ベイエリアの歴史

【ナンデモ歴史51】●の川が火の海になり、世紀の「大逆流」工事へ

10年ほど前の秋、シカゴを訪れたとき、住宅街にはレンガ造りの住宅が並び、街路樹の大きな葉が鮮やかな黄色に色づいて、雨でより色が深くなった茶色の町並みに映えていました。その後、この美しいイメージがが私の「シカゴ」のアイコンになっています。カリフォルニアの我が家近くでは、葉が赤くなるものが多く、黄色はあまりないため、特に印象に残ったのでした。

しかし、昔は違いました。「野蛮人の海岸(barbary's coast)」と呼ばれていた頃のめちゃくちゃなサンフランシスコがすごいブームタウンだと思っていたら、どうやらシカゴのブームタウンぶりはもっと激しかったようです。急激な人口増加にインフラがついていかず、大きなきしみが発生しました。

いろいろありましたが、大きな問題のひとつが公衆衛生でした。この時期多くの旅行者が「今まで行った中で一番汚い町がシカゴ」と書き残しており、あまりの汚染のため伝染病が蔓延していました。下水道がつくられましたが、下水は処理せずそのままシカゴ川に流し込んでいたので、ほとんど意味がありません。住民のトイレからの人●、食肉処理場からの牛豚の内蔵や骨などのクズ、その他あらゆる有機ゴミがシカゴ川に流れ込んで、大変なことになっていました。

1871年、未だに原因がはっきりしないようですが、町の東南の一角で火事が発生しました。当時のシカゴでは木造の家が多かったために、またたく間に火は広がりました。火はだんだん中心街に向けて進んできましたが、その先には、市街地の中央を分断するシカゴ川があります。そこで火は止まるだろう、と多くの人が安心したのも束の間、なんと、●の川から発生するメタンガスに火がついて、火事はむしろ川をつたって燃え広がってしまいました。この火事で、300人が亡くなり、市の全人口30万人のうち1/3が焼け出され、ホームレスとなってしまいました。

しかし、幸いなことにシカゴの産業を支える工場や倉庫群はそれほど大きなダメージを受けず、むしろ復興景気が起こって、住民は家はなくても仕事はいくらでもある、という状態でした。このときの復興都市計画として、住宅をレンガやブラウンストーンににすることが義務付けられ、今の美しいレンガづくりのシカゴの町並みができました。

さらに、大きな改革が計画されました。比較的短い流域からミシガン湖へとゆるやかに流れ込んでいたシカゴ川の流れを逆にして、シカゴ川にミシガン湖のきれいな水を取り込み、ゴミは運河経由でミシシッピ川に押し流す、という「大逆流」土木工事であります。湖から近い川の入り口あたりを掘り下げて水を吸い込み、既存の運河をさらに拡張するという作戦で、これが成功して1900年に完成しました。その後、シカゴのゴミが流れ着くようになったミシシッピ川下流の複数の州から訴訟を起こされ(そりゃそうです、迷惑千万ですよね)、今でもリバークルーズのガイドのおじさんは「これらの州には申し訳ないことをしたんだけどゴニョゴニョ」と述べておりました。このため、現在この運河は「Sanitary and Ship Canal」と、「公衆衛生」という名前がついています。

(運河の入り口、このあたりの底を掘り下げた)

シカゴ川逆流工事は、American Society of Civil Engineeringの選ぶ「20世紀の十大公共工事」のひとつに数えられています。これだけでなく、19世紀終わりから20世紀初頭のバブルの頃のシカゴでは、この種の力任せの大型土木プロジェクトのエピソードがたくさんあります。シカゴは地盤が比較的弱いのですが、深く掘り進んで鉄骨を埋める工法が可能になり、高層ビルが林立するようになりました。ガイドのおじさんは「ニューヨークはすぐ下が岩盤だから簡単だが、我が方は技術の力で解決して、ニューヨークと並び称される高層ビル街を作ったんだ」と、再び対抗意識を表明しました。

また、河口近くのシカゴの市街は水面とあまり違わない高さで危険だったため、「街をジャッキアップする」ということも行われました。「家1軒」のジャッキアップなら、「ビフォー・アフター」で見たことがありますが、街の街路一区画全体をジャッキアップし、その間上に乗っているオフィスや店舗は通常営業を続けていた、というから驚きです。現在のシカゴの河口沿いが、道路が層になって地下道路が多い複雑な構造をしているのは、こういう訳だったのですね。

この時期、鉄が大量に作られるようになり、土木・建築技術の発達を促した、ということが、シカゴの橋梁や地下道での鉄骨の嵐を見て実感されます。この時期のアメリカの技術革新と経済発展は、「動きが早い」と皆が嘆く現代と較べても、比較にならないほどのパワーとスケールだった、というのが私の持論ですが、その思いをさらに強くしました。

<続く>

出典:Chicago Architecture Foundation River Cruise Guide, Wikipedia

【ナンデモ歴史50】19世紀半ばの「大爆発期」

独立戦争を経てアメリカから欧州勢力が去り、18世紀の終わり頃には初めてフランス人が近くに農場を拓いて定住。そして1816年、アメリカとネイティブ族の間で戦いを終わらせる条約が成立し、シカゴ周辺はアメリカ合衆国に編入されました。

1830年、イリノイ州政府はシカゴ・ポルテージに運河を建設する計画に着手し、当時人口100人であったシカゴが「行政区域」として初めて成立しました。アメリカ国内の町となったシカゴには、五大湖を通ってニューヨークから通商船が到着するようになり、運河建設を期待して、東海岸の投機筋が殺到して土地投機ブームが発生しました。ご存知、アメリカの伝統芸の発動であります。(【14】参照)中西部でとれた農産物は、馬車でシカゴに集められ、船積みされて東に向かって湖を渡り、イリー運河とハドソン川を経由して、大消費地ニューヨークに運ばれるようになりました。シカゴには、このための穀物エレベーターや倉庫がどんどん建設され、人口はわずか10年で4000人に達しました。

