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ベイエリアの歴史

【ベイエリアの歴史41】ホテル北カリフォルニア

少し前に、スーパーのレジでローリングストーン誌「イーグルス特別号」を見つけて衝動買いして以来、イーグルス祭りのマイブームがまだ継続中です。

広告がひとつもはいっていないこのムックを裏表紙まで舐めるように読みつくし、2013年のテレビ・ミニシリーズ「History of the Eagles」をネットフリックスでビンジウォッチ、2009年刊のドン・フェルダー著「Heaven and Hell:  My Life in the Eagles」をオーディオブックで読破、過去のアルバムを聴きまくり、数多のインタビューやミュージックビデオをYouTubeで拾いまくり、といった具合に、1970年代には到底不可能だった、多様で深い情報を消費してくると、日本の田舎のティーンだった私には想像もつかなかった、当時の彼らの生活とロサンゼルスの「繁栄と頽廃」の様子が浮かび上がってきます。

前回の【歴史】シリーズに書いたように、アメリカ社会の枠組みは1980年代から大きく変わりますが、70年代はその序曲ともいえる時期でした。ウォーターゲート事件、ベトナム戦争敗北、そして1973年の第一次と1979年の第二次石油危機によって、それまでの「石油と自動車と大量消費」というエコシステムでどんどん高度成長していたアメリカ経済に急ブレーキがかかりました。当時日本にいた私には、イーグルスやディスコ音楽など、「楽しい」部分しか見えていませんでしたが、「現場」では、暗い雲がかかってきた未来から目を背けるため、その前に完成した仕組みと蓄積した富をつかって、ドラッグと金ピカ消費に突っ込んでいた時代だったのだ、と改めて思います。

例えば、「ホテル・カリフォルニア」のあの忘れられないギター・リフをつくったドン・フェルダーですが、この手記によると、幼少期、父親は機械工場で真っ黒になって奴隷のように働いてもたいした給料がもらえず、家族は非常に貧しく、その暮らしから抜け出すために、兄は弁護士となり、弟であるドンはミュージシャンとして成功したのだそうです。今から振り返ってみれば、彼の生まれ育った50-60年代は、こうした「アメリカン・ドリーム」成功譚が日常的に可能な時代でしたが、彼の成功が頂点に達した70年代以降、その夢が徐々に失われていきます。

アルバム「ホテル・カリフォルニア」の楽曲を、英語がだいぶわかるようになった現在、改めて聴いていくと、「太陽が海の向こうに沈んでいく」ような、詩人ドン・ヘンリーの手による言葉の風景が次々と目に浮かんできます。彼らはそんな南カリフォルニアの生活と文化を、揶揄と憧憬と諦観が入り混じった表現で歌っています。

アメリカは、そんな「終わりの始まり」の時代を、完成度の高い音楽に定着し、世界的なポップ文化の金字塔として残すことができて、ラッキーだったと思います。この時期のロサンゼルスの繁栄と頽廃は、文化的にも歴史的にも、日本のバブル期と似ていると思うのですが、日本のほうは残念ながらイーグルスに匹敵する「作品」として結実したものは私には思いつきません。

さて、南で「ホテル・カリフォルニア」が発表された1976年、まだまだヒッピー文化が色濃く残っていた北カリフォルニアでは、アップル・コンピューターが創業しました。歴史的には、南より北のほうが、早く都市が形成されたのですが、産業の興亡においては、現在に至る「北」の繁栄はもっと最近の事象です。

時代的にいうと、90年代の「ネットバブル」がひとつのエポックでしたが、現在までも、景気循環を繰り返しながら、だんだんと「繁栄と頽廃」のサイクルが盛り上がっているような気がしています。かつてのような「ドラッグと金ピカ」の替りに、高いお値段のモダン風の家で「ケールとキノーラ」を食べながら、ベンチャーキャピタル用語を駆使してネットワークし、いい大学に入れるために子供をアフリカでボランティアさせ、野生動物を保護する非営利団体のパーティに盛装して出かけて・・といった、シリコンバレーの「ヒップスター」文化は、ますます勢いを増し、そのサークルの外側にいる人達との軋轢はますますひどくなりつつあります。しかし、この地に20年以上住んで、ヒップスター的なものに憧憬をもってきた自分自身も、(ライフスタイルはお金が足りないのでそこまでできませんが)この価値観にどっぷり漬かって、容易にぬけ出すことはできない、と感じています。

「Throwing rocks at the Google bus」という本を、今、読み始めています。この現象を「頽廃」と呼ぶべきかどうかはなんとも言えませんが、新しい豪華なオフィスビルの入り口に佇んで、「You can check out any time, but you can never leave」という謎めいた歌詞と、「ホテル北カリフォルニア」ということばが、ふと浮かんできたのでした。

【ベイエリアの歴史39】カリフォルニア高速鉄道はなぜなかなかできないのか

実を言うと私はかなり「乗り鉄」がはいっています。このため、カリフォルニア高速鉄道が早くできないか・・と心待ちにしているのですが、なかなかできません。

現在のアメリカは、都市構造やライフスタイルが自動車に最適化しているので、鉄道は合わないと思われがちですが、19世紀にカリフォルニアの大発展を支えたのは鉄道でした。このあたりの事情は、以前このブログにかきましたので、下記を参照してください。

ベイエリアの歴史(8) – 鉄道がやってきた

ベイエリアの歴史(9) – 日本との遭遇

しかし、そういうわけで現在は鉄道といえば「儲からない」というのが相場です。私鉄がちゃんと商売になっている日本でも、沿線の不動産開発も込みであって、運賃だけではあまり儲からないのではないかと思います。それで、アメリカの鉄道は自動車に負けて一旦壊滅状態となり、その後も民間ではなかなか進まず「政治がらみ」となり、それも「左寄り(民主党)」勢力が提唱する政策となっています。鉄道を含む公共交通機関は、「自動車を持てない貧乏人のための福祉」というわけです。カリフォルニア高速鉄道が最初に構想されたのは1990年代、現在また返り咲いているジェリー・ブラウンが最初に知事になった頃で、連邦政府も民主党のクリントンが大統領でした。

その後、自動車産業・ガソリン業界フレンドリーなブッシュ政権の間足踏みしていましたが、計画がまた脚光を浴びたのが2009年です。2008年のリーマン・ショック後、大統領に就任したオバマが打ち出した包括的アメリカ再建パッケージ「ARRA」の一環として、鉄道建設の補助金が含まれており、当時のカリフォルニア州知事アーノルド・シュワルツェネッガーがこの補助金を申請したのでした。(ちなみにシュワちゃんは共和党ですが。)

私は何かと「オバマはやはり頭よかった」とつくづく思うことが多いのですが、このARRAは実にインパクトが大きかったと思っています。経済再建が主目的ですが、そのための産業政策としては「環境にやさしい」ことを主眼として打ち出し、それは実は裏では「外国産の石油への依存度を低くする」という安全保障目的もあり、このために深く静かに、「脱・ガソリン自動車」へと世の中がシフトしていきました。ウーバーが2009年に創業したのも、この頃からテスラが大ヒットしたのも、「大都市回帰・ワカモノの自動車離れ」が始まったのも、こんな時代の流れの一環であり、「鉄道」もその一つでした。その後、カリフォルニア州知事がまた民主党のブラウンに戻り、引き続き鉄道建設計画を進めようとしているのですが、まだまだ障害が多く残っています。

