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シリコンバレー

ベイエリアの歴史(22)- 19世紀のドイツ

サインコサインは女子には教える必要ないという人があるようですが、それを言ったら縄文・弥生時代の歴史の知識なんぞ、男子も女子もおよそ実社会で使うことはありません。逆に、本来であれば「実用向け」として現代人がぜひ知っておくべき「近代史」について、日本の学校では時間切れになってろくに授業で教えず、まったくダメダメだと思います。せめて高校では、日本も世界も一緒にした19世紀後半から現代までの「近代史」という授業を1年かけてやるべきだ、とつくづく思います。というわけで、はるか昔に戻って、まためちゃくちゃな横道にそれますが、本日はちょっと19世紀のドイツ、この方のつくった国のお話です。ビスマルク (ちなみに、カリフォルニアのウチの学区では、アメリカ史も世界史も、ばーっと通史でやるのではなく「中世から近世まで」「南北戦争まで」「帝国主義から現代まで」など、テーマ的に分類して教えています。)

かく言う私も、歴女を自称するわりに、近代史については知らないことが多く、この歴史ブログシリーズを書いていて改めて「19世紀後半の日本とアメリカの同期性」について興味をもったわけですが、その「4G経済」のもう一人の同期生であるドイツについては、実はあまりよく知らないのです。それで、「Long 19th Century:  European History from 1789 to 1917」という歴史講義をオーディオブックで聴いています。講師のロバート・ワイナー教授はアメリカ人ですが、「欧州」を起点として世界を見ると、この時期「アメリカ」と「日本」が、「欧州外の新勢力」として、ほぼ必ず一緒にあちこちで言及されるのは面白いです。日本視点だと、「欧米列強」がいっしょくたで、日本は「遅れてる」としか見えないのですがねぇ。ワイナー先生は「日本の影響を軽く見るべきではない」などとおっしゃっています。

欧州の中でも辺境の地であったドイツは、数多くの諸侯国が割拠しており、ナポレオンが弱いところをつぶしたおかげで統合が進み、さらにそこからプロシアが勝ち抜いて他をロールアップしていきます。そして「入れ替え戦」ともいうべき1870年の普仏戦争に勝ってドイツ帝国となり、ついに欧州メジャーリーグにはいりました。このシリーズ(7)で述べたように、アメリカの南北戦争(1864)、日本の明治維新(1868)、ドイツの統一(1871)は時期的に近く、技術の爆発的進化の時代を背景に、「細分化していた地域を統一して、大きな国内市場を作って経済的に飛躍した」という意味で似ています。先行していたイギリスやフランスも、統一市場にはなっていたわけですが、この後のドイツの爆発的な進化に比べ、技術爆発への対応がいまいちめざましくなかった理由は、この歴史講義だけでははっきりわかりません。要するに、明治維新後の日本と同じで、「新体制」のおかげで既得権益をバリバリと踏み潰し、必死で追いつき追い越せで頑張ったのではないか、と考えておきます。

アメリカはこの前後に、「親」ともいえるイギリスを経済規模で追い抜き、世界一の経済大国となりますが、若い国であるので、図体はでかいが「厨二病」の様相を呈しています。「経験不足で舞い上がっちゃった」のは、日清・日露戦争で浮かれた日本も同じ。そしてドイツも、「お局様」がぎっしりひしめく欧州の中で、ビスマルクの権謀術策でなんとかバランスを維持していたのに、ビスマルク引退後に舞い上がってしまいました。お局様たちのプレッシャーが強かった分、ドイツは日米よりも早く爆発して暴走してしまい、第一次世界大戦へと突入するわけです。(それにしても、ビスマルクというのは本当にすごい人だったのですね・・)

なお、アメリカでは「アメリカ独立のとき、実はドイツ人のほうが多かったので、本当ならアメリカの公式言語はドイツ語になる可能性があった」という俗説があるようなのですが、こうやって考えるとあきらかにデマですね。アメリカが独立した18世紀に、個人でアメリカに移住したドイツ人はいたでしょうが、ドイツはまだ海外領土をもつ力はなく、イギリスやその前のスペインのような組織的な入植が行われたわけでもなく、そんなにたくさんドイツ人がいたとはとても思えません。

: The Great Courses、Wikipedia

 

ベイエリアの歴史(21) – マイクロウェーブ・バレーの軍事技術

ドイツのレーダーの恐怖とブルーベリー伝説 さて次はいよいよショックレー・・と思った方、ザンネンでした。昨日の記事に関連する情報をいただき、面白かったので、ちょっと時間を前に戻して書いてみます。

第二次世界大戦前後、「シリコンバレー」となる前のベイエリアで、技術開発を支えたのは軍需産業であった、ということはお話しましたが、これまで私の読んだ資料の中には、その「軍事技術」についてあまり詳しく書いたものがなく、よくわかりませんでした。そのあたりには、どうやらこんな話があったようです。

アメリカは日本の攻撃を受けて1941年に第二次世界大戦に参戦しましたが、欧州ではその2年前からドイツが周辺諸国に侵攻して、イギリスがこれと戦っていました。しかしその2年の間、イギリスは欧州大陸に上陸することができずにいました。そこで、イギリスは新たに参戦したアメリカと相談して、太平洋よりも欧州戦線をまず優先し、空爆することを決定しました。(まー、だから緒戦は日本が勝てた、というわけなんでしょうね・・・)

イギリスは夜間に絨毯爆撃、アメリカは昼間にピンポイント爆撃、という分担でやろうということになりましたが、その攻撃はドイツの強力な早期警戒レーダーの網に阻まれてしまいます。ドイツでは、占領下のフランス・ベルギー・オランダから北ドイツにかけて、レーダーと地対空砲を緻密に設置し、イギリス・北海方面から飛来する米英の戦闘機を検知して撃墜していました。ヨーロッパの北部では、曇って視界の悪い日が多く、飛行機にとっては圧倒的に不利でした。

このため、両軍合わせて4万機の飛行機が撃墜され、両軍それぞれ8万人近い兵士が死傷または捕虜となりました。

連合軍側は、これに対抗するための空対地レーダーを開発し、1943年から飛行機に搭載されるようになります。しかし、それでも飛行機による爆撃は危険なミッションで、一回の攻撃で4~20%のパイロットが失われました。そして、パイロット一人につき従軍中25回出撃していたので、パイロットが生還できる確率は非常に低かったのです。