シカゴ川とデスプレイン川=ミシシッピ水系をつなぎ、シカゴ・ポルテージを水路に変える「イリノイ・ミシガン運河」は、1848年に完成しました。サンフランシスコからほど近い山岳地帯で金が発見された年と同じ、というのも面白い偶然です。(その翌年1849年が有名なゴールドラッシュの年です。)これにより、大消費地ニューヨークと天然の大水路ミシシッピ水系が完全に水路でつながりました。この年には、鉄道もシカゴにやってきて、さらに「シカゴ商品取引所(Chicago Board of Trade)」が設立され、農産物を中心としたコモディティの先物取引が始まりました。(タイトルバックの写真が、現在のシカゴ商品取引所(Chicago Mercantile Exchange Center)です。)1848年は、シカゴ「大爆発」の年だったのです。

南北戦争前夜、「北部アメリカ」の高度成長期に、アメリカ全国に急速に広がりつつあった物流ネットワークのハブとして、シカゴは爆発的な成長期にはいります。1857年には人口9万人を擁する中西部最大の都市となりました。

穀物や材木に加え、豚や牛もシカゴで屠殺処理され、最初の頃は塩漬け処理や加工食品、その後列車での冷蔵輸送ができるようになってからは生肉として、東海岸の消費地に送られました。このため、食品メーカーがたくさんシカゴで勃興し、西から送られてくる材料をシカゴで加工して販売していました。

農業機械もこの時期に大発展します。1930年代に機械式刈り取り機/鋤を発明したマコーミック家は、この地にMccormick Harvesting Machine社(合併を経て現在はInternational Harvester社)を設立、農業の機械化に貢献し、「奴隷の不要な農業」を実現させました。現在、大きなカンファレンスがよく開催されるシカゴの展示場は、その名を冠した「マコーミック・センター」です。

また、小売店舗が発達していない地方を多く抱えていたアメリカで、「通信販売」事業が始まったのも、物流の中心地であったシカゴです。多くの小さな町では、西部劇に登場するような「ジェネラル・ストア」というナンデモ屋さんしか店が存在しないという時代でしたので、モントゴメリー・ワード社の創業者アーロン・モントゴメリー・ワードは1872年、数枚のカタログを作成して配布し、郵便で注文を受けて品物を郵送する、という商売を始めて大成功しました。モントゴメリー・ワードはシカゴ川が南北二股に分かれて北に向かうあたりに巨大な倉庫を建設し、川を隔ててほど近いところには、巨大な郵便局が作られました。1世紀半近くにわたってアメリカの通販小売を支えた同社はしかし、インターネット出現後の2001年に倒産してしまいました。その巨大倉庫は、その後アールデコ風の装飾を加えて小洒落た外観に化粧直しされ、現在はグルーポンの本社がキーテナントになっていて、時代の流れを感じさせます。もうひとつの通販の雄、シアーズ・ローバック社は1886年創業で、一時は世界で一番高い建物の記録を保持したシアーズ・タワー(現在はウィリス・タワー)も川の近くに建っています。

(グルーポンのロゴを冠した、かつてのモントゴメリー・ワードの倉庫。600 West、1908年建設)

産業と物流の大革新が起こり、泥棒男爵たちも含む「起業家」がまだ規制もへったくれもない新世界で大暴れし、シカゴなどいくつかの都市を中心として北部が大成長した結果、南北戦争が起こります。エイブラハム・リンカーンはイリノイ州選出の上院議員で、1860年、シカゴで開催された共和党党大会で、大統領候補に指名されました。当時、北部の産業勢力は共和党を支持しており、南部の奴隷制をベースとした産業構造と対立したというわけです。その後、移民の流入と激しい労働争議の時代を経て、シカゴは現在ではガチガチの民主党の地盤となっており、2008年には再びシカゴから、有色人種初のバラク・オバマ大統領が出たということに、あらためて感慨を覚えます。

現在、シカゴの中心街ミシガン通りがシカゴ川を超える橋のたもとに、リンカーンが現代の男性を諭し導く姿を模した巨大な像が建っています。その目線の先には、川に面して巨大なトランプタワーが屹立しています。あのリンカーンが、かつて自らが指導した共和党の現在の姿を見て、天上界で何を思っているだろう、と思いを馳せてしまいました。

<続く>

出典: Chicago Architecture Foundation River Cruise Guide, Wikipedia

【ナンデモ歴史49】「くさいネギ」シカゴの誕生

アメリカでは新学期も何も関係ないのですが、本ブログの「ベイエリアの歴史」シリーズは、本日より「ナンデモ歴史」としてリニューアルいたします!というか、もともと脱線しまくりでしたが、もはやまるでベイエリアと関係なくなって意味不明というのが理由です。引き続き、「歴女」の琴線に触れる歴史をナンデモ書いていきます。

先日シカゴに行く機会があり、友人たちが「シカゴ建築の歴史探訪リバークルーズ」というのに連れて行ってくれました。4月とはいえ、川面を渡る風は寒く、持参のユニクロダウンジャケットもむなしくガチガチ震えながらも、ガイドのおじさんが1時間半にわたり船上で滔々と語るシカゴとその建築の歴史は、めちゃくちゃネタが満載で、ちゃんと調べたい意欲がわいてきてしまいました。ということで、本日より数回にわたり、シカゴの歴史を書いていきます。

サンフランシスコと比べて、シカゴは「古い町」だと思い込んでいましたが、遡ると実はそれほど大きな違いはありません。シカゴの周辺にはもともと、アルゴンキン系のネイティブ・アメリカンが住んでおり、そこに最初に接触したヨーロッパ起源の人たちは、カナダのフランス植民地からやってきました。17世紀のことです。

【26】で述べたように、「船で欧州からやってきて、海に面した河口を発見して川を遡り、その流域を自国領と宣言する」というのがこの時代の通常のパターンでしたが、フランス人はカナダから五大湖経由でミシシッピ川を発見して下っていき、河口のニューオーリンズに達するという逆方向の経緯でした。そして広大なミシシッピ川流域をフランス領ルイジアナという「自国領」と宣言したのでしたね。