最大の難関が「地形」です。縦長のカリフォルニア州は、おおまかに言って縦に3本ほどの山脈が走っており、地図上で左から(1)太平洋岸で海に迫っている山、(2)そのちょっと内側にある山、(3)ネバダ州との境目にあるシエラネバダ山脈、となります。カリフォルニアの2大都市、ロサンゼルスとサンフランシスコは、いずれも「港」として発達した都市であり、海に面しています。サン・フランシスコから南に向かい、(1)と(2)の間の谷が「シリコンバレー」となるわけですが、サンノゼからちょっと南に下ったあたりで(1)と(2)が接近して平地があまりなくなります。そしてさらに南に下ると、ロサンゼルスの北で(1)(2)(3)が全部合体してしまい、市の北側に屏風のように立ちはだかります。

高速101号線は、(1)と(2)の間を縫うように走っていますが、サンノゼの南側市街地を超えると、地形が複雑で道が曲がりくねって走りづらくなります。一方(2)と(3)の間はサンホアキン・バレーとよばれる広大な中央平原で、現在のカリフォルニアの大動脈であるインターステート5号線はその西寄りを縦断しており、交通量もとても多いです。このサンホアキン・バレーの東側、5号線とほぼ平行しているのが、鉄道王レランド・スタンフォードが作ったカリフォルニア縦断鉄道であり、現在も主に貨物車が走っています。この線路に沿って、州道99号線という一般幹線道路もあり、この道沿いはカリフォルニアの「農業銀座」となっています。「港」という「点」で西に面する2大都市に対し、内陸部は道路と鉄道で東へと陸路で続く「線」の交通システムになっていて、この2つのシステムが山脈で分断されているわけです。現在計画されているカリフォルニア高速鉄道は、この区間ではこの鉄道路線を活用することになっており、ここはそれほど問題はありません。

問題は肝心の2大都市の周辺です。まず、ロサンゼルスの北側の屏風山。その比較的低いところを高速5号線が通っていますが、山岳部分の走行距離はだいたい80kmぐらい、関東平野縦断ぐらいの感じです。鉄道は東に迂回してもっと山の幅が短いところを走る(下図黄色線のBakersfieldからSan Fernando Valleyあたりまで)ようですが、それでも山を完全には避けられません。当初は、中央平原とロサンゼルスを結ぶ区間を先行する予定でしたが、この難所をどうするかの技術的・予算的な妥協点がいつまでたっても見つからないので、「それじゃー、北側を先行させよう」という話になりつつあります。じゃぁ北はよいのかというとそうでもありません。中央平原からまっすぐ北のサクラメントまで延ばすならば、平原が続いているのでよいのですが、途中で分岐して西のシリコンバレー・サンフランシスコへ行こうとすると、どうしても(2)の山を超えなければなりません(下図黄緑線のGilroyから合流点まで)。山の険しさや山の幅はロス屏風山よりはマシですが、ここもトンネルを掘るのか上を超えるのか、どちらにしても相当な工事になります。現在この区間を通る一般幹線道路があり、道幅は広いですが、かなり曲がりくねった山道です。かといって、海側に高速鉄道を通せるような地形ではなく、どうしても途中は内陸ルートを使わなければなりません。

 

地形だけでなく、政治的にも問題があります。内陸部は中規模の都市は多くありますがそれでも田舎なので、鉄道が地域経済をより活性化すると期待されています。しかし、「北」ルートが都市部に突入するサンノゼあたりはかなり人口密集地で騒音が問題となり、また政治的にも高速鉄道賛成派よりもっと左寄りで「そんなもの作るカネがあるなら、地元民の足である市内交通網に使え」と反対する人も多く、この先すんなり行くとも思えません。というわけで、最初は需要は少ないけれど問題も少ない内陸部から工事が始まるようです。そうこうするうちに、万万が一共和党のトランプが大統領にでもなってしまったら、「貧乏人のための鉄道にカネ使うなんてやめてしまえ」と言い出しかねず、また政治プロセスが止まってしまうかもしれません。なんせ「政治」鉄道なので、そうすれば、また4年か8年か、政権が代わるまで待たなければならないかもしれません。現在の計画でSF-LA間が完成するのは2029年となっていますが、全くアテにならず、果たして私が生きている間にカリフォルニア新幹線に乗ることができるのか、本当に私には信じられません。

出典: Wikipedia

 

ベイエリアの歴史(37)- フランス植民地はビジネスモデル不在

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本日は脱線の回です。今回のフランスでのテロ事件と、アフリカ・イスラム圏の旧フランス植民地の事情が関係あるのかわかりませんが、旧フランス植民地は不安定で争いが多い、といわれます。この点につき、ここまで植民地のビジネスモデルについて書いてきた中で、私なりにいろいろ考えます。簡単に言うと、フランスの植民地は、「ビジネスモデルがなかった」、あるいは何かあったとしてもきちんとエクセキュートできず、このため植民地の住民と共存共栄の関係を築くことができなかったのでは、と考えています。 (26)で書いたように、フランスの植民地は前期と後期に分けることができます。「前期」はアメリカ大陸でしたが、カナダをイギリスに取られ、ナポレオンがルイジアナをやけくそでアメリカ合衆国に売却して、いったん全部なくなってしまいます。古い時代の植民地ビジネスモデルの典型は、オランダ型の「アービトラージ貿易の拠点」であり、より新しいモデルとしてイギリス型の「土地投機」がアメリカで行われましたが、フランスはどちらのモデルも作れず、植民地からの収入よりもメンテナンス・コストのほうが高くなって、植民地を維持できなくなったのでしたね。

さて、そのフランスが再度植民地競争シーンに登場するのは、19世紀半ば頃のナポレオン3世の時代です。この人は19世紀最大の奇人ともいえる超変な人で、別の記事でもう少し詳しく書きたいと思いますが、なにしろ「フランスの栄光を再び」ということで、当時先行していたライバルのイギリスに負けないよう、突如として植民地獲得に乗り出しました。イギリスがまだがっちり確保していなかったところ、つまりは「二級立地」に進出するという「モスバーガー戦略」でありましたが、「選択と集中」を全然せず、アフリカと中近東とインドシナと南太平洋と、などと手当たり次第に戦線を拡大していき、最後はメキシコで致命的なミスを冒して、彼自身の転落につながっていきます。

ナポレオン3世の手当たり次第なやり方は、ちゃんとした「ビジネスモデル」があってやっていたのではなく、イギリスとの競争に煽られ、「国家威信」にドライブされていたように見えます。

イギリスの場合は「土地投機」ですから、入手した土地が価値を生み出すようにしないといけません。現代の土地デベロッパーが、工場を誘致したりショッピングモールを建てたり、アクセスのための道路や鉄道を作るのと同じです。そこで、植民地にプランテーションをつくり、インドやアメリカで綿花を作ってイギリスに持ってきて製品にして売るという仕組みをつくり、そのための輸送や通信のインフラを整備し、人も大量に送り込んでいます。良かったのか悪かったのかの価値評価は置くとして、兎にも角にも植民地に資金と人が投下され、インフラで恩恵を蒙る「味方」も現地にそれなりにたくさん存在しました。