なお全くの余談ですが、このときイギリスでは、空対地レーダーの存在を隠すために、「我が軍には夜でも目がよく見える兵士が多いから、夜間でも正確に爆撃できるのだ、なぜならイギリスではブルーベリーをたくさん食べるのであるが、このブルーベリーが目に良いからである」というデマを流しました。そのデマが、現在に至るも「ブルーベリーは目によい」という都市伝説となっている、という話を読んだことがあります。

 

アルミホイルの雨が降る

パイロットの生還率を高めるためには、ドイツ軍のレーダー・システムを解析し、これを撹乱する仕組みがどうしても必要となりました。そこで、ハーバード大に秘密の無線研究所、Harvard Research Lab (RRL)が設立されたのです。MIT Radiation Labを分離した800人の組織で、そのトップとして招かれたのが、前回登場したスタンフォード大のフレデリック・ターマン教授でした。ターマンは学部はスタンフォードでしたが、大学院はMITというつながりがありました。

RRLでは、スパイ飛行機をドイツに飛ばして無線を傍受して解析し、レーダー妨害機を開発して連合軍の飛行機に搭載しました。また、ドイツのレーダー撹乱のために「アルミホイル」(そう、料理に使うアレ)の厚みがちょうどよいとの研究結果により、レーダー範囲に飛ばした飛行機から兵士が素手でアルミホイルをばらまくという作戦も1943年から行われました。日本ではお寺の鐘などを供出していた頃、アメリカでは全米のアルミホイルの3/4がこの作戦のためにかき集められたそうです。

そういうわけで無線の研究は軍事目的のためにとても重要で、軍の研究予算がMITやハーバードには1億ドルとか3000万ドルとかの単位で拠出されていたのに、スタンフォードにはなんと5万ドルぽっきりでした。この頃、いかにスタンフォードの存在が小さかったかがよくわかります。「なにくそっ、いつの日か、スタンフォードをMITやハーバードと肩を並べる大学にしてやるぞっ!」と、ターマン教授が夜空を見上げて、拳を固めて涙ぐんでいる図が思わず頭に浮かんでしまいます。

その志を胸に、戦後スタンフォードに戻ったターマン教授は、次の戦争に向けた軍事研究に備え、前回書いたような大学改革に着手し、自分の人脈を使って無線の研究者をゲットしていきます。1950年には朝鮮戦争が起こり、それを機にスタンフォードは初めて、本格的な官学共同研究パートナーとなります。引き続く冷戦では、ソ連の「核の真珠湾」を防ぐための防衛システムが重要となり、スタンフォードはNSA、CIA、海軍、空軍の研究パートナーの中心的役割を果たすことになり、軍の予算も飛躍的に増加します。

こうした流れのため、この時期のスタンフォードの軍事研究は、主にレーダー・無線の技術、そしてそれに伴う電子工学の基礎研究でありました。その研究成果をもとに、ヴァリアン・アソシエーツやロッキードが軍事機器を製造しており、近くて便利なスタンフォード・インダストリー・パークに入居したというわけだったのです。というわけで、50年代あたりには、この辺一帯はシリコンバレーではなく、「マイクロウェーブ・バレー」であったのだそうです。

<続く>

出典: GIGAZINE

ベイエリアの歴史(20) – スタンフォード・インダストリアル・パークの創設

フレデリック・ターマンの金儲け ヒューレットとパッカードを励まして、HPを設立するきっかけを作ったのは、スタンフォード大学電気工学のフレデリック・ターマン教授でした。ターマンは、学生がせっかくスタンフォードを卒業しても就職先が東海岸にしかなく、カリフォルニアに定着できないという事態を解消するために、自分の教え子に自ら起業することを勧めていたのでした。

無線の専門家であったために、第二次世界大戦中はハーバード大での軍事用無線の研究に従事していましたが、戦争が終わってスタンフォードに戻り、電気工学学部長となりました。当時、スタンフォードはまだまだ「リージョナル大学」、つまり全国区ではなくその地域の学生だけが主に集まるタイプの大学でした。そのスタンフォードを工学部門で全米トップクラスの大学にするため、ターマンは20年計画を立案し、教授陣の給与引き上げ、学生のための奨学金、研究設備や教室の充実などを推進しました。

いずれも先立つモノが必要なことばかりですが、当然今のスタンフォードのように金持ちの卒業生がいっぱいいて寄付金がバンバン集まるという状況ではなく、スタンフォードはおカネに困っていました。そこでターマンは、スタンフォードの広大な敷地の一部を開発して、そこから賃料収入を得ることを計画します。これが、1953年にできたスタンフォード・インダストリアル・パーク(現在はスタンフォード・リサーチ・パーク)で、世界最初のテクノロジー企業向けオフィス・パークとなりました。スタンフォード・インダストリアル・パークは、企業が入居するオフィスと、スタンフォード・ショッピング・センターやアパートなどから成っていました。ターマンが個人で儲けたわけではありませんが、ここでもカリフォルニアの「土地投機/不動産開発」の伝統芸が発揮されたというわけです。

シリコンバレーの父

最初の入居企業は、ターマンの教え子が起業したレーダー・電磁波機器の会社、ヴァリアン・アソシエーツでした。ヴァリアンはその後3つの会社に分割され、そのうち2つは買収されて名前が消えていますが、現在でも医療機器のヴァリアン・メディカル・システムズが独立で生き残っています。ヴァリアンの創業者は当時としては進歩的な考えをもっており、利益分配制度、従業員持ち株制度、従業員健康保険、年金制度などの福利厚生をいち早く導入したことで知られていました。ヴァリアンの初期の頃、スティーブ・ジョブスの母、クララ・ジョブスが働いていたことがあるそうです。

インダストリアル・パークにはその後、HP、イーストマン・コダック、GE、ロッキードなどが入居しました。1950年代終わり頃には、ロッキードはこの地域で5000人の従業員を抱える、最大の雇用者となりました。スタンフォード大のあるパロアルト周辺は、果樹園から急速にテクノロジー企業の町へと変貌していきます。

