示)

出典: San Jose Japantown - A Journey、The Japanese American Museum of San Jose, Wikipedia

ベイエリアの歴史(35) - SF仏教寺院のハロウィーンと移民の出身県

10月31日、サンフランシスコ仏教会では、福岡県人会の追悼法要が行われ、福岡出身の夫が招かれて行ってきました。 県人会メンバーのうち、今年亡くなられた方を偲ぶ会、ということなのですが、お盆ではなくハロウィーンの日にやる、ということは、カトリックの「死者の日」に合わせているのかなぁ?とぼーっと考えています。ハロウィーンとは「死者の日」で、その日にカトリック教会では、その年になくなった信者さんの「追悼ミサ」をしますので、「そのまんま」であります。

先週のサンノゼ日系ミュージアムでのジミさんのお話では、サンタ・クララ・バレーにやってきた農業移民の出身地として多かったのが、広島・和歌山・島根・熊本・岡山の5県であった、ということを伺いました。それぞれの県出身者は、自然と同じ地域に集まる傾向があり、サンノゼは広島、ロスガトスは和歌山、といったような色分けがありました。上記の福岡県人会のサイトでその歴史を読むと、1900年代に福岡県からサンフランシスコとオークランドに渡った人たちが、現在の福岡県人会の源流となっている、とのことです。

ハワイへの移住者は広島と山口が多かった、との記述もあります。山口県は、ハワイ移民事業を推進した井上馨の出身地というつながりがありますが、ここでも広島が出てくる背景は、今のところよくわかりません。広島県の中でどの地域から海外移民が多かったか、ということを分析した資料などをいくつか読むと、人口に対して耕地面積が少なかった、藍の産地で外国からの安価な製品がはいってきて廃れて失業が多く出た、などを背景として挙げていますが、似たような別の事情が日本の他の地域で数多くあったはずで、これだけでは「なぜ広島ばかりが多いのか」という点について説得力がありません。特定の歴史的背景(かつての天領や譜代大名の地域で、明治政府に疎外されたとか?)の共通点でもあるかな、という仮説も考えましたが、これといったものが見つかりません。今のところ、「全国あちこちにできた移民会社のうち、特に成功した会社があったのがこれらの地域だった」のでは、という仮説を置いておくことにします。

さて、上記のサンフランシスコ仏教会は西本願寺系の浄土真宗のお寺だそうですが、中のつくりは、金色の祭壇の前に木の長椅子式の礼拝台が左右二列に並ぶ、「お寺と教会の和洋折衷」という感じです。

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サンフランシスコ仏教会内部の様子

サンフランシスコ日本町の近くには、このほか、法華宗サンフランシスコ仏教会と、曹洞禅宗の桑港寺が集まっています。一方、サンノゼ日本町では、合同メソジスト教会の隣に浄土真宗のSan Jose Buddhist Church Betsuinが仲良く並んで町の中心を形成しており、ちょっと離れたところには、日蓮宗のNichiren Buddhist Templeがあります。他にも、日系人が多く入植したカリフォルニアの町には、仏教寺院が現在でもいくつも残っています。

これらのアメリカにおける仏教寺院は、1900年代前半の日系移民が、厳しい生活の中での心の支えとして求めてできたものですが、初期の日本語しかできない一世の時代と、その後アメリカ生まれの2世以降の時代ではその意義や存在も変わってしまいます。

現在の最大勢力である「米国仏教団」は、上記で述べた本願寺系浄土真宗で、全米に信徒が16,000人ほどいます。一世の時代には、日本から僧侶がやってきて日本語で活動していましたが、その後は英語しかわからない人が増えてしまい、日本のお坊さんで英語のできる人が少ないために、日本との人のつながりがだんだんなくなり、現在では日本から僧侶が来ることはないそうです。今日、サンフランシスコで法要を行ったのも、日系アメリカ人のお坊さんでした。米国の仏教は、第二次世界大戦中の日系人収容によりいったん消滅し、その後復活して現在に至りますが、その歴史の中で、仏教団の「西本願寺系」では、当地では入手困難な畳ではなく木の長椅子を入れたり、日曜日に法話会をしたり、上記のようにハロウィーンに追悼法要をやるなど、地元アメリカの風習に合わせる努力をしています。