しかし、19世紀後半の短期間に急激に薄く広がったフランスの植民地では、イギリスほどの投資やインフラ整備が行われた様子はありません。「前期植民地」のカナダ・アメリカでも、フランスの「インフラ投資不足」が直接命取りになったのですが、非白人住民の多い「後期植民地」では、現地住民の民族分布を完全に無視した行政区分を敷き、住民の土地所有を認めず、現地住民を低い立場において、搾取する構造を作りました。土地に投資して上がりを得るビジネスでなく、「国家威信」が主な目的であったように見える所以です。

ナポレオン3世がこれほど急激に植民地を拡大できたのは、他のヨーロッパ強国が、ナポレオン戦争後にフランスを封じ込めるための「ウィーン体制」という複雑なパワーバランスをヨーロッパ域内で維持することを重視し、その代わりフランスがヨーロッパの外でジャイアン化して暴れるのには目をつぶっていたという事情もあります。

347px-Dame_Europa_25ジャイアン化したナポレオン3世

そして、ナポレオン3世を選挙で選んだ(彼は最初大統領に当選し、その後皇帝になった)フランス国民は、ナポレオン時代の「大きな領土を持つ栄光あるフランス」を良きものとみなし、そのフランスの領土を再び拡大するナポレオン3世のやり方を支持していました。19世紀ヨーロッパ歴史講義で、講師のロバート・ワイナー教授は「現代でも、フランス国民は一般に広い植民地を持っていたことを誇りと考える傾向が強く、評価の低かったナポレオン3世が再評価される中でも、特に植民地の拡大が彼の功績として見直されている」と述べています。

なお、日本にフランスが最初にやってきたのも、まさにナポレオン3世の時代、日本の幕末でした。それまで江戸時代中期から後期にかけて、日本の沿岸に出没していたのは、おもにオロシャ(=ロシア)とエゲレス(=イギリス)だったのに、この頃突然フランスがやってきて、徳川幕府に取り行ったのは、奇人ナポレオン3世のジャイアン政策のせいです。彼は、当時最大のライバルであったイギリスに対して、植民地では融和的な行動をとることが多かったのですが、日本では例外的に、フランスは幕府、イギリスは薩長と別れて戦いました。結果はみなさまご存知のとおりです。

19世紀後半以降の帝国主義時代、日本から見ると「欧米列強」は、どいつもこいつも同じように、領土拡大にひた走っていたように見えますが、拡大した領土にどれだけ投資して何を作ってどう儲けるか、という戦略において、やはりイギリスがずば抜けて上手かったと言えそうです。スペインは当時すでに脱落気味、ロシア・ドイツ・イタリアはあまりにも参入が遅くて間に合わず、そしてフランスは表面だけイギリスの真似をして領土を拡大したところで終わってしまった、と言えそうです。

出典:Wikipedia, Long 19th Century: European History from 1789 to 1917

ベイエリアの歴史(36) - 「ジューイッシュ戦略」も封じられた日系人

「人種差別」には、ふたつの側面があります。一つは①外見や慣習の異なる人達に対して、どう扱っていいのかわからない、共通の関心事がなくつきあいづらい、彼らの生活慣習は自分たちにとって迷惑である、といった感情的な面。もう一つは②安価な労働力を安定的に確保するため、敢えて特定のグループの人たちを低い地位にしばりつけておこう、という社会構造的な面です。 ①の「お前らキライだ」というだけなら、そもそも国に入ってこないようにしたり、国に帰れと追い出したりするのですが、②の安価な労働力が欲しい人たちがそれなりにいれば、移民を受け入れることになります。安価に抑えるためには、そのセクターが常に供給過剰でなければならないので、最下層に移民をたくさん受け入れることになります。アメリカで移民の流入が爆発的に増えるのは19世紀後半から20世紀初頭にかけての「泥棒男爵の時代」、つまり未洗練・荒唐無稽の資本家が力にまかせて跋扈した時代であり、泥棒男爵達が安価な労働力を必要としたからでしたね。そして泥棒男爵たちは、一種類のグループだけだとアイリッシュのような政治的な勢力になってしまうので、あえて細かく分ける、という戦略をある程度意識的にとったのかもしれません。「①排斥」があるのに、なぜ完全にシャットダウンしないかというと、「②受け入れ+差別」のメリットがあるからです。

実はありがたいはずの安価な労働力に対し、時々大きな排斥運動が起こるのは、下層にいる既存住民が、競合勢力がはいってきて自分たちの給与水準が下がることを嫌うことが大きな要因で、そこに①の感情要因が加わります。つまり、下層民ほど「排斥」側に寄ります。一方で、彼らをつかって甘い汁を吸う人たちは、新しいグループを次々と入れ、勝手に自分たちで争うように、つまり下層民を分断するようにし、自分の手を汚さずにニンマリしています。こうした泥棒男爵は「受け入れ+差別」に寄ります。このとき、カリフォルニアでニンマリしていた代表例が、鉄道王であり政治家としても権勢を振るった、例のレランド・スタンフォードです。この分断構造に気づいてしまった人たちが「万国の労働者よ団結せよ」という方法を編み出したのも、ちょうどこの時代です。

そして、日系人コミュニティでは①の排斥「感情」をできるだけ抑えようと、アメリカ社会に溶け込むための大変な努力を続けてきました。それでも差別が続いたのは、白人といかにも見かけが違うという①の面が拭えなかったことに加え、②の構造要因が引き続きあり、それに太平洋戦争の要因が加わった、という3つの要因があると思います。精神論だけでは、移民の問題は解決しないのです。

(30)で述べたように、日系より前に、すでに中国系移民がたくさん北カリフォルニアにはいっており、「中国人排斥法」ができていました。この時点では中国人に対して②より①のほうが強くなってしまったのですが、泥棒男爵さんたちがまだまだ移民を必要としていたので、日本人が入ってくることになりました。

サンノゼでも中国人排斥が激しく、中国系の人たちには家主がアパートを貸さなかったのですが、おそらくは宗教的な信条から、中国人を受け入れてくれたジョン・ヘインレンという地主があり、彼の所有地がサンノゼのチャイナタウンとなりました。なお、ヘインレンさんはメソジスト教徒であり、「メソジストの人たちは一般に日系移民に親切だったため、多くの日系人がメソジストに改宗した」というお話を、現在でも日本町の中心であるウェスレー合同メソジスト教会のキース・イノウエ牧師が語ってくださいました。

幸い、ここでは「分断」が起こらず、チャイナタウンの人たちは新しくはいってきた日系移民を受け入れてくれました。習慣が似ていて、日本に近い食べ物や生活用品が入手できるということで、日本人がチャイナタウンの近辺に住むようになり、初期の頃に日系農家が必要なものを購入するのにクレジットを供与してくれたのも、日系農家の産物を買ってくれたのも、チャイナタウンの商店でした。