1673年、ルイ・ジョリエという裕福な毛皮商のフランス系カナダ人と、ジャック・マリエットというイエズス会宣教師の二人が、ミシシッピ川の探検に出発しました。まだカブリエ・ド・ラ・サールがニューオーリンズまで達する前のことです。カナダからミシガン湖をわたり、現在のウィスコンシン州グリーンベイから支流を経てミシシッピ川を下りましたが、途中まで行ったところで、ネイティブの人たちがヨーロッパの品物を持っているのを見かけ、スペイン人と出くわすとマズイと判断して引き返すことにしました。しかし、流れに沿って川を下るのは簡単ですが、漕いで遡るのはとても体力がいります。疲れてきたところ、途中でガイド役のネイティブ人が「湖までの近道を知っている」と言うので、それに従うことにしました。一行は、ミシシッピ川から支流のデスプレイン川にはいり、後に「シカゴ・ポルテージ Chicago Portage」と呼ばれる短い陸路を経てシカゴ川に達し、シカゴ川を下ってミシガン湖に至りました。当時、シカゴ川とデスプレイン川/ミシシッピ川はつながっていませんでした。

陸上輸送が発達していなかったこの時代、水路は圧倒的に効率的な交通手段でしたが、川の通行ではところどころ、滝や急流を避けたり、ある川から別の川に移ったりするため、船と積み荷を人間がかついで歩く「ポルテージ」という手段をとらなければなりませんでした。ジョリエ一行が往路でたどった旅程も、途中にいくつかポルテージが必要でしたが、なんせポルテージは大変なので、復路シカゴルートだと「ポルテージが短くて済む」ということが通商をしたい人にはとても魅力的で、これがシカゴの都市としての優位の原点となります。

シカゴ川がミシガン湖に流れ込む河口部分が現在のシカゴです。この付近には、ガイドのおじさん曰く「くさいネギ」(野生のニンニクとの記述もある)がたくさん自生しており、この植物をネイティブの人たちは「シカグワ」と呼んでいたので、これがフランス語風に「シカゴウ」となったのが町の名前となりました。「シカゴ」という言葉の響きはとてもカッコイイのですが、ガイドのおじさんは「イギリスのステキな町の名前がニューヨークの起源なのに、シカゴはくさいネギなのがくやしい」と、このあと数回にわたって登場する「ニューヨークへの対抗意識」を表明しました。

(シカゴの語源となった「くさいネギ」、現在の英語ではrampと呼ばれるらしい)

ちなみに、シカゴはイリノイ州に属しますが、「Illinois」というつづりは、フランス語をご存知の方なら「イリノワ」と読みたくなると思います。「イリニ族」が住んでいたので、「イリニの」「イリニの人」といった意味のフランス語というわけです。

その後、この地域で欧州各国を巻き込んだアルゴンキン対イロコイ、というネイティブ族同士の大きな争いが発生したため、18世紀の数十年にわたり、ヨーロッパ起源の人は定住することができず、放置されていました。

<続く>

出典: Chicago Architectural Foundation River Cruise Guide, Wikipedia

【ベイエリアの歴史48】今日は「フレッド・コレマツの日」です

本日、アメリカ版グーグルの検索トップページは、こんなイラストになっています。1月30日は、カリフォルニア州の祝日「フレッド・コレマツの日」、戦時中に迫害され、戦後名誉回復のために裁判を戦い抜いた日系アメリカ人、フレッド・コレマツ(日本名:是松豊三郎)さんの誕生日を記念するもので、このイラストは勲章(後述)をつけ桜に囲まれたコレマツさん、彼の背後のグレーのプレハブ小屋は第二次世界大戦中の日系人収容所の建物、彼の前のグレーの杭は収容所を囲う鉄条網の柵をあらわしているようです。

コレマツさんは1919年、カリフォルニア州オークランド(サンフランシスコから湾を隔てた向かい側)で生まれました。当時の日系アメリカ人の常として、学業でも仕事でも、希望がかなわず、断念したり失業したりすることが続きました。

そして1942年、問題の「大統領令9066号」が出されます。(今トランプが乱発しているあの「大統領令」と同じ仕組みのものを、ルーズヴェルトがだしたのでした。詳しくはベイエリアの歴史(18)を参照。)悪名高い日系人収容所の悲劇が始まるのですが、この法律は正確には、「日系人は太平洋岸から160kmまでの除外地域から退去しろ」という内容でしたので、自ら退去すればいい、ということでコレマツさんは身元を隠して東を目指しました。しかし途中で捕まってしまい、留置所に送られます。

ALCU(American Civil Rights Union、このところの入国禁止騒ぎで脚光を浴びている団体)の北カリフォルニア支部長と弁護士の助けを経て、コレマツはアメリカ政府に対して裁判を戦い始めます。いったんは保釈金を払って解放されたのに、また逮捕され、ユタ州にある収容所に送られてしまいました。収容所から裁判を戦い続け、有罪となっても控訴し、最高裁まで行きましたが、1944年に最高裁でも「日本人のスパイ活動は事実であり、戦時下では軍事上必要なことである」との判断により、有罪は覆りませんでした。

戦後は沈黙を守り続けていましたが、1980年にカーター大統領により日系人収容所の調査が始まって見直しが行われ、1988年には議会が強制収容に対する謝罪と補償を決めました。この時代の変化を受けて、1982年にコレマツも、法学者や日系人弁護士などの助けを得て、再審を求めて、再び戦い始めます。

1983年、北カリフォルニア州連邦地裁において、逆転無罪の判決を勝ち取り、コレマツの犯罪歴は抹消されました。法廷でコレマツは、「私は政府にかつての間違いを認めて欲しいのです。そして、人種・宗教・肌の色の関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです」と述べました。そして1998年、クリントン大統領は、「アメリカ市民として人権のために戦った名誉」のしるしとして、コレマツさんにアメリカ文民向け最高位である大統領自由勲章を授けました。コレマツさんはその後、2005年に亡くなり、2010年にカリフォルニア州は1月30日を祝日として制定しました。