しかし、こうした迎合的なやり方を否定する原理主義的な人たちも常にいます。浄土真宗の中では、東本願寺系が「原理主義」なのだそうです。現在のアメリカの信徒数では「西」派が圧倒的に多く、カリフォルニアは「西」派、「東」派はシカゴなどカリフォルニア以外という図になっているのだそうです。

ちなみに、そもそもハロウィーンというのも、カトリックがスコットランド・アイルランドの地元ケルト文化のお祭りを取り入れた迎合的なイベントです。といってもカトリック教会でも、ハロウィーン翌日の「諸聖人の祝日」は正式に祝日になっていますが、ハロウィーンは公式なものではありません。

カトリックは世界各地に広がっていく中で、積極的に現地の文化・習慣を取り入れてきました。日本のカトリック教会でも、七五三には子どもたちのためのミサをやり、千歳飴をくれました。私の地元のその教会は、大きな瓦屋根の木造建築、灯籠と障子風の内装、掛け軸の聖家族絵、日本画家による十字架の道行、など、サンフランシスコ仏教会とは逆方向に「お寺と教会の和洋折衷」をした和風建築でした。日本ではお寺でもクリスマスを祝ったりしますし、宗教的に寛容で、良い国であります。

一方、プロテスタントは宗派にもよりますが、全体的にはピュアに教義を守る傾向があります。ハロウィーンも、「異教のお祭りである」ということで、プロテスタントでは排除する傾向があり(でもそれ言ったら、クリスマスだってそうなんですけど・・)、フランスやイタリアなどのカトリック国も含め、欧州ではケルトの地であるアイルランド・スコットランド以外ではほぼ無視されているようです。

ハロウィーンが現在のような、コスプレバカ騒ぎの日になったのは、アメリカにはいってきてからです。(29)で述べたアイルランドからの大量移民が、19世紀にアメリカに持ち込み、その後徐々にアメリカで(おそらく、お菓子メーカーの謀略で?)広がり、宗教色が抜けたイベントとなりました。

原理主義とローカリゼーションの対立は、いつの時代のどの宗教にもあることですが、こんなちっちゃなアメリカの仏教にもそんな分裂があるというのは少々驚きです。

出典:サンフランシスコ仏教会、サンノゼ日系ミュージアム講演、Wikipedia、米国仏教団サイト

ベイエリアの歴史(34)- 新技術を使ったブルー・オーシャン戦略

同じカリフォルニアで、同じように差別を受けた日系移民と中国系移民が、どう違ったのか、どう同じだったのか、というのは私の大きな興味の対象です。そのいくつかの回答が、昨日のサンノゼ日系人ミュージアムでのお話や展示で、わかってきました。以前に、日系移民が農業アントレプレナーとして成功したのは、武士が指導者として混じっていたからではないか、という仮説を挙げましたが、どうやらこの仮説は間違っていたようです。カリフォルニアへの日系移民が本格化したのは、1890年から1900年頃なので、すでに明治も中期にはいり、武士階級はなくなっていました。こちらで「どういう人達がやってきたか」という点を調べたり話を聞いたりしても、いずれも「農家出身者」であるとしか出てきません。幕末でもすでに、下級武士と富農との境目ははっきりしなくなっていたので、混じってはいたでしょうが、特に「武士が率いてきた」ということではなさそうです。

その時代までの農業とは、「船による長期輸送・長期保存に耐えられる農産物、またはそのように加工した、広い市場で売れるコモディティを、大量生産できるように最適化する」というのが典型的なビジネスモデルでした。穀物がどの土地でも重要なのはこのためであり、商品作物としては、アジアの胡椒、西インド諸島やハワイの砂糖、イギリスの毛織物、米国南部やインドの綿花、日本の絹糸やお茶など、いずれもこのパターンに当てはまります。19世紀中頃にカリフォルニアでフルーツ農業が盛んになったときも、輸送は「船」から「鉄道」に代わりましたが、ドライフルーツにして販売していたので、まだこの伝統的パターンでした。