日本町で講演をしてくださったジミさんが生まれたのは1922年頃で、ジミさんは日本町の産婆さんのところで生まれたそうです。この頃、日系人は病院を使うことができなかったからです。日系人が医師になることもできませんでした。ジミさんは本当は大工になりたかったのですが、「なれない」と言われました。そのための教育を受けることはできないことはなかったけれど、卒業後に大工の組合にはいることができず、そうすると仕事が来ないので、実質的には「なれない」からやめておけ、と学校の先生に言われたのです。

米国南部の黒人差別のような、制度的なあからさまな差別ではなかったけれど、こうした形で日系人は、専門職としての技能を身につけてのし上がる、という道も封じられていました。以前述べた、移民ののし上がり戦略の典型として、敢えて特色あるコミュニティを維持して数の力で政治に参加していく「アイリッシュ戦略」を挙げましたが、人数が少ない場合、教育により技能を身につけ、専門職として個人の地位を向上させるという、ユダヤ系型の「ジューイッシュ戦略」があります。数が少ない日系人は「アイリッシュ戦略」が採れませんでしたが、技能職から締め出されていたので、「ジューイッシュ戦略」の道も封じられていました。

こうしてサンノゼの日系移民は、「農業」に縛り付けられていました。しかし、1913年にCalifornia Alien Land Lawができ、1920年にはそれが強化されて、日系人は土地を所有することも、長期リースすることもできなくなりました。1920年の法改正は、日系人排斥の激化に伴い、日系農家をターゲットにしていました。それでも農業しかできなかったので、日系農家は、白人農家に「名義貸し」をしてもらっていました。土地改良や農器具への投資も日系人が行い、本当に単に名前を貸すだけなのに、売上のかなりの部分を白人農家が取っており、貸した白人農家はおいしい商売でした。

日系ミュージアムで当時の農機具展示を見ながら、差別で甘い汁を吸っている②的な人というのが必ずどこかにいるものだなー、と改めて思った次第です。

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当時日系人農家が産物の出荷に使っていた箱。日本人の名前は全く記載されていない。(サンノゼ日系アメリカ人ミュージアム展示)

出典: San Jose Japantown - A Journey、The Japanese American Museum of San Jose, Wikipedia

ベイエリアの歴史(35) - SF仏教寺院のハロウィーンと移民の出身県

10月31日、サンフランシスコ仏教会では、福岡県人会の追悼法要が行われ、福岡出身の夫が招かれて行ってきました。 県人会メンバーのうち、今年亡くなられた方を偲ぶ会、ということなのですが、お盆ではなくハロウィーンの日にやる、ということは、カトリックの「死者の日」に合わせているのかなぁ?とぼーっと考えています。ハロウィーンとは「死者の日」で、その日にカトリック教会では、その年になくなった信者さんの「追悼ミサ」をしますので、「そのまんま」であります。

先週のサンノゼ日系ミュージアムでのジミさんのお話では、サンタ・クララ・バレーにやってきた農業移民の出身地として多かったのが、広島・和歌山・島根・熊本・岡山の5県であった、ということを伺いました。それぞれの県出身者は、自然と同じ地域に集まる傾向があり、サンノゼは広島、ロスガトスは和歌山、といったような色分けがありました。上記の福岡県人会のサイトでその歴史を読むと、1900年代に福岡県からサンフランシスコとオークランドに渡った人たちが、現在の福岡県人会の源流となっている、とのことです。

ハワイへの移住者は広島と山口が多かった、との記述もあります。山口県は、ハワイ移民事業を推進した井上馨の出身地というつながりがありますが、ここでも広島が出てくる背景は、今のところよくわかりません。広島県の中でどの地域から海外移民が多かったか、ということを分析した資料などをいくつか読むと、人口に対して耕地面積が少なかった、藍の産地で外国からの安価な製品がはいってきて廃れて失業が多く出た、などを背景として挙げていますが、似たような別の事情が日本の他の地域で数多くあったはずで、これだけでは「なぜ広島ばかりが多いのか」という点について説得力がありません。特定の歴史的背景(かつての天領や譜代大名の地域で、明治政府に疎外されたとか?)の共通点でもあるかな、という仮説も考えましたが、これといったものが見つかりません。今のところ、「全国あちこちにできた移民会社のうち、特に成功した会社があったのがこれらの地域だった」のでは、という仮説を置いておくことにします。

さて、上記のサンフランシスコ仏教会は西本願寺系の浄土真宗のお寺だそうですが、中のつくりは、金色の祭壇の前に木の長椅子式の礼拝台が左右二列に並ぶ、「お寺と教会の和洋折衷」という感じです。

SFtemple

サンフランシスコ仏教会内部の様子

サンフランシスコ日本町の近くには、このほか、法華宗サンフランシスコ仏教会と、曹洞禅宗の桑港寺が集まっています。一方、サンノゼ日本町では、合同メソジスト教会の隣に浄土真宗のSan Jose Buddhist Church Betsuinが仲良く並んで町の中心を形成しており、ちょっと離れたところには、日蓮宗のNichiren Buddhist Templeがあります。他にも、日系人が多く入植したカリフォルニアの町には、仏教寺院が現在でもいくつも残っています。

これらのアメリカにおける仏教寺院は、1900年代前半の日系移民が、厳しい生活の中での心の支えとして求めてできたものですが、初期の日本語しかできない一世の時代と、その後アメリカ生まれの2世以降の時代ではその意義や存在も変わってしまいます。

現在の最大勢力である「米国仏教団」は、上記で述べた本願寺系浄土真宗で、全米に信徒が16,000人ほどいます。一世の時代には、日本から僧侶がやってきて日本語で活動していましたが、その後は英語しかわからない人が増えてしまい、日本のお坊さんで英語のできる人が少ないために、日本との人のつながりがだんだんなくなり、現在では日本から僧侶が来ることはないそうです。今日、サンフランシスコで法要を行ったのも、日系アメリカ人のお坊さんでした。米国の仏教は、第二次世界大戦中の日系人収容によりいったん消滅し、その後復活して現在に至りますが、その歴史の中で、仏教団の「西本願寺系」では、当地では入手困難な畳ではなく木の長椅子を入れたり、日曜日に法話会をしたり、上記のようにハロウィーンに追悼法要をやるなど、地元アメリカの風習に合わせる努力をしています。

しかし、こうした迎合的なやり方を否定する原理主義的な人たちも常にいます。浄土真宗の中では、東本願寺系が「原理主義」なのだそうです。現在のアメリカの信徒数では「西」派が圧倒的に多く、カリフォルニアは「西」派、「東」派はシカゴなどカリフォルニア以外という図になっているのだそうです。

ちなみに、そもそもハロウィーンというのも、カトリックがスコットランド・アイルランドの地元ケルト文化のお祭りを取り入れた迎合的なイベントです。といってもカトリック教会でも、ハロウィーン翌日の「諸聖人の祝日」は正式に祝日になっていますが、ハロウィーンは公式なものではありません。