収容所内では、コレマツさんは日系人仲間から排斥され孤立していました。アメリカ政府に協力するほうがよいので命令に従う、と考える日系人が多かったため、政府を相手に訴訟するなどけしからん、というわけです。収容所内では、コレマツさんに限らず、立場や考え方の対立で、仲間内どころか、家族の中でも厳しい対立が数多くあり、戦後日系人コミュニティを分断する深い傷を残しました。(ジョージ・タケイによる収容所体験を描いた「Allegiance」というミュージカルでは、このあたりの事情がわかりやすく描かれていました。)トランプ大統領による人権侵害に対する静かな抗議として、グーグルはフレッド・コレマツさんをページトップに掲げています。日本ではほとんど知られていないですが、この機会に、皆様にもコレマツさんの業績についてぜひ知っていただきたいと思います。詳しくは、ウィキペディアなどを参照してください。

 

【ベイエリアの歴史47】1992年、静かなる時代転換(ただしイケメンに限る)

2008年にオバマが流れを断ち切るまで、共和党のブッシュ王朝、民主党のクリントン王朝が交代で大統領になるのかもねー、といった話がありました

その王朝創始者である(?)クリントン夫が大統領選挙に勝ったのは1992年のことでした。その頃私はニューヨークに住んでいましたが、正直いってその時の自分の感想をよく覚えていません。2000年に子ブッシュがゴアに勝ったときは「えー、なんかやだなー」と思った記憶があるのですが、前に書いたように80年代は「共和党でいいんじゃね」と漠然と思っていたし、92年当時それほど共和党がキライではなかったので、どっちでもいいやー、ぐらいだったのかな、と思い返しています。

しかし、これまた前に書いたように、カリフォルニアがガチガチの共和党支持から民主党支持にあっさり鞍替えしたのが1992年で、その後は一度も共和党に戻ることなく、ずーっと民主党が勝っているガチガチのブルーステートになりました。

今ウィキペディアでこのときの経緯を読んでも、現職の強みを吹っ飛ばすほどの、巨大州カリフォルニアの大転換をもたらすほどの、大きな落ち度が父ブッシュにあったようには見えません。一方で、ビル・クリントンは選挙戦の間から女性スキャンダルが出たりして、ヒーコラ言いながら当選にこぎつけたように読めます。

ただ、ブッシュの言っていることが「なんとなくズレている」感じがしたことは覚えています。それは、やはり1989年の「ベルリンの壁崩壊」が原因でしょう。選挙戦中、ブッシュは「外交戦略」の実績を強調していました。実際に、レーガンのときからずっと言ってきた「ソ連打倒、社会主義打倒」を彼のときに成し遂げたワケです。これに対し、クリントンは「格差社会是正」などの国内問題を取り上げていました。

マルクス・レーニン主義も「資本家打倒」的な思想なわけですが、「ナニナニ打倒」というスローガンは長期的にはあまりよくない、と改めて思います。打倒が実現した瞬間に終わりになってしまうからです。共和党も、「ソ連打倒」が終わってしまっておしまい、でした。

当時のビル・クリントンとアル・ゴアの写真を並べると、まぁ、ぶっちゃけ、父ブッシュよりずっと若くて、イケメンであります。長身・イケメンが選挙に勝つことが多い、というのはよく言われることで(もちろん例外もあり、ゴアも子ブッシュに負けました)、オバマも「イケメン」点が加点されたという側面もあります。そして今年の大統領選が「嫌われ者同志の戦い」と言われるのは、実は「どっちもイケメンではないから」がホンネだと思ったりいたします。

とにかく、ベルリンの壁も、クリントン政権の誕生も、なぜか当時の私にはそれほど劇的な記憶として残っていません。ベルリンの壁も「へぇー、そんなことほんとにできるんだ、でもまたこの人達は、プラハの春みたいに弾圧されて、もとに戻っちゃうのではないのかな・・」と思っているうちに、いつの間にか戻らなくなりました。

そしてその後、90年代の間に、共和党の言うことが(私にすればどうでもいいような)ライフスタイル保守に偏っていき、どんどん共和党のイメージが悪くなってしまいました。

本当に大きなコトは、庶民から見れば遠い世界の出来事のようなことで、それがだんだん積み重なり、静かにいつの間にか変わっていくのかもしれません。

【ベイエリアの歴史46】レーガンの時代から諸行無常へ

古い時代はいざしらず、少なくとも20世紀以降ぐらいのスパンで、共和党が最も強かったのは、1980年代のロナルド・レーガンの時代です。そして、レーガンがあまりに強かったせいで、彼の政策や思想が現在に至る共和党の枠組みとなり、それが時代に合わなくなって、今の共和党の混乱を引き起こしています。まさに祇園精舎の鐘の声、諸行無常・盛者必衰であります。

現在から振り返ると、1960年代というのはアメリカが強かった古き良き時代、とつい思ってしまいますが、政治的には44/45で書いたように、暗殺と謀略が相次いだ混乱の時代でした。これに続く1970年代は、本格的にアメリカ経済が斜陽に向かう時代となり、2度の石油ショックで「化石燃料ベース」の大繁栄エコシステムが崩れてインフレがひどくなりました。従来型「謀略」政治手法のニクソン(共和党)がウォーターゲート事件で失脚、その次のカーター(民主党)は、日本国の私と同じ苗字のかつての某首相のように、「素人だからクリーンぽい」ということで大統領になっちゃった人で、進行するインフレとイラン人質事件に対して右往左往するばかりでした。