サンタクララ・バレー地域に入植した日系移民も、最初はフルーツ農家に雇われていましたが、自分たちが食べるものを作るために、半端な土地を与えられていました。ちょうど、イギリス人に虐げられたアイルランド人と同じ状況ですね。アイルランドではそこでジャガイモを作りましたが、日系移民はいろいろな野菜を作りました。半端な土地なので、形もばらばらな傾斜地であったワケですが、そこを日系人は、「棚田/段々畑」をつくる技術を活用して、うまく灌漑(英語ではcontour irrigation)を行ったそうです。不揃いな土地を耕したり、収穫物を出荷しやすく整形したりするための道具も、自分たちで工夫して作り、そのノウハウを日系人コミュニティの中で共有して、それを強みとしていました。ミュージアムでは、そんな道具がいろいろと展示されていて、説明を聞きながら私が「なるほど、オープンソース方式ですね」と言ったら、ソフトウェア会社の方が「今と逆ですね(笑」とすぐにツッコんでくださったのが秀逸でした。

こうして作った野菜を、自家消費だけでなく、外にも販売するようになり、徐々にもっと大きな土地を入手して拡大していきました。その原動力となったのが、当時の新技術「鉄道」でした。その頃には氷を積んだ冷蔵車があったようですし、農村サンノゼから、大都会サンフランシスコへ、短時間で野菜を輸送することができるようになっていたので、保存のきかない生の野菜が、初めて広い消費市場に出せるようになったのです。

サンノゼ日本町は、当初は「すでにあったチャイナタウンの近くに日本人もはいってきた」ことから始まったのですが、たまたま鉄道の駅に近く、その後別の日系入植地でも、鉄道駅近くに集中して住むようになりました。このロジスティクス革命が、ちょうどその時期にはいってきた日系人のもつエキスパティーズと合致したわけです。当時はそういうわけで、白人のプランテーションではフルーツを作っていたので、日系人が野菜を作っても競合せず、いわば「ブルー・オーシャン」戦略であったわけです。(もちろん、当時の人たちがそのように考えてやっていたわけではなく、振り返ってみるとそういうことだったんだ、というだけの話です。もともとブルー・オーシャンとはそういうモノ、だそうですが。)

日系農家の手によって、最新の「鉄道」という技術を使った、「近郊農業」という新しいビジネスモデルが出現したのです。

そうは言っても、差別による問題もその周辺にはいろいろあり、そのあたりは次回以降に書いていきます。

日系農家には、農業技術を工夫し、道具を作り、共有するという「農業経営」の技術とノウハウがあったことになります。このことは、農村出身者であっても、ある程度の教育を受けることができた、という当時の日本の状況を反映しており、まだ教育を受けられなかった中国の農民との一つの違いであったのではないかと思います。武士が直接来たわけではないですが、失業した下級武士の多くが学校の先生になったので、私の仮説も少しは合ってる、といえるかもしれません。(負け惜しみ、すいません・・)

もう一つの違いは、「お嫁さんが来た」ということです。日系農家でも、最初は中国系同様に、若い男性ばかりが来ており、白人の女性との結婚はできませんでしたが、日本からお嫁さんを連れてくる斡旋業ができ、「写真花嫁」が日本からやってくるようになりました。そのきっかけは、1907年にできた「日米紳士協定」です。当時、日本は日清・日露戦争に勝ち、先進国リーグの一角を占めるようになって、アメリカから警戒の目で見られるようになっていました。その警戒を解くべく、日本は「アメリカに新規の移民は送らない」という約束をします。ただ、このとき「女性だけは送ってもいい」という例外が設けられたので、それまで年季奉公人を送り込んでいた移民業者たちは、写真花嫁にピボットしました。写真だけのお見合いをし、実際に会ってみたら全然違っていた、という悲劇も多数ありましたが、それでも「結婚式当日に初めて会う」ということが珍しくなかった時代ですから、そのまま淡々とアメリカでの生活に落ち着いていった女性のほうが多かったようです。こうして日系移民は、アメリカで家族をもち、定着することができたワケですが、これも当時の中国と日本の本国の政治状況の違いを反映しています。

当時日系人がやっていた近郊農業での厳しい労働は、現在メキシコ系の移民が担うようになっています。ドナルド・トランプがメキシコ移民を排斥する発言をし、それを多くの人が喝采するという構図が、どうしても私には不愉快でなりません。現在の日系人コミュニティにおいて、「すでに日系人差別はないので、コミュニティとして政治的な争点はなくなったのでは?」と質問したところ、「いや、全然そんなことはない。その証拠に、今だってトランプが支持されているではないか」と若手リーダーの一人が答えてくださったのが、印象に残っています。