ターマンは1965年に引退するまでスタンフォード大学の運営に関わり続け、1982年に82歳で亡くなりました。彼の目論見どおり、この頃からスタンフォードは、全米大学ランキングを駆け上がっていき、卒業生が創設した企業が育っていきます。そして彼はインダストリアル・パーク構築の功績により、ウィリアム・ショックレーと並ぶ「シリコンバレーの父」の一人として知られています。

<続く>

出典: Wikipedia、NPRStanford NewsStanford OTLHP

ベイエリアの歴史(19) – 日系アメリカ人の戦い

マンサナー収容所 つらい話が続きますが、日系人収容所についてもう一回。

このとき「除外区域からの退去」を義務付けられたのは、「1/16まで」、つまり曾祖父母の中に一人日本人がいる者までが対象でした。よくもそんなところまで調べたものです。

全米10ヶ所のうち、人数で最大のものはカリフォルニア州トゥール・レイク(オレゴンとの州境)で、最大19,000人が収容されていました。ちなみに、現在のトゥール・レイクの町の人口は1000人です。そして、カリフォルニア州にあったもう一つのものが、有名なマンサナー(中央平原のシエラネバダに近いあたり)です。収容人数は最大11,000人ほどで、10ヶ所の中では中ぐらいの規模でしたが、写真を含む記録が最もよく残っているために、日系人収容所に関する資料としてマンサナーが使われることが多くなっています。マンサナーは、どうやら現在は「町」としては消滅しているようです。(アメリカでは、「郵便局の有無」により町として住所に記載されるかどうかが決まります。マンサナーの郵便局は1914年にすでに閉鎖されていました。)ちなみに、一番小さかった収容所はコロラド州グラナダで、7,300人でした。

収容所といっても、例えばナチのユダヤ人収容所のようなひどい扱いがあったわけではなく、収容所の中では家族単位での普通の暮らしが行われていました。ただ普通とはいえ、建物はすべて急ごしらえのバラックで、敷地から出ることは許されず、監視の兵士の銃口が常に内側に向けられていました。日本ほどではないとはいえ、戦時のため食料は不足気味の時期で、収容者たちは敷地内の荒れ地を開墾して、野菜などを作っていました。砂漠の中でもなんとか灌漑をうまくやっていたようで、「武士の農法」の面目躍如です。1万人もいれば、その中に大工や医者も教師もいたわけで、かなり「自給自足のコミュニティ」であったと思われます。

外からの情報が遮断されていたことにより、収容者は精神的に不安定な状況に追いやられました。収容所では、「米国に忠誠を誓って日本の天皇を相手に戦う意思があるか」という踏み絵のような調査票を書かされましたが、これにどう答えたらどういうことになるのか、という判断がつかず、混乱が生じました。多くの人はYES、米国に忠誠を誓う、という答を書きましたが、当時は差別的な法律により、日系移民一世は米国国籍を取ることができなかったため、日本の国籍を捨てても米国国籍が取れる保証がなく、YESと書けなかった人達もいました。いつここから出られるのか、一生出られないのか、という不安もあり、収容所の中でYES派とNO派の間での軋轢もありました。こうした分裂が、戦後もかなり日系人コミュニティに傷を残しました。

現在残るマンサナー収容所の写真の多くは、Toyo Miyatakeという日系人写真家の手によるものです。彼は収容の際にレンズとフィルムを隠し持ってはいり、手作りでカメラを作って収容所の写真を撮りました。最初は隠れて撮っていて、収容所長に見つかったのですが、最終的には所長も写真撮影を許可しました。

終戦後、収容所は閉鎖され日系人たちは元の住まいに戻りましたが、資産は奪われており、厳しい差別が残る中でゼロからの再出発となりました。

現在、サンノゼ空港の名前となっている政治家のノーマン・ミネタは、幼少時にワイオミングにあった収容所で暮らしました。当時、日系人は政治的に影響を持っていなかったために、このような差別的な法律がまかり通ってしまったので、戦後日系人は議員を州議会や連邦議会に送り込んで活動しています。また、ロックグループ「フォート・マイナー」のマイク・シノダは、「ケンジ」という曲で彼の家族のマンサナー体験を歌っています。

Go for Broke

第二次世界大戦中の日系人の悲劇としてもう一つ有名なものが、「442連隊戦闘団 The 442nd Regimental Combat Team」です。少数の指揮官を除く大半が日系人志願兵で構成された部隊でした。(この他に、第百歩兵大隊というものもありました。)

米国政府側としては、日本との駆け引きの一つとして「米国人として戦う日系人」部隊を作ろうという動機があったようで、一方志願兵たちは、「自分が米国に忠誠を誓うことで、家族や日系人に対する差別的環境から救いたい」と考えていました。多くはハワイからの志願兵で、ハワイでは定員1500人に対し、6倍以上の志願があり、定員をさらに1000人増やしたとされています。カリフォルニアなどの収容所からも、800人ほどが志願しました。

442連隊はヨーロッパの最前線に送り込まれ、イタリア・フランスを転戦して数々の戦功を挙げます。そして1944年10月、ドイツとの国境に近いフランス東部で、テキサス出身の隊がドイツ軍に包囲されているのを救出する命令が出ました。戦況は厳しく、ほとんど実行不可能と思われた作戦でしたが、442部隊はドイツ軍がボージュの森で待ち構えているところを血路を開いて強行突破し、ついにテキサス隊救出に成功しました。テキサス隊の211人を助けるために、442部隊は216人が戦死し、600人以上が手足を失うなどの重傷を負いました。

442部隊は、欧州戦線での全戦闘期間中、のべ死傷者率は31%であったとされます。日系アメリカ人が「武士的」であるという、最も大きな象徴です。

この部隊は、テキサス隊以外でも、ローマ攻略やダッハウのユダヤ人収容所の解放など、種々の戦功を挙げており、アメリカ合衆国史上最も多くの勲章を受けたとして知られていますが、「日系人差別」から、戦功の一部は公表されなかったり、勲章もあえて低い位のものを与えられたりしていました。後の日系人自身による名誉回復の努力により、勲功が事後アップグレードされた例が多くあります。