そのカーターを大統領選で完膚なきまでに叩きのめして颯爽と登場したのが、ハリウッドのカウボーイ、レーガンでした。

レーガンが俳優出身というのはよく知られていますが、俳優としてはそれほど実績がなく、それよりも「俳優組合」(Screen Actors Guild, SAG)のトップとして、戦後の「赤狩り」の時代を乗り切ったことが、その後の彼の政治キャリアにつながっています。「組合」ですから、SAGも赤狩りの時代には「狩りの対象」でありました。この頃レーガンは民主党支持だったそうですが、彼はSAGから「社会主義的な思想を抜く」よう努力し、「社会主義への憎悪」が強くなって、保守派・共和党へとコンバートしました。そして例の1964年共和党大会でのバリー・ゴールドウォーター支持演説で注目され、本格的に共和党の政治家となっていきます。

その後レーガンは、我らがカリフォルニア州知事を2期勤めました。1970年代といえば、UCバークレーを中心に学生運動が最盛期の頃でした。ヒッピーや学生運動はそういうわけでサンフランシスコ/北カリフォルニアがメッカでしたが、一方で一般庶民の間では反感が強く、レーガンは州兵まで動員して運動を抑圧しました。

そして2度の予備選敗退を経て、1980年についに大統領選に勝ちます。レーガンの政治思想は「アンチ社会主義、小さな政府、州への権限委譲」であり、共和党の中でも保守派寄り、「東部エスタブリッシュメントではない、西部新興州を地盤とする、アウトサイダー的な右派」という意味で、ゴールドウォーターの進化形のようなものです。下記いろいろ考えると、突き詰めればやはり「社会主義打倒」が彼の根本思想であった、と思います。

レーガン時代は、対ソ連軍拡を強化したことに加えて、「サプライサイド経済学」政策を特徴としています。これは「供給側=企業活動を促進すると経済が成長する」ということを優先しており、それまで主流だった「需要側=ケインズ経済学=公共投資で雇用を創出して需要を作り出す」のアンチテーゼとして登場したものです。政策的には、「限界税率(今よりも収入が増えた場合にそれに伴って税率がどれだけ上がるか)を抑制すると、人々は収入を増やす努力をするのでよく働くようになる(その結果、税収の絶対額はかえって増える)=税の累進性を緩める、最高所得税率を下げる」と「企業への投資を促進するため、キャピタルゲイン税率を下げる」ということをやりました。実際にレーガン時代に経済は成長し、政府の税収も上がりましたが、減税の効果はあったとしてもわずかで、実は代替として他の税金を引き上げた分、特にFICA、すなわち給与雇用者とその雇用主が負担する税で、メディケア(低所得層向け保険)やソーシャルセキュリティ(老齢年金)に使われる分の引き上げが効いているとされています。そして、軍事費が増大する一方、低所得向けのセーフティ・ネットをどんどん削減してしまいました。それでも、お金持ちがより儲かり経済が成長すれば、末端まで恩恵が「トリクルダウン」するとされました。こうして、バーニー・サンダースが攻撃する、「金持ち優遇、庶民冷遇」の仕組みが出来上がったわけです。

その時点でこの考え方が正しいと証明された事例はなく、当時から現在に至るまでメジャーな経済学者はこの考えを支持しておらず、やはりそんなうまい話はなかったという結果になっていますが、とにかく「社会主義国がやってること」の真逆をいく仕組みであり、要するに「アンチソ連、社会主義打倒」という当時の時代の空気に合っていたから支持されたということなのかな、と思います。

さらにこの時代、「社会主義打倒、小さな政府、ビジネス優遇」という政治思想とは直接の関係がない、「ライフスタイル保守」の人々が共和党と深く結びつきます。具体的には、「保守キリスト教」「堕胎反対」「銃規制反対」といった団体です。当初南部の保守派キリスト教団体は、南部ジョージアを地盤とするカーターを支持していたけれど、あまりにカーターがダメだったので見捨てて、共和党に鞍替えしてしまった、という記述があります。また、レーガンはカリフォルニア州知事時代に条件つきで堕胎を規制緩和する州法に署名しましたが、その後の結果を見てこれを深く悔やんでプロ・ライフ(堕胎反対)に鞍替えし、また自ら全米ライフル協会(NRA)に加盟してNRAが初めて正式支持した共和党大統領候補となりました。

私がアメリカに来たのは1987年、レーガン政権の最後部分にあたります。今なら「リベラル」の雰囲気の強いスタンフォード大学でも、当時ビジネススクールではやはり「ビジネス優遇」の共和党支持の人が多かったように思います。私自身も、アメリカ市民ではないし特に政治信条はなかったですが、周りに影響されて漠然と「共和党でいいんじゃね」と思っていました。諸行無常であります。

<写真>ロナルド・レーガン By This media is available in the holdings of the National Archives and Records Administration, cataloged under the ARC Identifier (National Archives Identifier) 198600.This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information.

<出典>Wikipedia

 

【ベイエリアの歴史45】1968年民主党の混乱と党内南北問題

私の頭では、「共和党=右、戦争推進、白人中心、インコンベント(既存勢力)、田舎」「民主党=左、戦争反対、ダイバーシティ賛成、チャレンジャー、大都市/カリフォルニア」という構図がこびりついてしまっているのですが、歴史的に見ると、こうした要素の組み合わせは昔と比べて大きく変わっており、その地盤とする地域も大幅に組み変わっている、というのを最近知り、認識を新たにしています。

そもそも、というところまでたどると、「奴隷解放」のアブラハム・リンカーンは、北部都市部産業家を代表する共和党であり、それに対抗した伝統的南部の勢力が民主党でありました。もっと近代になってからを見ても、1933年のフランクリン・ルーズベルトから1969年のリンドン・ジョンソンまでの36年間のうち、共和党の大統領はアイゼンハワー(8年)だけしかおらず、実は民主党のほうが「インコンベント」な存在でした。カリフォルニア州も、州として成立したときに「自由州」を選択していたのですから、過去には共和党が強かったというのも言われてみればそのとおりです。

