文化

日本がかつての「コスタ・デル・ソル」になっている件について

同年代ぐらいの方々は、かつて日本がバブルだった頃、物価の高い日本を脱出して、老後は海外に移住しようという日本政府の「シルバーコロンビア計画」をご記憶でしょう。今あらためて調べてみると、1986年のことでした。

スペインのコスタ・デル・ソルが、「日本人リタイアメント・コミュニテイ」をつくる脱出先として想定されていましたね。昔々のお話です。こんなところです。きれいなところですねー!

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たまたま、日本で数年を過ごし、最近アメリカに戻ってきたアメリカ人の友人と話していて、ふとこの件を思い出しました。彼は「東京はよかった、サンフランシスコは臭いし汚いし高いし危険だし、あっちに戻りたい」と盛んにこぼしておりました。(こちらに戻るやむをえない事情がありました)

東京が清潔で安全という話は言い慣らされていますが、「物価が安い」という点について、私も体感として、例えば「食べ物は異常においしいのに安い」とぼんやりとは思っていましたが、もともとアメリカで育った彼でさえそう思うのか、ということに少しショックを受けました。

彼は、東京23区内で、駅からは少し遠い、閑静な住宅街に一軒家を借りていました。曰く、「今、サンフランシスコに帰ってきて住む家より、東京の家のほうが広いのに安かった」のだそうです。

スペインは、かつて栄華を誇った国ですが、今は国力が衰えているので、「インフラはそこそこ整い、風光明媚だが、人件費が安くて物価が安い」という特徴がありました。あ・・あれ?これって日本?いや、ホント、そうなんです。

特にベテラン世代の間では、まだまだ日本はモノが高い、ブランド物は海外で安く買う、みたいなイメージがあると思いますが、もうそうではないのです。特にサンフランシスコは、アメリカでも群を抜いて地価が高いので特に対比が歴然としています。(もちろん、アメリカでも仕事もないような田舎はまだまだ地価は安いです)

私も、そういうわけで老後は日本に移住したいものです。コスタ・デル・ソルほど天気はよくなくて、夏に蚊が多いのが難点ですが、それでもこれまで貯めたドルを握りしめていけば、温泉にはいったり、歌舞伎を見に行ったり、神社仏閣巡りをしたり、できるんじゃないかと。

そして日本にはさらに老人が増えるという・・・

女性天皇の「論理」は「正統性」だと思う件

ちきりんさんが、「男女平等で女性天皇というのは論理破綻」という、面白い煽り記事を書いておられるので、この反語的なネタにマジレスしてみます。

結論からいうと、男女平等という「論理」ではなく、社会や環境の変化の中で、女性でも十分「天皇としての正統性を自然に感じられる」ようになってきたという話だと私は考えます。

現在の皇室典範というルールよりさらに一段上の視点から見て、そもそもなぜ皇室というものが現代の日本で存続しているのかというと、乱暴に単純化すると「みんな皇室が好きだから」ということになります。もう少し詳しく言うと、「皇室という存在が、日本という国を運営していく上で、歴史的に有用な存在だったことが暗黙の了解として共有されていて、今後も存在していたほうがいろいろと良かろうとなんとなく思っている人が大多数である」ということだと思います。

皇室がもつ役割は時代とともに変わっています。長い歴史の中で、実際に天皇が意思決定者や軍の総帥としての実権を持っていた時代はむしろ例外的で、ほとんどの時代、貴族(官僚)や将軍に正統性を付与する、超越的な象徴の役割であり、現代もそこにまた戻っていると言えます。

一時的に天皇が軍の総帥に引っ張り出された明治維新=帝国主義の時代、軍の総帥が女性であっては、帝国主義国家の体裁として弱いので、女性天皇はダメというルールができ、明治天皇は「強いリーダー」というイメージを付与されました。そして、男性の継嗣を確保するための仕組みとして、「側室」も当時としては当たり前でした。

しかし、時代は変わって現代、世界は帝国主義ではなく、天皇は軍の総帥ではなく、対外的にも国内的にも、天皇が男性でなければ日本国にとって不利という要素はほぼなくなりました。江戸時代以前、女性の天皇も存在した時代の「正統性を付与する象徴」という役割に戻った今、別に女性でも不都合はありません。「女性でも問題は特にないよね」ということなのですが、上記のようにグダグダ説明せずに簡単にコメンテーター的に言わなければならない場合、「男女平等だから」になってしまうかもしれません。