カトリックは世界各地に広がっていく中で、積極的に現地の文化・習慣を取り入れてきました。日本のカトリック教会でも、七五三には子どもたちのためのミサをやり、千歳飴をくれました。私の地元のその教会は、大きな瓦屋根の木造建築、灯籠と障子風の内装、掛け軸の聖家族絵、日本画家による十字架の道行、など、サンフランシスコ仏教会とは逆方向に「お寺と教会の和洋折衷」をした和風建築でした。日本ではお寺でもクリスマスを祝ったりしますし、宗教的に寛容で、良い国であります。

一方、プロテスタントは宗派にもよりますが、全体的にはピュアに教義を守る傾向があります。ハロウィーンも、「異教のお祭りである」ということで、プロテスタントでは排除する傾向があり(でもそれ言ったら、クリスマスだってそうなんですけど・・)、フランスやイタリアなどのカトリック国も含め、欧州ではケルトの地であるアイルランド・スコットランド以外ではほぼ無視されているようです。

ハロウィーンが現在のような、コスプレバカ騒ぎの日になったのは、アメリカにはいってきてからです。(29)で述べたアイルランドからの大量移民が、19世紀にアメリカに持ち込み、その後徐々にアメリカで(おそらく、お菓子メーカーの謀略で?)広がり、宗教色が抜けたイベントとなりました。

原理主義とローカリゼーションの対立は、いつの時代のどの宗教にもあることですが、こんなちっちゃなアメリカの仏教にもそんな分裂があるというのは少々驚きです。

出典:サンフランシスコ仏教会、サンノゼ日系ミュージアム講演、Wikipedia、米国仏教団サイト

ベイエリアの歴史(34)- 新技術を使ったブルー・オーシャン戦略

同じカリフォルニアで、同じように差別を受けた日系移民と中国系移民が、どう違ったのか、どう同じだったのか、というのは私の大きな興味の対象です。そのいくつかの回答が、昨日のサンノゼ日系人ミュージアムでのお話や展示で、わかってきました。以前に、日系移民が農業アントレプレナーとして成功したのは、武士が指導者として混じっていたからではないか、という仮説を挙げましたが、どうやらこの仮説は間違っていたようです。カリフォルニアへの日系移民が本格化したのは、1890年から1900年頃なので、すでに明治も中期にはいり、武士階級はなくなっていました。こちらで「どういう人達がやってきたか」という点を調べたり話を聞いたりしても、いずれも「農家出身者」であるとしか出てきません。幕末でもすでに、下級武士と富農との境目ははっきりしなくなっていたので、混じってはいたでしょうが、特に「武士が率いてきた」ということではなさそうです。

その時代までの農業とは、「船による長期輸送・長期保存に耐えられる農産物、またはそのように加工した、広い市場で売れるコモディティを、大量生産できるように最適化する」というのが典型的なビジネスモデルでした。穀物がどの土地でも重要なのはこのためであり、商品作物としては、アジアの胡椒、西インド諸島やハワイの砂糖、イギリスの毛織物、米国南部やインドの綿花、日本の絹糸やお茶など、いずれもこのパターンに当てはまります。19世紀中頃にカリフォルニアでフルーツ農業が盛んになったときも、輸送は「船」から「鉄道」に代わりましたが、ドライフルーツにして販売していたので、まだこの伝統的パターンでした。

サンタクララ・バレー地域に入植した日系移民も、最初はフルーツ農家に雇われていましたが、自分たちが食べるものを作るために、半端な土地を与えられていました。ちょうど、イギリス人に虐げられたアイルランド人と同じ状況ですね。アイルランドではそこでジャガイモを作りましたが、日系移民はいろいろな野菜を作りました。半端な土地なので、形もばらばらな傾斜地であったワケですが、そこを日系人は、「棚田/段々畑」をつくる技術を活用して、うまく灌漑(英語ではcontour irrigation)を行ったそうです。不揃いな土地を耕したり、収穫物を出荷しやすく整形したりするための道具も、自分たちで工夫して作り、そのノウハウを日系人コミュニティの中で共有して、それを強みとしていました。ミュージアムでは、そんな道具がいろいろと展示されていて、説明を聞きながら私が「なるほど、オープンソース方式ですね」と言ったら、ソフトウェア会社の方が「今と逆ですね(笑」とすぐにツッコんでくださったのが秀逸でした。

こうして作った野菜を、自家消費だけでなく、外にも販売するようになり、徐々にもっと大きな土地を入手して拡大していきました。その原動力となったのが、当時の新技術「鉄道」でした。その頃には氷を積んだ冷蔵車があったようですし、農村サンノゼから、大都会サンフランシスコへ、短時間で野菜を輸送することができるようになっていたので、保存のきかない生の野菜が、初めて広い消費市場に出せるようになったのです。

サンノゼ日本町は、当初は「すでにあったチャイナタウンの近くに日本人もはいってきた」ことから始まったのですが、たまたま鉄道の駅に近く、その後別の日系入植地でも、鉄道駅近くに集中して住むようになりました。このロジスティクス革命が、ちょうどその時期にはいってきた日系人のもつエキスパティーズと合致したわけです。当時はそういうわけで、白人のプランテーションではフルーツを作っていたので、日系人が野菜を作っても競合せず、いわば「ブルー・オーシャン」戦略であったわけです。(もちろん、当時の人たちがそのように考えてやっていたわけではなく、振り返ってみるとそういうことだったんだ、というだけの話です。もともとブルー・オーシャンとはそういうモノ、だそうですが。)

日系農家の手によって、最新の「鉄道」という技術を使った、「近郊農業」という新しいビジネスモデルが出現したのです。

そうは言っても、差別による問題もその周辺にはいろいろあり、そのあたりは次回以降に書いていきます。

日系農家には、農業技術を工夫し、道具を作り、共有するという「農業経営」の技術とノウハウがあったことになります。このことは、農村出身者であっても、ある程度の教育を受けることができた、という当時の日本の状況を反映しており、まだ教育を受けられなかった中国の農民との一つの違いであったのではないかと思います。武士が直接来たわけではないですが、失業した下級武士の多くが学校の先生になったので、私の仮説も少しは合ってる、といえるかもしれません。(負け惜しみ、すいません・・)

もう一つの違いは、「お嫁さんが来た」ということです。日系農家でも、最初は中国系同様に、若い男性ばかりが来ており、白人の女性との結婚はできませんでしたが、日本からお嫁さんを連れてくる斡旋業ができ、「写真花嫁」が日本からやってくるようになりました。そのきっかけは、1907年にできた「日米紳士協定」です。当時、日本は日清・日露戦争に勝ち、先進国リーグの一角を占めるようになって、アメリカから警戒の目で見られるようになっていました。その警戒を解くべく、日本は「アメリカに新規の移民は送らない」という約束をします。ただ、このとき「女性だけは送ってもいい」という例外が設けられたので、それまで年季奉公人を送り込んでいた移民業者たちは、写真花嫁にピボットしました。写真だけのお見合いをし、実際に会ってみたら全然違っていた、という悲劇も多数ありましたが、それでも「結婚式当日に初めて会う」ということが珍しくなかった時代ですから、そのまま淡々とアメリカでの生活に落ち着いていった女性のほうが多かったようです。こうして日系移民は、アメリカで家族をもち、定着することができたワケですが、これも当時の中国と日本の本国の政治状況の違いを反映しています。