前回書いた1964年では、共和党大会が大騒ぎでしたが、次の1968年では民主党大会のほうが大荒れとなりました。現在の構図に至る両党の変容の歴史は、多くの要素と長い年月がかかっていますが、1968年はその最初の転換点に当たります。

ジョンソンは、任期中に公民権法を成立させましたが、一方ではベトナム戦争を拡大し、戦争継続を支持していました。1968年といえば、ベトナム反戦運動が激化して各地で暴動やデモが頻発し、マーティン・ルーサー・キングが暗殺された年です。ジョンソンも再選を目指しましたが、戦争政策への反対で支持率が低下し、早い段階で予備選を脱落してしまいました。その上6月には、本命と目されたロバート・ケネディまでが暗殺されてしまい、候補者選びは大混乱となりました。「主戦派」は、副大統領だったヒューバート・ハンフリーを代わりの候補として立て、一方の「反戦派」ではユージーン・マクガヴァンが有力候補となりました。

さてその予備選ですが、実は憲法でやり方が決まっているわけではなく、州が主催する投票制の「予備選(プライマリー)」をやるところと、州の党組織が主催する話し合い、つまり「コーカス」でやるところが混じっています。(予備選でも、オープンかクローズドか、など細かい違いがあり、さまざまです。)

そういうわけで、広い範囲の人からの投票だと不利と見たハンフリーは、「予備選」州を避け、党幹部の言い分が通りやすい「コーカス」だけで票を集めるという、合法だが裏の手を使って勝ち抜き、8月の民主党大会にこぎつけました。当時はそんなことができたのですね、驚きです。

党大会開催地のシカゴでは、反戦派が集まって抗議行動を行ったのに対し、シカゴ市長は警察を大量動員して厳戒を敷き、法に触れてもいないデモ参加者や、有力なジャーナリストまでも拘束したり尋問したり、デモ隊に放水したりしました。日本なら、東大安田講堂事件の頃のようなイメージの暴力沙汰が頻発し、それがテレビで全国に放映されたのです。

結局、ハンフリーがそのまま候補となりましたが、多くの党員の支持を受けみんなが納得するという「レジティマシー」が欠けたままで党が分裂。大統領本選では301対191というこれまた大差で、共和党のニクソンに敗れました。これで民主党は大きなダメージを受け、再建にはたいへんな時間がかかりました。

その後、2009年のブッシュ子までの40年間に、民主党が政権をとったのはカーターとクリントン夫の2回のみ(合計12年)で、共和党が「インコンベント」という私のイメージができあがります。

そしてもう一つ、興味深いのは、カーターはジョージア州、ビル・クリントンはアーカンソー州が地盤、つまりいずれも「南部の民主党」という、伝統的な幹部のポジションにあります。その流れでいくと、現在のオバマは、アフリカ系であることに加え、「北部の民主党」(イリノイ州が地盤)という意味でも、これまでの慣習を破っていました。

ヒラリー・クリントンは、夫が知事のときにはアーカンソー州のファーストレディでしたが、もとはシカゴ出身、大学は東部、上院議員の選挙区はニューヨークという、「北部の民主党」の色が強いように思います。そして、昨日発表された、彼女のランニングメート(副大統領候補)、ティム・ケーンは、南部のヴァージニア知事でカトリック。単に「白人男性」としてヒラリーとのバランスをとるという意味だけでなく、「南部」と「アイリッシュ=カトリック」という、民主党の中心勢力に近い人物ということもできます。オバマの副大統領であるジョー・バイデンは北部のアイリッシュ=カトリックであり、陽気な人柄で人気がありますが、ティム・ケーンはその雰囲気に近いものも持っています。現在の民主党では、「北か南か」はあまり関係ないようで、どこまで「南北」を意図したものかはわかりませんが、カーターとクリントンについてのウィキペディアの記述で、こんなことに初めて気がついて面白いと思った次第です。

(写真はヒューバート・ハンフリー)

出典:ウィキペディア

【ベイエリアの歴史44】1964年共和党大会のあったサンフランシスコ

オハイオでは共和党大会で、相変わらずお騒がせが発生しています。これの関連でよく言及されるのが1964年の共和党大会なのですが、調べてみるとこの大会、なんとサンフランシスコ(正確には市の南にあるDaly CityのCow Palaceという催事場)で開催されているとわかり、私の頭の中は???でいっぱいになりました。

カリフォルニアはガチガチのブルー・ステート(民主党支持州)なんじゃないの?と脊髄反射したわけですが、実は大統領選挙でカリフォルニアがテッパンの民主党州になったのは比較的最近、92年のクリントン夫のとき以来で、それまでは1952年から、ヒッピーの時代も含めてずっと、ブッシュ父まで、ほぼ一貫して共和党だったのです。ただの一度を除いては。

1964年といえば、前回書いたジャニス・ジョプリンとほぼ同時代、前年の1963年にはJFケネディが暗殺され、その前後はキューバ危機やベトナム戦争、そして公民権運動という騒然とした時代でありました。ベイエリアでは、ショックレー・トランジスタは1955年にできて、半導体産業が芽生えてはいましたが、基本的にはまだ農業と軍需が主要産業でありました。

当時の共和党(今でもある程度そうですが)は、「東部エスタブリッシュメント」である幹部が指名した毛並みの良い人がすんなり候補者となるのが普通で、その年も、ご存知大富豪家出身でニューヨーク州知事だったネルソン・ロックフェラーが幹部ご推薦でした。しかし、予備選でダークホースのアリゾナ州選出上院議員、バリー・ゴールドウォーターが忽然と登場して、ロックフェラーを蹴散らしてしまいます。代わりに、終盤になってから、ペンシルバニアの大地主家出身のビル・スクラントンを引っ張りだしましたが、得票数では及びません。