なお、サポート・システムとしての側室については、現代でそれを復活させろという意見はほぼありえないでしょう。

女性皇族がメディアにどんどん登場し、外国を訪問したり非営利団体活動をしたりなどの役割を果たす中で、女性皇族がたは皇室の主要メンバーとして広く知られ、親しまれています。女性宮家の議論の中で代替案としてよく上がる「旧皇族男性の復帰」という選択肢と比べてみると、なんだかよく知らない「旧皇族男性」よりも、女性皇族がたのほうが、私的にはずっと「正統性」を感じられます。

ここで私は「正統性」という言葉を何度か使いました。英語でいうとlegitimacy、マックス・ヴェーバーの「支配の社会学」の中で使われている用語です。支配される側の人たちが、支配者に対してなんらかの「正統性」を感じて納得しなければ、その支配は長続きしないことが多いのです。

日本でこれだけ天皇家が長く続いてきたのは、役割を変えながら、その正統性を大多数の人が支持していたからです。誰が天皇になるべきかというというルールは、さらにその上位概念である「正統性」から引き出されるものであって、一番重要な要件は、ルールそのものではなく、みんなが納得する「正統性」であると思います。そして、上記のように、現代は女性でも十分天皇としての「正統性」が担保されると思います。

ただ、「ベスト」が存在しない場合の「セカンド・ベスト」の要件が「男性である」ことなのか「より近い血脈である」ことなのかという比較になると、まだ議論が分かれるところです。

ちきりんさんの仰るように、「だれでも選挙で天皇になれる」というのは伝統型正統性に欠けるためにありえないというのはわかりますが、では例えば天皇の「娘」と「弟または甥」のどちらが正統性が高いか、ということになると微妙で、人により意見が異なります。そこがしばしば「お家騒動」のタネになってしまうので、ルールが作られるわけです。そして、今のルールは「男性である」ことを上位においていて、それが続けられる限りはそれでよいとしましょう。

ここで、十分な数の男性皇嗣候補がいるならば、ルールを変える必要はないのでしょうが、現実には今そこが大問題です。側室がありえないとすれば、選択肢としては「1.誰もいなくなったら家をたたむ」「2.女性でも天皇になれるようにルールを変える」「3.(旧皇族などから)男性の養子を迎えられるようルールを変える」などが考えられます。

どの方向に転んでも現状のルールを変えなければならないとなったら、さて、どの選択肢が皆さまはお好みですか?どれが長期的に安定したルールになりえますか?いずれ、国民の大多数が「正統性」をより強く感じられる方向に落ち着いていくでしょう。

(上の絵は、最後の女帝、後桜町天皇)

「女性活躍」界における「植木等」待望論

NHKで「植木等とのぼせもん」というドラマをやっています。私は植木等さんがシャボン玉ホリデーに出ていたのをリアルに見た世代です。懐かしいです。

ドラマでも描かれましたが、まじめな植木さんが最初「スーダラ節」を歌うのを躊躇していたのを、僧侶のお父さんが「これは親鸞上人の教えだ」と言って後押ししたという逸話があります。改めて振り返ると、あの1960年代、急速に増加した「ホワイトカラーのサラリーマン」たちは、急激に変化する時代のストレスの中で、あの歌で救われたのではないか、という気がします。

あー、そういうのでもいいのか。みんながみんな、スーパーサラリーマンじゃなくてもいいんだよな。わかっちゃいるけどやめられないんだよ。それが人間なんだよ。うん。

そうやって、完璧でない自分を誰かが肯定してくれたようで嬉しかったから、あれだけヒットしたのでしょう。

さて、最近の日本の「女性活躍推進」の中で、若い女性が不安に押し潰されているという話を読みました。

http://www.huffingtonpost.jp/2017/10/02/moyamoya-jyoshi_a_23228148/

https://newspicks.com/news/2531306

仕事も家庭も、どっちかに手を抜けばすぐに批判が飛んでくる不安にビクビクする中、どこかに現代版「植木等が歌うスーダラ節」みたいなものが出現してヒットして、不安を笑い飛ばして、完璧でない彼女らを肯定する風潮になればいいのに、と思います。

昭和のサラリーマンのように、二日酔いでも会社に行っていれば、なんとなく給料もらえて、人より早くなくてもいずれはなんとなく係長や課長にズルっとなっていく、という世界でないことは承知しています。そりゃ、今は大変です。でも、別の部分であの頃より今のほうがよいところも多いはず。なんたって、ネットと携帯がある。情報は武器。本当にありがたい世の中ですわ。