この部隊のモットーは「Go for broke」というもので、ハワイで賭け事をするときに有り金全部をかけて勝負を張るときの「当たって砕けろ」的な口語表現でした。テキサス隊の事件は何度か映画化されており、1951年のものがこのタイトルでした。私は2006年のインディ映画「Only the Brave(邦題:ザ・ブレイブ・ウォー)」の監督・主演レーン・ニシカワが資金調達のためにやっていた試写会に行ったことがあります。彼は自身の足でベイエリアや南カリフォルニアをまわり、主に日系人を対象に試写会をして資金を集めていました。もともとニシカワ氏が舞台出身で、なおかつ低予算ですので、スペクタクルもCGもなく、舞台的な映画でしたが、それがかえって市街戦や暗い森の中での緊張をリアルに表現していて、とても印象に残っています。そんな低予算でありながら、パット・モリタやジェイソン・スコット・リーなど大物日系・アジア系俳優が出てくれて、製作スタッフも日系を中心とするアジア系が手弁当で結集した、ということを、ニシカワ監督が挨拶で語っていました。

日系人の「戦い」は、いろいろな分野で今も続いているのですね。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、IMDb、Only The Braveウェブサイト

ベイエリアの歴史(18) – カリフォルニアにとっての日本との戦争

日系人強制収容 日本との戦争が始まると、カリフォルニアでは日系米国人の強制収容という事態が起こりました。1941年12月に真珠湾攻撃があり、翌年3月には最初の収容所がオープンしたので、なんとも手際がよいのに驚きますが、それには伏線があります。

日本人のアメリカへの移住は、20世紀にはいってから人種差別の激化とともに徐々にいろいろな制限が増え、1924年には一部の例外を除き、日本人のアメリカへの移住は禁止されます。この年の移住制限は、日本人だけでなく、東欧や中国なども対象であり、「大恐慌」前で表面上は景気がまだ良い時期だったはずですが、水面下では「職の奪い合い」が始まっていたのかもしれません。

1930年代にはいると、日本の中国・東南アジアへの進出が始まり、欧州でも戦争の気配が強まって、1936年にルーズヴェルト大統領は、いざというとにきドイツ系・イタリア系・日系という「敵性国民」を収容所に入れられるよう、リストアップを開始しました。そして本当に開戦となり、1942年2月に「大統領令9066号」に署名して、すみやかに収容が始まりました。

開戦直後はそういうわけで、カリフォルニアの日系人だけでなく、東部のドイツ・イタリア系も収容されたのですが、こちらは危険がないと見なされ短期間で解放されます。また、ハワイには15万人ぐらいの日系人がいましたが、これはハワイの全人口の1/3にあたり、そんなに収容したら経済が止まってしまう上に、それだけの規模の収容所を作って運営することが財政的にも不可能だったため、1,200~1,800人程度の収容で済んでしまいました。しかし、カリフォルニアの日系人は中途半端に少数派であったため、収容の憂き目に会います。当時、アメリカ本土には127,000人の日系人がおり、そのうち112,000人が西海岸(大半がカリフォルニア)に住んでいました。収容された人数は11~12万人だったとされているので、つまり本土の日系人はほとんど根こそぎ収容所に入れられてしまったということになります。

収容といっても、正確には「海岸線から160kmぐらいまでの『除外区域』からの退去を命じる」というのが法律の文言でした。多くの日系人は海岸沿いに住んでおり、一部は自発的に除外区域から引っ越したのですが、同時に資産凍結も行われたために、引っ越す費用もなく動けずにいたら、行き先を用意して連れてってやると強制された、という恰好です。このため、正式名称は「戦時移住局センター」(Wartime Relocation Authority Centers)であり、カリフォルニア内陸部、アリゾナ、コロラド、ユタ、ワイオミング、アーカンソーに10ヶ所設置され、いずれも人里離れた砂漠や荒野にありました。日系人は、身の回りの荷物だけを持って連行され、家も、農園や商店などの事業資産も、すべて失ってしまいました。

平和ボケ・カリフォルニア人のパニック

ドイツ系やイタリア系はお咎め無しで、日系人だけが大規模に収容されたのは、「アジア人種を差別していたから」だと思っていましたが、こうしてカリフォルニアの歴史を見てくると、どうもそれだけではないような気がします。「アメリカ連邦政府」の意図に加え、「カリフォルニアの特殊事情」も加わっているのです。

まず、アメリカが自らの動機で戦っていた相手は、日本だけでした。ドイツとイタリアは、欧州の同盟国が交戦していたために参戦しましたが、アメリカは当初欧州への介入にはあまり積極的ではありませんでした。

それから、カリフォルニアでは、強力な競争相手である日系農家を潰したい白人農家とか、どさくさにまぎれて日系人の土地を安く買い叩いて儲けたい土地投機屋とか、日系人を叩くと得をする人達が多くいました。「土地投機」の伝統がここでも発揮されます。

そしてもう一つは、日本からの視点では想像もしていなかった、「カリフォルニア人は、本気で日本軍がカリフォルニアまで攻めてくると思って恐怖におののいていた」という点です。

日本の敗戦話ばかり聞いて育った私からすると、ボロボロの日本軍がはるか遠くの金満アメリカ本土を攻撃するなど、「風船爆弾」並のありえない話に思えるのですが、開戦当初は日本軍は破竹の勢いでアジアと太平洋で勝ち続け、実際にアメリカの太平洋岸には日本の潜水艦が出没して、石油設備や商用船を攻撃していました。それを言ったら、東海岸でもドイツのUボートが出没していましたが、第一次世界大戦でも戦って多少は手の内を知っているドイツと比べ、よくわからない日本は突如やってきて、これまで一度も外国に自分の領土を侵略されたことのない自分たちをホントに爆撃しやがったのです。それに加え、太平洋戦争は「石油資源をめぐる戦い」であったことを考え併せると、アメリカ国内での石油生産の主力であったカリフォルニアに「日本がアブラを取りに来る」と考える向きもあったかもしれません。

アメリカ全体からみると、カリフォルニアは国土に組み入れられてからまだ100年もたっておらず、本格的な防衛体制もない手薄な場所でした。独立戦争も南北戦争も無関係で、外国との本格的な戦争ももちろんまったく経験がない、能天気な土地でした。

