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ベイエリアの歴史(3) – ミッションと都市のはじまり

失われた167年 16世紀半ばに「発見」されたカリフォルニアですが、その後何度かスペインとイギリスの船が探検したにもかかわらず、結局なんと167年にわたって放置されます。当時のヨーロッパ人にとってのカリフォルニアの価値は、あくまでも「アジアへのルート」であり、「アジアとの船の行き来に使える寄港地があればいいなー、と思って探検したけれど、どこも波が荒くて使えねーなー」という結論に達したからです。1545年に南米で銀山が発見され、スペインは相変わらず銀を左から右に運ぶ「アービトラージ経済」に精を出し、カリフォルニアのことなど忘れていました。

167年も経てば、世の中は大きく変わります。その年、1768年といえば、日本では江戸時代もすでに中期、8代将軍徳川吉宗の治世も終わり、田沼意次が側用人になった翌年です。ヨーロッパでは、1588年アルマダの海戦で無敵艦隊がイギリスに敗れてから、スペインは長い衰退期にはいっています。その後ヨーロッパのリーダーは、ようやくヨーロッパに登場した「世界的に流通する価値ある商品」である「毛織物」を、自分たちの手で作る「メイカー的」人達、すなわち、オランダ、イギリスへと移っていきます。北アメリカ東部では、イギリス、オランダ、フランスなどが競って植民地を建設しました。当初は動物をとって毛皮にする、といった「アービトラージ」商売むけの「収奪地」としての役割でしたが、アメリカ東部に農業が定着して人口が増えるにつれ、今度はヨーロッパで作った毛織物や紅茶などの産品を売るための「キャプティブ・マーケット」としての役割が増大していきます。植民地がそこそこ豊かになれば、税金もたくさん取れるようになります。つまり、植民地経営のスタイルは、次の時代に移ってしまったのです。

そんな中、落ち目スペインの出先、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)では、太平洋をわたってカリフォルニアにロシア人が散発的にやってくるようになったため、ようやく「カリフォルニアを確保しておかないと、だれかに取られちゃうかも」という危機感をおぼえ始めます。そこでまた、ホセ・デ・ガルベスというアントレプレナーが登場し、副王を説得し許可を得て、カリフォルニアの「植民地化」に乗り出します。彼がとった手法は、スペインから来ていたフランシスコ修道会の宣教師、フニペロ・セラ(Junipero Serra、高速280号にあるあの像の人)と一緒に出かけ、カトリックの布教とセットで住民を取り込んでいく、というもの。これって日本にザビエルが来たころと同じ、絶望的に古臭いやり方だと思うのですが、まぁそこはやはり落ち目の国ですね・・・

ミッションの建設

とはいえ、ご本人たちは「使命(ミッション)」に燃える男たちです。ガルベスは「スペイン王国の領土を拡大して祖国に再び栄光を」、セラは「ネイティブ・アメリカンに神様を教えてあげて一緒に天国へ(「魂の収穫」)」という、それぞれの使命を心から信じておりました。そして翌1769年、宣教師・水夫・兵士・料理人・大工など、300人近いメンバーを海陸二手に分け、ガスパル・デ・ポルトラというスペイン海軍指揮官をトップとする一行はメキシコを出発しました。いつものように苦難の旅の末サンディエゴに到着し、そこに最初のミッションを建設します。

ミッションといえば、カリフォルニア州で子供が小学4年生を経験したことのある方なら、「げげっ」と思われるはず。日本で小学1年生がみんな朝顔を育てるように、ベイエリア近辺では、小学4年生はみんな、社会科の宿題で「ミッション・プロジェクト」をやらされます。ボール紙などでミッションの模型を作り、近くのミッションを訪問してパンフレットにスタンプを押してもらい、レポートとともに提出する、というもので、親も模型作りを手伝ったりミッションに連れていったりと、なかなか大変な宿題です。

それだけ、ミッションというのはカリフォルニアの歴史において重大な事象であったわけです。

スペイン・チームは、カリフォルニアの海岸線沿いに合計21のミッションを建設していきました。水源確保のため、原住民の居住地近くを選びました。これらは「エル・カミノ・レアル(王の道)」でつながれ、一つのミッションから次まではほぼ1日かけて歩く距離です。周辺には、ミッションを防衛するための要塞(プレシディオ)や、ミッションに食料を供給するための村(プエブロ)もいくつか置かれました。同じ形式のミッションを規則的にチェーン展開し、システマチックに事業を進めていきました。