東部エスタブリッシュメント幹部は穏健派で、公民権法にも理解を見せ、対共産圏の対応も現実的でしたが、当時急成長していたカリフォルニアや西南部新興州の庶民は、「ソ連をつぶせ」「公民権法をつぶせ」と極論をぶつ、軍人出身のタカ派であるゴールドウォーターに大喝采を送って支持したのでした。第二次世界大戦から朝鮮戦争・ベトナム戦争と、アメリカにとっては太平洋側がずっと「前線」であり、19世紀の中国人排斥などに見られるように、当時のカリフォルニアでは人種差別意識が激しく、今とはずいぶん違う気分が支配していました。

そんなサンフランシスコで開かれた共和党大会では、幹部がなんとかゴールドウォーターを引きずり降ろそうとあの手この手の謀略を展開したといいます。それまでの伝統的手段は、文字メディアにスキャンダルをリークしたり、女を使ってスタッフをはめたり、種々の脅しをかけたりなどで、それに加えて当時はテレビが本格的に普及し始めた時期で、「テレビでゴールドウォーターに喋らせれば、あまりに過激な言動に党員が驚いて支持をとりさげるだろう」と、テレビを積極的に入れました。しかしこれがまた逆効果。ゴールドウォーターの選挙本部(市内マークホプキンス・ホテル)には怒れる支持者が押しかけて騒ぎ、後に伝記作者が「右翼のウッドストック」と記しています。

結局阻止工作は不発に終わり、ゴールドウォーターが正式に共和党の大統領候補となりました。しかし、11月の本選挙において、あまりに過激なゴールドウォーターは、歴史的大地滑り敗北を喫しました。ゴールドウォーターが勝ったのは、地元のアリゾナの他、公民権法反対の強かった深南部5州のみ。カリフォルニアで共和党の連勝がただ一度途切れたのが、この年だったのです。選挙人数では、民主党のリンドン・ジョンソン486票に対し、ゴールドウォーターはわずか52票でした。

・・という具合に、予備選から共和党大会にかけての経緯はなにやら今年の状況となんだかよく似ているため、このままトランプが候補になったら、ゴールドウォーターと同じことになってしまうのでは、と共和党幹部は恐れおののいているのだと思います。昨日のメラニア・トランプの演説が、2008年のミシェル・オバマをあちこちパクっていると大炎上していますが、これを見て「共和党幹部が仕組んだ罠(メラニアのスピーチライターが刺客だった!?)に違いない」と私がつい思ってしまったのも、「ハウス・オブ・カード」の見過ぎだけでなく、こんな1964年の話を読んだせいかもしれません。

(写真はバリー・ゴールドウォーター)

出典:Wikipedia, Smithsonian

【ベイエリアの歴史43】ジャニス・ジョプリンのいたサンフランシスコ

さて、その1960年代のサンフランシスコといえば、ヒッピーの聖地でありました。

私はイーグルマニアではありましたが、60年代の音楽はリアルタイムでは体験しておらず、ジャニス・ジョプリンといっても、(1)名前の響きがやたらかっこいい、(2)ヒッピーとかウッドストックとかそのへん、(3)ドラッグで若死にした、という3点しか私的には認識しておりませんでした。ウッドストック(ニューヨーク北部)のイメージが強いので、東海岸にいたのかと思っていたところ、実はばりばりのサンフランシスコ音楽でした。

というのがわかったのは、ネットフリックスで「History of the Eagles」を先日見たために、今度は「Janice: Little Girl Blue」というドキュメンタリー映画がオススメされて、これを見たためです。

ジャニスはテキサスの生まれですが、変わり者で、地味な顔立ちで、今で言う「コミュ障非モテ」であり、学校では「ブス」や「ブタ」などと言われてひどくいじめられました。テキサスの大学を離れてサンフランシスコに流れてきて、そこで初めて自分が暖かく歓迎される「居場所」を発見しました。

50年代、すでに「ビート」「ビートニク」などと呼ばれる、前衛的な詩・文学の潮流が勃興していたサンフランシスコのコミュニティでは、超越的な体験を得る実験として、種々のドラッグが使われていました。ジャニスはそのコミュニティの中で、ドラッグで体をこわしてテキサスにいったん戻ったり、婚約者に裏切られたり、故郷ではまたいじめられたりして、さんざんに傷ついて、音楽をやりながら、1965年にまたサンフランシスコに舞い戻ります。そこで、ジャニスはBig Brother and the Holding Companyというサイケデリック・ロックのバンドのリーダーに気に入られ、リードヴォーカリストとして参加します。このあたりは、現在のシリコンバレーで、なんとなくコミュニティができて人のつながりでベンチャーができ、コミュニティの中でそれを育てていく感覚と似ています。

60年代後半、思想的には「ビート」の流れを汲むカウンターカルチャーが、より派手なスタイルの「サイケデリック」カルチャーとなり、「サンフランシスコ・サウンド」とよばれるサイケデリック・ロックが誕生しました。今のサンフランシスコ日本町の西南端から通りを隔てたあたりにあった「Fillmore West」などのライブハウスを舞台に、ジェファーソン・エアプレーンやジャニスが加入したビッグ・ブラザーなど、ちょっと離れたパロアルトでは、グレイトフルデッドも頭角を現しました。特に、今ではもっぱら水族館で有名なモンテレイで1967年に開催されたMonterey Pop Festivalが、ジャニスにとっての大ブレークスルーとなりました。

彼らは、すでにヒッピーの聖地として有名になりつつあった「ヘイト・アシュベリー」、つまりHaight StreetとAshbury Streetの交わるあたりに住みました。当時まだ合法だったLSDがふんだんにありましたが、ジャニスはドラッグの誘惑と常に戦っていました。

ビッグ・ブラザーは、モンテレイの後、急速に全国的に売れましたが、その注目はもっぱら、ブルージーでパワフルなヴォーカリストであるジャニスに集まりました。「バックバンド」扱いにむくれたバンドのメンバーとの間で不協和音が起こり、1968年には追い出されて独立。1969年のウッドストック・フェスティバルでは、自分のバンドをバックにして出演しました。