そんな平和ボケのカリフォルニア人がパニックに陥り、ずっと続いてきた差別の火に油を注いだ、と考えると納得がいきます。北のカナダ国境から南のメキシコ国境まで、海岸沿いを縦にスライスするような「除外区域」の境界線を見ると、住民は本気で「海からの攻撃」におののいていたということかなぁ、という想像が浮かびます。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、 山川世界史総合図録、山川日本史総合図録

ベイエリアの歴史(17) – 大戦前夜、シリコンバレーの誕生

HP創業 1938年、ビル・ヒューレットとデイヴィッド・パッカードが、オーディオ発振器を作り出しました。一般にこのときが、「シリコンバレー」の誕生とされています。

ヒューレットとパッカードは、スタンフォード大学エンジニアリング学部の同窓生でした。卒業後、パッカードは例の人材輩出企業(!)、北ニューヨークのGEに就職、ヒューレットはスタンフォード大学院に残りましたが、大学時代の教授の勧めで二人はベンチャー創業を決意。パッカードは、結婚したばかりの奥さんと、38ドルで買ったドリル・プレスを車に乗せて、はるばる大陸を横断してカリフォルニアへと帰ってきました。途中、ルート66を通ってきたかどうかは不明です。

ヒューレットは新婚カップルのために新しい家を探し、パロアルトの367 Addison Avenueにある家に決めました。母屋にはパッカード夫婦が、裏庭の小屋にヒューレットが住み、ガレージが作業場となりました。二人は、奥さんの稼ぎで生活を支えながら、そこでいろいろなモノ、たとえば医療機器や天体観測機器から、ハーモニカのチューナーやトイレを自動的に流すための部品までを、ちょこちょこと作っては売っていました。

1938年にヒューレットは音の周波数を計測する新しい方式を開発し、二人は従来のものよりも画期的に安定して低コストなオーディオ発振器をつくりました。この製品がウォルト・ディズニーの目に止まり、1940年にリリースされた劇場用アニメ映画「ファンタジア」の製作に使われ、彼らの初の「正式な製品」となります。1939年には正式に会社を創業、コイン・トスにてどちらの名前を先にするかを決めて「ヒューレット・パッカード(HP)」となりました。

この367 Addisonには今もごく普通の家があり、カリフォルニア州の史跡と指定されて「Birthplace of "Silicon Valley"」という看板が立っています。HPが2000年にこの家を購入して保存活動をしていますが、一般公開はされていません。そして、HPは2013年にFortune500のトップ10リストからずり落ちてアップルに追い越されるまで、シリコンバレー最大の企業でした。

それにしても、なんとものどかな創業譚であります。1939年といえば、日本ではノモンハン事件、欧州では第二次世界大戦が始まり、カリフォルニアでもモフェット・フィールドにエイムス研究所ができた年とはいえ、まだまだ戦争とは無縁の別世界のようです。

物量作戦がつくった病院

そのカリフォルニアが本格的に戦争に関わるようになるのは、1941年真珠湾攻撃の頃からです。この年には、ビル・ヒューレットも会社を離れて軍隊に入っています。

太平洋での戦闘に備え、アメリカ政府は、太平洋岸での船の大量増産というきわめてアメリカンな物量作戦を発動。この要請に応えたのが、ヘンリー・カイザーというアントレプレナーでした。

カイザーはニューヨークの生まれでしたが、カリフォルニアに移住して道路工事を請け負う会社などをやっており、1942年、リッチモンドにカイザー造船所を設立して「リバティ」と呼ばれる船の製造を開始します。彼は造船の経験はありませんでしたが、フォード自動車工場の組立ラインの仕組みを研究し、パーツに番号を振って管理したり、従来はリベットで打ち付けていた工程を自動車のような溶接に変えるなどにより、従来より大幅に短時間(平均45日)で船を作る工法を編み出しました。

大増産体制のために大量の従業員が必要となり、アメリカ中から人をかき集めたのですが、その多くが南部で失業していたアフリカ系の人達でした。このために、現在でもリッチモンドやオークランドなど、サンフランシスコ対岸のイーストベイにはアフリカ系の人口が集中しています。

「戦争の一部」ともいえる厳しい工程の中で、事故も多かったのでは、と想像されます。カイザーは、こうして集めた従業員のために、政府の軍事予算からファイナンスを受けて、造船所内に病院を設立します。これが、のちにカイザー・パーマネンテという病院・医療システムに成長します。

現在カイザー・パーマネンテは、なにかと「ヒドイ」と言われるアメリカの医療保険システムの中で、ユニークな存在として知られています。普通は病院と医療保険は別々で、患者は病院でかかった費用を保険会社に申請して保険金が出るわけですが、カイザーは「病院」と「保険」が一体化しており、いわば「会員制の病院」です。メンバーは通常の医療保険と同じ程度の「会費」を毎月払い、必要に応じてカイザー病院にかかります。通常のシステムでは、病院側に「診療費を安くする、内部コストを下げる」というインセンティブがあまりないために、アメリカ全体の医療コストが大変なことになっているのですが、カイザーでは決まった会費で運営するために内部コストを下げるというインセンティブが働くので、早くから電子カルテなどのIT化を進めて、患者側にとっても圧倒的な効率の良さを誇り、アメリカの「医療IT」の世界では「巨人」的な存在となっています。

カイザーは、カリフォルニアとコロラドぐらいにしか病院ネットワークがないため、アメリカ国内でも一般の人には意外に知られていません。また、私自身2000年頃にカイザーの会員になりましたが、当時のイメージは創業の経緯からもわかるように「ブルーカラー向けの安い病院」であり、実際に来ている患者もメキシコ系の人がやたら多かった覚えがあります。その後10年ほどの間に経営を大改革して現在の「医療ITの巨人」となりました。「アメリカの最も深刻な社会問題」とも言われる医療問題にITで対決するという意味で、カイザーはベイエリアの重要なテクノロジー企業の一つであると思っています。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、 山川世界史総合図録、山川日本史総合図録、HP HistoryThe Birth of Silicon Valley, Fortune500