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(メキシコではJesus=ヘスースという名前が多い。de nadaは「どういたしまして」のスペイン語。)

出典: San Jose Japanese American Museum展示・説明、Mr. Jimi Yamaichi講演より

ベイエリアの歴史(33)- サンノゼ日本町のジミさん

ハワイに次ぐ、日系アメリカ人の政治的活躍の本拠地といえば、わがベイエリアにあるサンノゼです。サンフランシスコじゃないの?と思われるかもしれませんが、違うんです、サンノゼなのです。

成田から毎日定期便が行き来するサンノゼ空港は、正式名を「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港」といいます。ミネタ氏は、ハワイを除く米国本土初の日系市長(サンノゼ市)、その後初の日系連邦議員、クリントン政権の商務長官でアジア系初の閣僚、ブッシュ政権時には運輸長官となりました。2001年同時多発テロの際には、全米の飛行機をすべて飛行停止するという大仕事を成し遂げました。同年の秋、その功績を讃えてサンノゼ空港がミネタ空港と名付けられたのです。

そのサンノゼには、現在米国に3つしか残っていない「日本町」の一つがあります。サンフランシスコより知名度はだいぶ劣りますが、すっかり「観光地」となったサンフランシスコと比べ、サンノゼは現在でも日系アメリカ人のコミュニティ・センターとしての役割を大きく担っています。その中に、「日系アメリカ人ミュージアム」があり、今日は有志のグループで、このミュージアムのツアーと、サンノゼ日系人のコミュニティ・リーダーの方々とのランチ会が実施され、参加してきました。

ミュージアム・ツアーの最初には、収容所の経験者でもある日系2世のジミ・ヤマイチさんから、自ら体験した歴史をお話していただきました。この後、何回かにわたって(私の気が済むまで^^;)、ジミさんのお話とその他資料を合わせて、ベイエリアの日系人の歴史について書いていく予定です。

2015-10-24 Jimi

Mr. Jimi Yamaichi

日本からハワイへの移民開始から5年後、1890年に、カリフォルニアへの集団移民が開始されました。ハワイのような官約移民ではなく、当初から民間による自由移民で、民間の移民会社が仲介をしていました。

その前後の事情をもう少し詳しく見てみましょう。アメリカでは1869年に大陸横断鉄道が完成、その後も西部での鉄道建設はしばらく続きます。しかし、1882年に「中国人排斥法」が成立して、鉄道建設を主に担ってきた中国移民が入ってこなくなりました。一方、日本では1877年西南戦争の少し後の時代に当たり、農村の余剰人口が都市の製造業へと吸収されていくフェーズにはいる前の端境期でした。幕藩体制下の封建的な農村支配から近代的な農業経営に移る過渡期で、1884年頃は不況となり、貧しい地域では農家の次男以降の「口減らし」という「プッシュ要因」がありました。当時の日本の主要産品であった絹糸の輸出が急激に増えるのは、1894年からの日清戦争が終わった後になります。

中国移民は定着することができず、アメリカの中国系コミュニティは縮小を余儀なくされていたので、その代わりに、元祖ブラック企業ユニオン・パシフィック鉄道が、1891年に日系人の採用を始めます。

しかし、それよりも大きな「プル」要因だったのは、鉄道による輸送力増大により、カリフォルニアの農産物の市場が拡大して、「農業バブル」が起こったことです。サンタクララ・バレーと呼ばれるこの地域では、特にフルーツ農場が急速に発展します。

そこで、フルーツ農業労働者として、日本人を例によって「年季奉公契約」で連れてきたというわけです。さらに1898年にハワイがアメリカに併合されて、ハワイからパスポートなしで本土に入ってこられるようになりました。当時の本土の農業労働者の給料はハワイの10倍だったそうで、このためにハワイから大挙して日系人がやってきました。日本では、日清戦争と日露戦争が相次いで起こった時期にもあたり、徴兵を逃れるためにアメリカに渡ってきた人も多かったとのことです。

こうして1890年代に、徐々にカリフォルニアの日系移民コミュニティが成立していきます。

出典: Wikipedia, San Jose Japan Town - A Journey, Lecture by Mr. Jimi Yamaichi, 日本史総合図録(山川出版社)