当時日系人がやっていた近郊農業での厳しい労働は、現在メキシコ系の移民が担うようになっています。ドナルド・トランプがメキシコ移民を排斥する発言をし、それを多くの人が喝采するという構図が、どうしても私には不愉快でなりません。現在の日系人コミュニティにおいて、「すでに日系人差別はないので、コミュニティとして政治的な争点はなくなったのでは?」と質問したところ、「いや、全然そんなことはない。その証拠に、今だってトランプが支持されているではないか」と若手リーダーの一人が答えてくださったのが、印象に残っています。

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(メキシコではJesus=ヘスースという名前が多い。de nadaは「どういたしまして」のスペイン語。)

出典: San Jose Japanese American Museum展示・説明、Mr. Jimi Yamaichi講演より

ベイエリアの歴史(33)- サンノゼ日本町のジミさん

ハワイに次ぐ、日系アメリカ人の政治的活躍の本拠地といえば、わがベイエリアにあるサンノゼです。サンフランシスコじゃないの?と思われるかもしれませんが、違うんです、サンノゼなのです。

成田から毎日定期便が行き来するサンノゼ空港は、正式名を「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港」といいます。ミネタ氏は、ハワイを除く米国本土初の日系市長(サンノゼ市)、その後初の日系連邦議員、クリントン政権の商務長官でアジア系初の閣僚、ブッシュ政権時には運輸長官となりました。2001年同時多発テロの際には、全米の飛行機をすべて飛行停止するという大仕事を成し遂げました。同年の秋、その功績を讃えてサンノゼ空港がミネタ空港と名付けられたのです。

そのサンノゼには、現在米国に3つしか残っていない「日本町」の一つがあります。サンフランシスコより知名度はだいぶ劣りますが、すっかり「観光地」となったサンフランシスコと比べ、サンノゼは現在でも日系アメリカ人のコミュニティ・センターとしての役割を大きく担っています。その中に、「日系アメリカ人ミュージアム」があり、今日は有志のグループで、このミュージアムのツアーと、サンノゼ日系人のコミュニティ・リーダーの方々とのランチ会が実施され、参加してきました。

ミュージアム・ツアーの最初には、収容所の経験者でもある日系2世のジミ・ヤマイチさんから、自ら体験した歴史をお話していただきました。この後、何回かにわたって(私の気が済むまで^^;)、ジミさんのお話とその他資料を合わせて、ベイエリアの日系人の歴史について書いていく予定です。

2015-10-24 Jimi

Mr. Jimi Yamaichi

日本からハワイへの移民開始から5年後、1890年に、カリフォルニアへの集団移民が開始されました。ハワイのような官約移民ではなく、当初から民間による自由移民で、民間の移民会社が仲介をしていました。

その前後の事情をもう少し詳しく見てみましょう。アメリカでは1869年に大陸横断鉄道が完成、その後も西部での鉄道建設はしばらく続きます。しかし、1882年に「中国人排斥法」が成立して、鉄道建設を主に担ってきた中国移民が入ってこなくなりました。一方、日本では1877年西南戦争の少し後の時代に当たり、農村の余剰人口が都市の製造業へと吸収されていくフェーズにはいる前の端境期でした。幕藩体制下の封建的な農村支配から近代的な農業経営に移る過渡期で、1884年頃は不況となり、貧しい地域では農家の次男以降の「口減らし」という「プッシュ要因」がありました。当時の日本の主要産品であった絹糸の輸出が急激に増えるのは、1894年からの日清戦争が終わった後になります。

中国移民は定着することができず、アメリカの中国系コミュニティは縮小を余儀なくされていたので、その代わりに、元祖ブラック企業ユニオン・パシフィック鉄道が、1891年に日系人の採用を始めます。

しかし、それよりも大きな「プル」要因だったのは、鉄道による輸送力増大により、カリフォルニアの農産物の市場が拡大して、「農業バブル」が起こったことです。サンタクララ・バレーと呼ばれるこの地域では、特にフルーツ農場が急速に発展します。

そこで、フルーツ農業労働者として、日本人を例によって「年季奉公契約」で連れてきたというわけです。さらに1898年にハワイがアメリカに併合されて、ハワイからパスポートなしで本土に入ってこられるようになりました。当時の本土の農業労働者の給料はハワイの10倍だったそうで、このためにハワイから大挙して日系人がやってきました。日本では、日清戦争と日露戦争が相次いで起こった時期にもあたり、徴兵を逃れるためにアメリカに渡ってきた人も多かったとのことです。

こうして1890年代に、徐々にカリフォルニアの日系移民コミュニティが成立していきます。

出典: Wikipedia, San Jose Japan Town - A Journey, Lecture by Mr. Jimi Yamaichi, 日本史総合図録(山川出版社)

ベイエリアの歴史(32)- ハワイ日本移民のアイリッシュ戦略

同じ日系移民でも、ハワイとカリフォルニアではいろいろと事情が異なります。前回見たように、ハワイでは日系移民の開始が、ハワイ王党派の政治的事情にかなり影響されており、その後の事情もあって、もともと少なかったハワイの人口に比べて日系人の人口比率が大きい、という点が種々の違いの根源になっています。

明治政府とハワイ王国との取り決めで実施された移民プログラムは「官約移民」と呼ばれました。ところが、これをハワイ側として取り仕切っていたのはアメリカ人のロバート・W・アーウィンという人物でした。何らかの理由で空席になった在日ハワイ王国領事になぜかアメリカ人なのに就任してしまい、井上馨など政府大物と仲良くし、三井物産会社を使って集めた移民をハワイに送り込み、その手数料を日本とハワイ両方から受け取って大儲けしておりました。要するに、超ありがちな利権商売・人身売買商売です。

中国系のケースと同じように、日本国内では「ハワイに行ったら大儲けできる」という甘言で人を集めましたが、実際にはお決まりの「年季奉公契約=事実上の奴隷」でした。当時のハワイの法律(=アメリカ人プランテーション主に有利)では、年季契約を途中で解約することができず、過酷な労働をわずかな給料で強いられました。

1894年には、アーウィンは手を引き(ハワイ王国滅亡時でもあり、アーウィンと政府または三井との契約交渉決裂との話もあり)、民間が行う「私約移民」に移行して、移民から本国への送金サービスも含めた移民サービスの民間会社がいくつも設立されて繁栄しました。

その後ハワイはアメリカに併合されてアメリカの法律が及ぶようになり、1908年には一部を除き、新たな日本からの移民はストップします。このあたりの経緯はのちほどカリフォルニアの話と一緒に書く予定です。

官民あわせ、1908年までで合計22万人が日本からハワイに移民しました。例えばアイルランドの700万人と比べれば、ぜんぜん少ない人数ではあります。しかし、もともとハワイは全体の人口が少なく、また中国からの移民は定着率が悪いなどの理由で制限された一方、日本人は定着して家族を増やしていき、移民グループの中で最大となって、最盛期の1920年には全人口のなんと43%、現在でも17%が日系人となっています。