ベイエリアの歴史(16) – テクノロジー・キャピタルへの第二歩

駆け足の20世紀初頭 ぐだぐだと寄り道ばかりしていますが、実は19世紀終わりから20世紀前半まで、ベイエリア歴史的には私が心惹かれるネタがあまりありません。仕方ないので、パラパラと小ネタを箇条書きにしてこの時期は過ぎてしまうことにします。

  • 1910年 メキシコ革命始まる。メキシコからの移民が増加。
  • 1913年 カリフォルニア州排日移民法成立。アジア人やメキシコ人に対する差別がさらに激化。
  • 1914年 パナマ運河開通。東海岸とカリフォルニアを行き来する船が南米を回る必要がなくなり、物流がますます盛んになった。
  • 1914~18年 第一次世界大戦。欧州が戦場となり、アメリカは「戦争景気」でますます勢いを増し、債務国から債権国となった。
  • 1919~33年 「禁酒法」施行。第一次世界大戦でドイツが敵国となり、ドイツ系アメリカ人が多かったビール産業(アンホイザー・ブッシュ、クアーズ、ミラーなど)を敵視する感情的な世論も禁酒法を後押ししたと言われる。厨二病をますますこじらせている感じ。19世紀前半から少しずつ育っていたカリフォルニアのワイン産業は、フィロキセラ(ブドウに寄生する虫)大被害に加え、この禁酒法で大打撃を受けていったん壊滅した。
  • 1929年 大恐慌。カリフォルニアもそこそこ影響を受けたはずだが、それよりニューディール政策で北カリフォルニアにシャスタ・ダムができたとか、そんな話ぐらいしか教科書には載っていない。

軍需産業出現

さて1930年代を迎え、ついにベイエリアに大きな転換期がやってきます。ようやくネタが出現♪

1931年、サニーベール郡は海に面した広大な農地を買い取り、その敷地をわずか1ドルで米国海軍に転売します。海軍は、これを空母Maconの航空基地として使用します。ここなら、サンフランシスコ名物の霧の影響があまりなく、飛行機の発着に都合がよかったためです。この航空基地は基地の創設者である海軍少将の名をとって「モフェット・エア・フィールド Moffett Air Field」と名付けられました。

1939年には、現在のNASAの前身であるNACAが、ここにエイムス航空研究所 Ames Aeronautical Laboratoryを作りました。

ベイエリアが現在の「テクノロジー・キャピタル」となるに至る第一段階は19世紀末のスタンフォード大学設立であり、第二段階がこのモフェット・フィールドの創設と、それ以降の軍需技術の集積であると私は考えています。それまで、フルーツを産する農村に過ぎなかったこの地域が、ここから大変身していきます。この時に大損を覚悟で1ドルで土地を売ろうという決断がどのように行われたのか詳細はわかりませんが、振り返ればその後の産業を創出する先行投資としてはものすごく効果的な投資でした。アメリカ国自体が「土地投機」でできてきたようなものなので、土地投機の達人がここにもいた、というだけのことかもしれません。

エイムス研究所はインターネット草創期に重要な役割を果たし、モフェット・フィールドは現在では軍事的な役割を大幅に縮小し、すぐお隣に本社のあるグーグルが実質的な「主(ぬし)」となりつつあります。

1931年、日本では満州事変が起こっており、1939年はヨーロッパで第二次世界大戦が始まった年です。ここまで、アメリカの軍事活動はおもに対ヨーロッパ(東)およびメキシコ(南)だったのですが、ここへ来て太平洋(西)も武装する必要が出てきた、という流れでモフェット・フィールドができたと思われます。風が吹けば桶屋が儲かる的に言えば、シリコンバレーの成立は日本のおかげもちょっとあるかも、と言えるような気がします。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、 山川世界史総合図録、山川日本史総合図録、NASAMoffett Field History

ベイエリアの歴史(15) – ヘンリー・フォードとルート66

人材輩出会社 パワハラ経営者などと書きましたが、エジソンの影響力は何かとすさまじく、その後のアメリカの屋台骨を支える産業クラスターにあちこちで深くかかわっています。アメリカというより、世界の自動車産業の父であるヘンリー・フォードも、エジソン電灯会社のエンジニアとして、そのキャリアを始めました。ここでは、現代のシリコンバレーならペイパル、日本ならリクルートのような、人材輩出企業という役割ですね。

フォードは、趣味でやっていたガソリンエンジンの改良(エンジンも自動車も、欧州ですでに発明されていた)の成果をトーマス・エジソンに見せたところ、エジソンに励まされたので、会社を辞めてスタートアップを始めます。グーグルの「20%ルール」のような感じです。テスラはいびりまくったエジソンですが、フォードとは商売で競合しないからか、単に馬があったからか、終生友情を維持しました。(ただし、エジソンはフォードの会社への投資はしませんでした。)

フォードの「エンジェル投資家」となったのは、材木で一財産築いたデトロイトの事業家でした。このためフォードは、デトロイトで最初の自動車会社を立ち上げました。1899年のことです。しかし、投資家が他のエンジニアを連れてきてしまったので、フォードはそこをすぐに辞めてしまいます。この最初にフォードが捨てた会社が、キャデラック社となります。フォード自身は、デトロイトの石炭ディーラーなどを新たな投資家として引き込み、1903年にまた新しい自動車会社を作りました。これがフォード・モーター・カンパニーです。こうして「モーターシティ」ができあがっていきます。

モデルTのインパクト

1908年、「モデルT」が誕生します。モデルTの大量生産の仕組は非常に大きなインパクトをアメリカ経済に与えました。一つは、標準品を大量生産してコストを下げ、それによって価格を下げてシェアを拡大し、ますます数量を増加させる、という「数量効果」サイクルを確立したこと。もう一つは、数量効果で生み出されたマージンを原資に従業員にたくさん給料を払い、自分たちで作った自動車を買わせるようにして、「中流階級」「消費者」をつくりだしたことです。さらにその消費者が、貯めたお金を株式市場にも投資して、「労働者=消費者≒資本家」という構造ができました。