ドキュメンタリーでは、この頃のジャニスについて、「舞台でパフォームし、大観衆の喝采を浴びているときだけが、気分が高揚して安心していられる時間であり、いったん舞台から降りて一人の時間になると、耐えられないほどの孤独と不安に苛まれていた」と描写しています。婚約者に裏切られたあと、安定して彼女を支える人とはついに出会うことができず、男女両方でいろいろなパートナーに依存しては離れる不安定な関係が続きました。そして、ついにドラッグとの戦いに負けてしまいました。

ジャニスは1970年10月、ハリウッドでレコーディング中に、ひとりぼっちでホテルの部屋で、オーバードーズのために亡くなりました。ジャニスの最大のヒット曲である「Me And Bobby Mcgee」は、彼女の死後に発表されました。まだ27歳、メジャーな活躍期間はわずか3年間しかありませんでした。

ヒッピーについては、また別の機会にもう少し書きたいと思っていますが、そういうわけで、当時のサンフランシスコは、そんな若いヒッピー達が住み着けるほど、チープなアパートがあったんだなー、などと思わず感心してしまいます。

【ベイエリアの歴史42】都市回帰のゆくえ、日本では?

日本では都知事選の関係で、「東京一極集中」vs. 「地方分散」の議論がネット上で飛び交っているようです。一方で、アメリカでは「都市回帰」が時代の流れになってきているな、という体感があります。

アメリカはもともと、土地が広くて人が分散している、というイメージが強いと思います。また、州の権限が強く「地方分権」の傾向も強くあります。ただ、それでも「都市」から「郊外」への分散というここ数十年の傾向は、そういったアメリカの「もともと持っている性質」とは違う力学が働いていると思います。

ひとことで言えば、1950-60年代の「モータリゼーション」です。当時、行政によるハイウェイの整備が進んだことと、石油メジャーによる石油/ガソリンの供給が増え、自動車産業がフル回転だったことの政治的関連は、よく知りませんが、まぁ間違いなくあったでしょう。この流れに乗って、大型トラックによる輸送の物流が中心となって、大企業が大量生産した食料や消費財が、郊外型の大型スーパーで大量販売され、ドライブスルーのファストフードが爆発的に増え、テレビでマス広告されるようになりました。人々は自動車を保有し、郊外の広い家に住んで自動車で通勤したり買い物するようになりました。

その結果、自動車を持てる中流以上の家庭と、持てない低所得家庭の間で、はっきりとした階級ができました。

例えばニューヨークでは、中心街のマンハッタンはビジネス街、そのすぐ外側で地下鉄で行き来できるハーレム、ブロンクス、クイーンズなどは低所得地域、ウォール街のプロフェッショナルなどは、さらに遠くの、自動車や料金の高い中距離鉄道でしか通勤できない、ウェストチェスター郡やコネチカットなどに住むのが普通です。(少なくとも、私が住んでいた90年代はそうでしたが、今はどうでしょうか?)

サンフランシスコでは、60年代公民権運動の時代に、「busing(バシング、バスで輸送する)」という、貧困地区の子供が富裕地区のレベルのよい公立学校に、スクールバスで通えるという仕組みを作りました。その結果、お金持ちが公立学校から逃げて学校全体が荒廃し、よほどのお金持ちなら市内の私立という選択肢もありますが、そこまでいかない中流家庭は郊外に逃げ出すことになってしまいました。

全米的にも、「都市内部(inner city)」というのは、「貧困地区」の代名詞となりました。

最近、いろいろなアメリカのシステムに歪みが出ているのは、こうした現在のエコシステムの大前提になっている「石油+モータリゼーション」というエンジンが、1970年代以降長期にわたって弱体化しているからです。一方で、90年代のネットバブルの時代に、シリコンバレーとウォール街に富が急速に蓄積し、その富を「都市」に投資して、荒廃したところをいろいろな手法で改造して美しくする「ジェントリフィケーション」が進行したり、環境対策や中東から輸入する石油に依存しなくてよいようにしようという米国政府の方針などもあり、特にわが地元のサンフランシスコでは「都市回帰」の傾向が顕著です。

少し前のブログに書いたように、列車・公共交通機関への注目が回復しているのも、その流れのひとつです。会社はシリコンバレーにあっても、住むのはサンフランシスコで、列車で通勤するというわけです。列車の駅の周辺は、以前はスラム街状態でしたが、最近は駅を改装し周辺に映画館やレストラン街を整備したオサレな「駅前繁華街」の建設が次々と行われ、いずれも大盛況です。私がシリコンバレーに引っ越してきたのが1999年で、その頃は子供を高速沿いのシネプレックスにアニメ映画を見に連れていきましたが、数年前にそこが廃止されて市内駅前の映画館に行くようになりました。今やリモートワークも普通にできるので、住む場所の選択肢も以前と比べてずっとフレキシブルになりました。

日本では、アメリカよりもやや遅れてモータリゼーションが起こりました。列島改造論は1970年代で、すぐに石油危機が来てしまい、列車の開発もその後も進んだので、アメリカほどのクルマ社会にはなりませんでした。それでも、あまりに東京になんでも集中しているために、今の都知事選候補の一人のように「地方分散」をポリシーとする人も多く、票田として大事なために「地方創生」なども行われています。

しかし、日本でも米国でも、もはや第一次産業に従事する人はごく少数しかいなくなり、「農地」に人を貼り付けていた時代のような人口の地方拡散はすでに不合理です。といっても、東京一極集中では産業のダイバーシティが実現しづらいので、私はいくつかの中核都市に異なる産業がそれぞれ群雄割拠しながら集中する「あちこち数極集中」が理想だと思っています。

サンフランシスコのジェントリフィケーションや都市回帰は、一方で以前から都市に住んでいた低所得住民が住むところを失うという摩擦も引き起こしており、このため住民がグーグルの通勤バスを妨害する騒ぎとなっています。何にせよ、すべてうまくいく話などないのですが、アメリカも日本も1950-70年代にできたインフラがそろそろ半世紀を経て老朽化する中、今のうちに都市にヘビーに投資する必要があると思っています。