1902年時点で、サトウキビ農場労働者の70%が日系人でした。マイノリティといえど、これだけ地域的に数が集中すれば、当時力を持ちつつあった思想、「社会主義/労働争議/階級闘争」戦略を採用することができます。農場での給料を上げるため、日系移民たちは頻繁にストライキを起こし、1920年には他国からの移民も巻き込んだ大規模なストライキに発展。給与は上がりましたが、日系人の多くが農場を去ることになり、また日系人への反感を高める結果ともなりました。

それでも、民主主義国ではやはり数が勝負。1959年にハワイが州に昇格した際、最初のハワイ選出下院議員としてダニエル・イノウエが当選して、アメリカ初のアジア系(もちろん日系としても初)国会議員となりました。その後も、1965年にパッツィー・ミンクが初の非白人女性議員、1974年ジョージ・アリヨシが初の日系州知事となるなど、ハワイは民主党日系議員の政治的活躍の本拠地となります。文化的にも、アイリッシュ=カトリックほど統一性はなかったものの、仏教をハワイに持ち込んで日本の行事や食べ物も伝えており、「日本人」のアイデンティティを軸として数を集め、労働運動を行い、政治的にも発言力を高めるという「アイリッシュ戦略」を採用してのし上がってきた、ということができます。

それにしても、19世紀後半のハワイ王国の運命を振り返ると、おそらく世界の人類の歴史上最大の激動期であったこの頃、日本で幕末に攘夷運動が盛んであったというのが無理からぬこと、と思えてきます。幕末を舞台にした時代劇を見ていると、現代から振り返って、単に「古い鎖国という枠組みを墨守しようとする頭の固い人たち」のように思えていましたが、もしもハワイのようにアメリカ人がどんどん入植して、軍隊を派遣して住民を奴隷化し、どんどん土地を取り上げてお得意の土地投機をやっていたら・・と考えると、攘夷派の立場も理解できます。そして、攘夷派との内部対立の中で開国派が理論武装し、開国後に問答無用で「富国強兵」をバリバリやったことで、日本は今のように生き残ってきたのだなー、と思います。

もちろん、現代のハワイは、アメリカの一つの州としての恩恵もたくさん受けており、何が良かったか悪かったかは一概には言えませんが。

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日系移民のサトウキビ労働者像(移民100周年時にマウイ島に建てられたもの)

出典: Wikipedia

ベイエリアの歴史(31) - 悲劇のハワイ王家と明治天皇

(9)で書いたように、1869年にカリフォルニアにやって来て「ワカマツ・ファーム」を拓いた旧会津藩士グループがいましたが、その前年ハワイにも、同様にオランダ系アメリカ人商人が率いた約150人の日本移民(「元年者」と呼ばれた)が到着しました。どちらのグループも、明治政府に認められていない立場でした。そしてその頃のハワイは独立国で、まだアメリカの一部ではありませんでした。

年季奉公契約だった元年者は一部が数年で帰国、数十人がそのままハワイに定住しましたが、その後明治政府はしばらくの間、日本からハワイへの移民を停止していました。当時の明治政府は、不平等条約改正が至上命令であり、そのために日本国の「国家ブランド」づくりに躍起でした。一方で、前回(30)に書いたような中国系アメリカ移民の惨状は情報としてはいっており、「日本国民をそんな目に合わせたくない」というか、「ハワイで日本人がこんなみっともない状態になったら、国家としての威信に関わる」というか、そんなことだったのではないかと思います。

当時は、1795年にハワイ王国を建国したカメハメハ一世(大王)の直系が途絶え、傍系のカラカウア王の治世でした。ハワイの王様は短命の人が多く、100年の歴史の間に王様が8代います。当時のハワイにはアメリカから伝統芸「土地投機」の人たちがどんどんやってきていました。土地所有という概念のなかったハワイ人を押しのけ、彼らのタロイモ畑をサトウキビのプランテーションに変えて、砂糖をアメリカに売って儲けておりました。アメリカからの入植者たちは、ハワイ人を蔑み、宗教や文化の面でもアメリカ流をがんがん推進しており、歴代の王様でも、そうしたアメリカ人を受け入れようとする人と排除しようとする人が両方あって、政策は揺れ動いていました。また日本の幕末と同じように、欧米人同士が競争で勢力拡張を図っていたので、アメリカ人入植者はなんとかハワイをアメリカに併合しようと画策します。

そんな中、比較的治世の長かったカラカウア王は、なんとかハワイの独立を守ろうと考え、アメリカのグラント大統領と会って貿易交渉を行ったり、少し前に禁止されていたフラを復活させたりしていました。とはいっても、当時のハワイの国力でアメリカと戦って勝てるはずもないため、外交的な打開策を見出すべく、アジアからインドを経てヨーロッパ各国を周り、アメリカ経由で戻るという世界一周の旅に出ます。太平洋地域の国を糾合してアメリカに対抗する、という構想をもっていた彼は、とりわけ日本に期待をもっていたようです。日本はハワイと同じように島国で、王政であり、欧米列強からのプレッシャーを受けながらも改革を実行し、独立を維持していました。

1881年に日本にやってきたカラカウア王は、日本から見ると、史上初の外国の元首の来訪でした。ドナルド・キーン著「明治天皇」では、天皇がそのとき、外交や政治の文脈を超えて、王の訪日を喜び、心から歓待していた様子が伺えます。ヨーロッパの王家どうしのコミュニティには相手にされず、国内では立場上誰に対してもなかなか打ち解けることができなかった明治天皇にとって、カラカウア王はまさに、心強い同じ立場の仲間と思えたのでしょう。

王は、上記のような「連合構想」とともに、王の姪であるカイウラニ王女(当時5歳)と、日本の皇族、東伏見宮依仁親王(当時13歳)との縁談を明治天皇に持ちかけましたが、明治政府はどちらも断ってしまいます。ただ、その際に、日本からの移民をハワイで受け入れるという点については合意され、1885年からハワイへのオフィシャルな移民が始まります。

しかし、カラカウア王とハワイ王国はその後、悲しい運命をたどります。アメリカ人入植者からのプレッシャーで、不本意な内容の憲法を受け入れさせられ、その憲法では参政権が一定以上の資産・収入のあるアメリカ人に有利であり、ハワイ人やアジア系移民は事実上排除されてしまいます。王党派とアメリカ人の板挟みの中で、かつては「メリー・モナーク(陽気な王様)」とあだ名された王はアルコール依存症となり、1891年に療養先のサンフランシスコで崩御。後を継いだのは、彼の妹リリウオカラニ女王でしたが、1893年にアメリカ人主導のクーデターが起き、女王はカラカウア王が建てたイオラニ宮殿に幽閉され、王国は滅亡します。このとき、日本は邦人保護の名目で東郷平八郎率いる海軍をハワイに派遣して、王家に味方する姿勢を見せています。

アメリカ人たちはハワイ共和国を宣言しますが、その後王党派の反乱などを経て、1898年にはアメリカに併合され準州となりました。1898年といえば、米西戦争でアメリカが落日のスペインの棺の蓋に釘を打った年で、アジアでスペインの植民地だったフィリピンをアメリカが獲得したため、太平洋の補給基地としてのハワイの重要性が高まっていたという背景もあります。