農業ベースの「1G経済」では、農民は「生かさず殺さず」の存在でした。スペインなどの「2G経済」でも植民地は搾取の対象であり、極端な話、鉱山から出る金銀さえあれば住民は皆殺しでもよかったわけです。イギリスなどの「3G経済」の植民地はキャプティブ・マーケットですから、住民は「お客」とはいえ強引に売りつける相手であって、これまた搾取の対象でした。大きな国内市場を持つ「4G経済」でも、「資本」の発達が先行した初期の頃は「わざと目が悪い老人をべらぼうに安い給料で運転手として雇い、お客の安全など無視して儲ける鉄道」(エドワード・チャンセラーによる)のような、パワハラ資本家が跋扈したのですが、ここへきて、パワーバランスが「労働者=お客/消費者」に大きくシフトし、20世紀の世界の姿を規定するようになります。

ルート66でカリフォルニアへ突っ走れ

自動車が増えると、自動車用道路の需要が大きくなります。お客から運賃をもらえる鉄道と異なり、道路は料金が取りづらい(有料道路はあるがやや例外的な存在)ので、さすがにアメリカでも「商売」として民間企業が投資するのではなく、政府による計画・整備が始まりました。

現在のインターステート・ハイウェイ(州際高速道路)システムは戦後のものですが、アメリカを縦横に結ぶハイウェイの計画は、1916年頃から何度かにわたって検討・実施されました。「ルート66」といえば、ナット・キング・コール、チャック・ベリー、ローリング・ストーンズなど多くのアーティストが演奏しているスタンダード曲ですが、シカゴとロサンゼルスを結ぶこのハイウェイができたのは1926年のことです。日本ではまだ自動車さえ珍しかった頃なのに、この曲の歌詞によれば、「2000マイル以上」という、壮大なハイウェイです。最近では、ピクサー映画「カーズ」タイトル曲のジョン・メイヤー版もよいですね。

さて、なにかと既得権益が強い日本から来た私としては、ここで「パワハラ鉄道資本家達が大反発して政治的・経営的に自動車を葬ろうとしなかったのか?」というのがどうしても疑問として消えません。ここまでいろいろ読んだ資料には、このあたりの事情は見つかりませんでした。鉄道屋さんたちがマフィアをつかってヘンリー・フォードを脅すとか、政治家に賄賂をばらまいてハイウェイ整備法案をつぶそうとするとか、しなかったのだろうか、と思いますよね、普通。道路整備は、法案の中ではもっぱら「国防・軍事」を主眼としているのですが、このあたりなんとなく「水面下でのバトル」の存在を感じさせます。どなたか、資料をご存知でしたらぜひご教示ください。

もしかしたら、鉄道屋さんたちが「やりすぎた」ということなのかもしれません。現在の日本で「ブラック企業」が世論の反発を浴びるように、さすがに鉄道のブラックぶりが広く知られるようになり、これに対して従業員にたくさん給料を払う自動車屋さんは「ホワイト企業」として世論の支持を得たのかもしれません。(ただ、自動車会社でもその昔労働争議は激しかったという印象がありますが・・)この当時、アメリカではそれだけ「世論」というものの存在が大きくなっていたのか、とも思いますが、フォードによる広汎な「中流階級」の成立と「鶏と卵」のタイミングで、ありえたことと思います。それに加えて、ハリウッドほど遠くなくても、デトロイトという、ニューヨークから離れた場所であったから難を逃れた、ということかもしれません。

なにしろ、こうして、シカゴからセントルイスやオクラホマシティを経由して、自動車でサンタモニカまで行けるようになり、一方で鉄道は衰退して現在に至っています。

When you make that California trip Get your kicks on route sixty-six

<続く>

出典: エドワード・チャンセラー「バブルの歴史」、C.P. キンドルバーガー「経済大国興亡史」、Wikipedia

ベイエリアの歴史(14) – アメリカをつくった「資金」の正体

「3G経済」の投機マネー 金融史上「3大バブル」と呼ばれるもののうち、最初の「チューリップ・マニア」が起こったのは1636年頃、オランダでのことでした。(日本ではこの年、鎖国令が出ています。)

珍しいチューリップの球根が高値で売れるとの期待で、球根の先物市場が過熱し、短期間で消滅したというできごとです。(どこまで史実か、疑う向きもあるようです。)その次のものが、1719年フランスの「ミシシッピ・バブル」でした。「ミシシッピ会社」は、アメリカのルイジアナ植民地の開発の権利をフランス政府から許諾されましたが、バブルになったのはその部分ではなく、この会社がフランス政府の債権を肩代わりするという複雑なスキームの部分で、植民地開発はぜんぜん儲かっていなかったというより、まともにやっていたのかすら怪しいようです。翌年1720年には、イギリスで似たようなスキームで、3番目の「南海会社バブル」(南米の開発会社との看板だった)があります。

ともあれ、この時期の植民地開発は、このように政府から開発許可や通商権利許諾をもらった民間会社が、民間資金を集めて植民地に投資するというスタイルが多くとられておりました。その典型例が「東インド会社」です。アメリカ大陸の開発も、一攫千金を狙ったヨーロッパの投機マネーによる「土地投機」という性格が強いものでした。

ミシシッピ会社と南海会社はほとんど詐欺で、他にも口先ばかりの泡沫会社がたくさん浮かんで消えましたが、それでもまともな会社もあり、成功する例もあります。1690年、日本では「生類憐れみの令」などというアホなことをやっていた頃には、もうロンドン証券取引所ができており、企業への株式投資という仕組みはこの頃から定着していきます。

この投機マネーの正体は、私の定義による「3G経済」の国々(オランダ、フランス、イギリスなど)において、自分たちで毛織物などを作って売る「メイカー的な人達」が勃興したために、それまでの「2G経済」と比べてはるかに多くの人達が小金を持つようになり、「産業投資家」の裾野が広がってだぶついた資金、であると思われます。クリストファー・コロンブスはスペイン女王の資金を使いましたが、イギリスやオランダのアメリカ植民地開発は民間人と民間資金がおもに担いました。ジョージ・ワシントンも、ベン・フランクリンも、パトリック・ヘンリーも、みんな「土地投機家」でした。ここが、日本の戦国時代の国盗り合戦と根本的に違うところで、宗主国の政府が税金を投入して開発したのではないのです。(もちろん、防衛などにそれなりに税金は投入したでしょうが。)