ミッションは、普通の教会とは違います。「教会」の部分もありますが、それに加えて宣教師たちが生活する「居住部分」と、穀物畑、家畜の飼育場、機織り場、陶器工房などもそなえた、自給自足のできる「キャンパス」のようなものです。宣教師だけでなく、近くの原住民も連れて来て一緒に住み、神様のお話だけでなく、農耕やヨーロッパの技術、生活様式、文字などを教えることになっていました。ただ、実際にはカリフォルニアのミッションは、いずれも完全には自給自足ができず、スペインからの資金援助が必要な状態がずっと続きました。

それ以前のカリフォルニアにいた原住民は、諸説ありますが30万人ぐらいであったと推測されています。おもに狩猟採集経済であり、組織だった農耕がなかったため、多くの部族にわかれたままで、都市を形成していませんでした。そこにやってきたミッションでは、大きいものでは数千人が居住しており、定住して農耕を行う生活スタイルと、それに伴う「都市」がここに誕生したのです。スペイン語で聖人の名がつけられたこれらのミッションやプエブロが、現在のカリフォルニアの主要都市の多くの源流となり、現在の高速101号線は「王の道」をほぼなぞっています。

サンフランシスコの誕生

サンフランシスコ(聖フランシスコ)にミッションが置かれたのは1776年のことで、少々変な言い方ですが、東部ではアメリカ合衆国が独立した年です。(この時、カリフォルニアはまだ「アメリカ合衆国」の一部ではありません。)ミッションでは、物資をかなりメキシコからの補給に頼っており、海路は引き続き重要でした。そのためか、港に適したサンフランシスコ湾付近には数多くのミッションが集中しています。ベイエリア周辺には、北からソノマ、サン・ラファエル、サン・フランシスコ、サンタ・クララ、サン・ノゼ、サンタ・クルーズといったミッションがあります。ちなみに、ロス・アンジェルス(天使たち)はプエブロ、サンタ・バーバラやサン・ルイス・オビスポなどはミッションがもとになっています。

宣教師の方針によっては、原住民と平和共存できることもありましたが、どちらかといえば彼らの「上から目線」のやり方が原住民にとっては悲劇となることのほうが多く、家からむりやりさらわれてミッションに連れていかれたり、逃亡を企てた住民がリンチされたり、ヨーロッパからはいってきた病原菌に感染して死んだり、といったことが頻発しました。そのため、住民が反乱を起こし、宣教師を殺してミッションを焼き討ちするといった事件もありました。スペインがメキシコを植民地化した際にも同じスタイルをとり、メキシコではすでにかなり文明が進んでいたために比較的穏便に住民の教化が進んだようですが、カリフォルニアでは戦いが続きました。

そんな混乱した「ミッション時代」が約50年ほど続き、とにもかくにもカリフォルニアのかなりの部分が「スペイン領」となりました。

まるっきり余談ですが、サンタ・クララ・ミッションの名前となった「アッシジの聖クララ」は、13世紀イタリアの修道女で、アッシジの聖フランシスコの最初の弟子でした。(アッシジの聖フランシスコは、「サンフランシスコ」の名にもなり、フニペロ・セラの属するフランシスコ修道会を始めた、カトリック業界でも屈指の有名人です。)カトリックは一神教ではありますが、日本のような八百万の神の代わりに、いろいろなモノの「守護聖人」が割り当てられており、この聖クララは、1958年教皇ピウス12世によってなんと「テレビと電話の守護聖人」と指定されています。彼女が病気で起き上がれずミサに預かれなくなった折、彼女の部屋の壁にミサの様子が映しだされ、音声が聞こえたとされるためです。(ネタじゃありません。教会でもらった「カトリック聖人カレンダー」にちゃんと書いてありました。)現在、ミッションの名前を受け継いだ「サンタ・クララ郡」はシリコンバレーの中心地ですが、決して偶然では・・いやいや、やはり偶然でしょう。今なら、さしずめユーチューブの守護聖人か、リアルタイム・ストリーミングだからユーストリーム、にでもなるのでしょうか・・?

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、山川世界史総合図録、山川日本史総合図録、カトリック聖人カレンダー