日本の皇族初の国際結婚が幻となったカイウラニ王女は、リリウオカラニ女王の王位後継者と指名されていました。ハワイ王家の女性を母に、スコットランド人を父にもつ王女は、知性が高く美貌で、国民の人気も高かったと言われます。王国滅亡のとき、アメリカ海軍の封鎖によりハワイからは誰も出られなかったため、まだ17歳だった王女が留学先のイギリスからたった一人でアメリカに渡り、クーデターの不当を当時のクリーブランド大統領に訴え、調査実行の約束を取り付けます。「島の野蛮人」だと思っていたハワイの王女が、実はとても優れた美しい女性だったことに当時のアメリカのメディアは驚いたようで、写真がたくさん残っています。

しかし、その甲斐なくハワイはアメリカに併合され、1897年にハワイに戻ったあと、1899年にカイウラニ王女は23歳の若さで病気で亡くなりました。最後の女王リリウオカラニはその後1917年まで、ハワイ人の尊敬を受けて生き延びました。リリウオカラニ女王は「アロハ・オエ」の作者として知られており、また、カイウラニ王女は2009年「プリンセス・カイウラニ」という映画になっています。

日本とハワイの間の合意で実施されていた官製移民は、ハワイ王国が滅亡した1893年で終わり、その後は民間人仲介として移民が続きましたが、これもアメリカ併合後の1900年に中止となりました。

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カイウラニ王女

出典: Wikipedia、ドナルド・キーン「明治天皇」The Princess Kaiulani Project

ベイエリアの歴史(30)- ヘルシーだったゆえに苦労した中国系移民

アイリッシュの他にも、イタリア、ギリシア、ポーランド、ユダヤなどいろいろな人々がヨーロッパからやって来ましたし、アフリカから連れてこられた奴隷もたくさんいましたが、東のほうの話にちょっと飽きてきたので、話をカリフォルニアに戻すことにします。

中国からの移民が本格的にカリフォルニアに流入しだしたのは、1850年ころのことでした。ゴールドラッシュの鉱夫として人が必要だった一方、中国では清朝末期の太平天国の乱で国土の荒廃と農民の困窮が加速していました。「金の山」の魅力につられてやってきた人たちは、目論見外れてひどい労働環境で働かされたわけですが、それでも本国の惨状よりはマシ、というお約束の移民ストーリーです。広東地方では、村を挙げて若い男子を出稼ぎに送り出し、地元に送金させました。1850年代に中国人のアメリカ移民は4万人台程度にまで達します。

ここまで見てきたヨーロッパ系移民と異なり、中国移民は最初からアメリカで法的に厳しい差別をされていました。中国人は移民一世がアメリカ市民権をとることはできず、ヨーロッパ系米国人と結婚することも土地の所有も許されず、また「非アメリカ市民の鉱夫」(=中国移民)は特別な人頭税も課されていました。当時、中国はまだ清朝の皇帝が支配する体制で、漢民族は満州風の辮髪を強制されており、契約年季があければ本国に帰るつもりの「出稼ぎ」であったために、辮髪を切ることに躊躇した人が多く、そのために見かけも一般アメリカ人から見ると「異様」でした。英語も話せず、知能の低い二級民族であるとの烙印を勝手に押されていました。1862年にカリフォルニア州知事となった鉄道王レランド・スタンフォードは、「アジアのクズどもからカリフォルニアを守らなければならない」などと演説したりしています。

しかし、大陸横断鉄道の建設が(8)で述べたような「ゲーミフィケーション」のフェーズにはいり、建設のための人手が足りなくなってきました。当時は東からはいってきたアイルランド系の移民が鉄道建設労働者に多かったのですが、それでも足りないので、現場監督が試しに中国人を雇ってみたところ、これが大成功。アイリッシュよりもはるかに効率がよい、ということに気がついてしまいました。

中国人たちは、村から送り出された若い男子ばかり。彼らは料理人を雇い、サクラメントやサンフランシスコから乾燥食品を持込み、豚や鶏を飼い、野菜や魚まで入手して、バラエティのある食生活をしていたそうです。また、お湯を沸かしてお茶を淹れるという習慣がありました。これに対し、アイリッシュたちは、ポテトとビーフしか食べず、生水と酒ばかり飲んでおり、病気やトラブルが多発していました。このため、崖から吊るされて岩を掘るといった厳しい現場の環境でも、中国人は赤痢にもかからず健康で、体格は貧弱で給料はアイリッシュより安いのに、黙々とチームワークを発揮して働く、優秀な労働者でした。

もちろん、鉄道会社にとってはこんなありがたい社畜はいません。おかげで、セントラル・パシリック鉄道の労働者の9割が中国人となり、会社は大儲けです。1868年には、アヘン戦争後の天津条約の改訂版であるバーリンゲーム条約が締結され、清から米国への移民が正式に法的に認められて、アメリカからは中国にエージェントがでかけ、中国人をリクルートして回りました。渡航のお金がない中国人は、渡航後の給料から渡航費を払うという契約で、どんどん連れてこられました。このため、1870年代には12万人以上という、移民のピークを迎えます。(そういえば、「Once upon a Time in China」というこの時代を描いた映画で、中国人を騙してアメリカに奴隷として売り飛ばすアメリカ人をジェット・リーがやっつける話がありました。)

しかし、市民権を取れないなどの法的な制約が緩和されず、なまじ優秀なためにかえって、職を奪われる白人からは攻撃され、仕方なく中国人たちは自分たちだけのコミュニティに固まって閉鎖的な生活を強いられ、ますます孤立と差別が激化していきます。米国に帰化できず、いつ国外追放されるかわからない不安定な身分が続きます。中国本国での伝統的価値観から女性は家に縛られて動けず、男性だけが渡航したのに、白人とは結婚できないため、中国人売春婦の人身売買という問題も発生します。(1890年時点でも、中国移民に占める女性の割合は5%以下でした。)中国人に対する暴力事件や差別待遇がますます激化し、1882年には「中国人排斥法」が成立し、中国からの移民の受け入れを事実上停止。その後も違法移民や例外的にはいってくる移民は続きましたが、数は10年で1-2万人のレベルまで激減しました。

アメリカに残った中国系の人たちは、鉄道完成後の農業ブームのときには農業労働者となり、また南北戦争後に奴隷解放で人手不足になった南部にも労働者としてはいっていったりしました。中国人排斥法は、第2次世界大戦でアメリカと中国が「同盟国」となった1943年に廃止されましたが、結婚などの差別は1960年代まで続きました。現在、中国系はアジア系アメリカ人の半分以上を占めますが、それでもアジア系全体でも米国人全体の5.6%にすぎません。最初からアメリカ市民権から締め出された中国系は、アイリッシュのような政治的な手段での地位向上をはかることが、第二次大戦後までできませんでした。そしてこの流れは、その後日系移民にも続いていきます。

安い給料で働く優秀な労働者という意味では、中国でiPhoneを作っている現代の人たちもアメリカ人から職を奪うとして同様に糾弾されています。アメリカ国内での中国系の地位はすっかり回復しましたが、似たような構造は現代でも残っているのですね。

出典:Wikipedia, KQED

800px-The_only_one_barred_out_cph.3b48680中国人排斥法を描いた風刺画