バブルが産んだ国

産業革命でその傾向はますます強まり、19世紀の前半、イギリスで鉄道が大発展したのは、「鉄道は儲かる」ということで、株式市場が盛り上がったためです。鉄道の敷設は、回収期間が長く大きな額の先行投資が必要で、多くの人が参加することでリスクが分散するというメリットは確かにありますが、「祭りになって勢いでやってしまった」という面もありそうです。そのあと、19世紀後半にはアメリカで鉄道投資ブームが起こり、レランド・スタンフォードのような鉄道王たちが大金持ちになり、勢いでカリフォルニアまで鉄道が伸びてしまいました。その後バブルが弾けて没落する人は多いですが、「勢い」で短期間に資金を投入してインフラを作らなければ、なかなか新しいモノへの長期投資は動かないというのもまた事実で、そのために投機やバブルも「仕方ないよね」と考える人は(特にアメリカでは)多くいます。(かつての日本のように、政府が主導で先行投資して成功するのは、イギリスやアメリカなどの先例があったからできたことです。)

ニューヨーク証券取引所は1790年代にその前身ができました。1860年代には南北戦争の「戦争景気」、その後は鉄道ブームやエジソンなどの新技術ブームで沸き、一発当てれば大金持ちだと思うから新技術をみんな競って発明しました。

ヨーロッパ人がこの大陸を発見して以来、この国にやってくる人は筋金入りのアントレプレナー、資金は投機マネー、もうとにかく国そのものがバブル景気の勢いで作られたようなものです。歴史学者エドワード・チャンセラーは「アメリカは投機の国であり、その株式市場では誕生の直後から相場師が活躍し、旧世界では類を見ないほどの規模で相場を張っている」と述べています。

全体的に、90年代の「インターネット・バブル」を思い出します。

19世紀後半から20世紀初頭のアメリカでは、こうしてインフラの発達により、農業や工業という「実体経済」が急成長し、人口が増えて需要が増大し、経済が拡大していきます。サンフランシスコでは1906年に大地震が起こりますが、むしろその後の建設ブームにつながったくらいで、あまりダメージはありませんでした。お金持ちになった人達はますます資金を株式市場に投じ、相互作用で株式市場は過熱していきます。そしてやがて、大恐慌がやってきます。

<続く>

出典: エドワード・チャンセラー「バブルの歴史」

ベイエリアの歴史(13) – それぞれの「坂の上の雲」

19世紀末という時代 「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。・・・(中略)・・・上って行く坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。」

ドラマ「坂の上の雲」は、渡辺謙の印象的なナレーションで幕を開けます。日本人としては「明治維新のあと、欧米に追いつこうと日本は頑張ったなぁ・・あの頃の日本人は偉かったなぁ・・」とじーんとくるわけですが、こうして違う角度から歴史を見ていると、どうもこの時期、坂の上の雲をめざしてオプティミズム満載で坂を登っていたのは、日本だけじゃなかったのでは、と思えてきます。

日清戦争は1894年、日露戦争は1904年ですから、ドラマの舞台は、ちょうどエジソンやベルが次々と発明をし、南カリフォルニアで石油が次々と発見される時期にあたります。日本よりはかなり先にいっていたとはいえ、アメリカも南北戦争で数多の国民を失い、南北対立の傷を負った後でしたし、欧州列強から見ればアメリカはまだまだ、ナポレオンが「いらんわー!」と思っちゃったぐらいの未開で野蛮な国でありました。そこへ、電気や石油という新しいテクノロジーの波がやってきて、オプティミズム満載ではっちゃけて、厨二病を発症したのでした。

ドイツでは、1871年に統一帝国が成立したあと、1879年にジーメンスが電車を発明、1882年にコッホが結核菌を発見、1883年と89年にダイムラーがガソリン機関と自動車を発明、1895年にレントゲンがX線を発見、というぐあいに、これも怒涛の勢いで技術が発展していきます。フランスでも1881年パストゥールが狂犬病菌を発見、1889年エッフェル塔建設、1898年キュリー夫妻がラジウムを発見、この頃にパリでは地下鉄ができています。イタリアではマルコーニが1893年に無線電信を発明しています。

新技術に対する姿勢

要するに、この時期は世界的に技術が爆発的に進歩する、歴史上の特異期にあたっていたと思います。黄金期であったはずのイギリスは、過去に成功した仕組みが足かせになり、例えばアメリカで出現した新しい造船技術をイギリスの熟練工が嫌って取り入れるのが遅れた、といった具合に、多くの産業で新技術への対応が遅れ、そのためにプロセス改善が行われなくなり、ずるずると沈んでいきます。(この時期のイギリス産業衰退の事例は、今の日本の参考になりそうな点が多くありそうです。造船技術を「IT」に置き換えてみてください。)

当時の日本では、新しい技術を取り入れて不利益を被る既得権益をもつ人達があっても、「そうしないと欧米列強にやられてしまう」という危機感が国民的合意だったので、既得権益を踏み潰して進むのが当たり前の時代でした。「坂の上の雲」のドラマで、私が一番印象に残った場面はなんといっても、悲惨な二百三高地攻防戦のあと、工兵が二人がかりでケーブルを巻いた大きなリールを持ち、電話線を延ばしながら真っ先に頂上に向かって走り登っていくところです。((;_;)カンドウ←元NTT社員なもので)日本軍はもう、電話を使っていました。また、日本海海戦で秋山真之が発した「天気晴朗なれど波高し」のメッセージは、無線電信で伝えられました。

日本は、おそらくまだ高価だった新技術を、戦争に負けないために必死に取り入れていたのです。そして、この爆発期の波にうまく乗れたということが、この後の日本の運命に大きく寄与していると思います。「この時期に、日本は明治維新をやって成功したが、中国はタイミングを逃した」というのは、そういう意味なのです。

そして、特にアメリカとドイツという「4G経済同期生」たちは、それぞれに坂の上の雲を目指してがんがん坂を上っていたのでした。

一番高い坂に最初に登りついたのはアメリカでした。1894年に工業生産力で世界一になり、1898年の米西戦争ではスペインの「2G経済」のライフがついにゼロとなる最後の「棺桶のふたに釘」を打ち、世界トップの国となります。

<続く>

出典: C.P.キンドルバーガー「経済大国興亡史」、山川世界史総合図録、山川日本史総合図録、司馬遼太郎「坂の上の雲」