私は、大学の同窓生女性のフォーラムに関わっています。参加者は皆それぞれ、目指すところは違うのですが、私としては、その活動を通して、「スーパーウーマンか、専業主婦か」の二択ではなく、無理ないペースでやっていき、トップでなくてもなんとなく係長とか課長ぐらいにズルっとなる女性がたーくさんいる、という日本を目指すのがよいと思っています。そこがボリュームゾーンなので。

人間誰しも弱いものです。わかっちゃいるけど全部完璧になどできません。マミートラックでもパートでも、なんでもいい。人よりゆっくりでもいい。人生は長い。楽しく生きよう。

(私自身が、自営という名の自前マミートラックに自らを置いたなぁ、と最近つくづく思うので、上記のように思って、自らを慰めております。)

・・と私が叫んでも全く影響がないので、どなたか植木等並みにインパクトのある形で、やってくれませんかねぇ・・?

【ナンデモ歴史56】イケオバたちの悪だくみ - メディアにおける「女性の老い」

引き続き大河ドラマ「直虎」について論じます。(シツコイ)

昨年の「真田丸」の萌えポイントの一つに、「イケオジたちの悪だくみ」があります。若いもんがマジメやっている陰で、悪いイケメンオヤジたちが悪そうにニヤニヤしながらなにやら企んでいるところが、たまりませんでした。草刈正雄さんの真田昌幸はご存知の大人気ですが、私的には近藤正臣さんの本多正信の寝たふりなども大好きでした。

今年の直虎は、信玄や信長のような、有名どころの悪いオヤジたちが「記号」としてシンプルに扱われている一方、怖カッコイイ「悪いイケジョオバサン」が、ブキミな存在感を発して活躍します。特に浅丘ルリ子さんの寿桂尼が凄くて、病身なのに自ら信玄に会いに行くなど奔走し、それをこれまでの時代劇にありがちな「滅私奉公」的な美談ではなく、「こうすれば哀れを誘って相手の譲歩を引き出せる」という謀としてやっている、というところがめっちゃ魅力的で、怖大好きでした。

先週登場の栗原小巻さんの於大の方がこれまたブキミで、楽しみにしています。山岡荘八「徳川家康」の於大の方は、まさに慎み深く滅私奉公な、昔風理想の女性の「記号」として描かれていて「ナンジャーコリャー、ケッ」と思っていたので、今回悪いイケオバとして描かれるのがとても嬉しいです。

考えてみれば、悪いイケオジというのは、日本のドラマでときどき登場するおなじみキャラでありますが、悪いイケオバというのはあまり思いつきません。年配の女性の描かれかたは、そういえば比較的画一的であり、「優しい/厳しい/健気な母/おばあさん」か、独身/子無しの場合は「頑張ってきたけど哀愁」的なパターンが多いような気がします。

一方、先日「20-30代の働く女性が、自分は老けたなと思うことが多い」という記事がありました。その背景として、現代の女性にとって「老いることはひたすら価値がなくなること、悪いこと、嫌なこと、怖いこと、避けたいこと」という刷り込みがあるように思います。だから、人から老けたと言わたくないので自虐にしてしまうとか、相手に「いや、そんなことないよ」と言ってもらいたいとか、無意識な「予防線」を張っていると思えてしまいます。

こうしたメディアの「決めつけパターン」の一つが、上記のような「年配女性キャラの画一化」であります。たとえ「美しく老いる」と言っているつもりが、その表現型は「美魔女」礼賛という、「見かけは老いない」という貧困な発想に行ってしまいます。(というか、そのための美容商品を売りたいという一面もあり。)

ですから、「直虎」における「魅力的な悪いイケオバ」はとても新鮮です。「自分がヨレヨレのバーサマであることに価値がある」と位置づける、その発想はなかったです。それは悲壮な決意でもあるのですが、したたかな逆転の発想とも言えます。

私自身は、老いることに逆らっても無駄なので、そこに抵抗するという無駄なエネルギーは使わない主義です。年齢を聞かれればさらっと答えるし、体力・気力の衰えを感じても、「あー自分はダメだ、もっと頑張らねば」と価値判断をせず無理をせず、便利な道具に頼り人に仕事を押し付けてサボります。それなりのスキンケアもエクセサイズもしますが、そうすれば自分が気持ちいいからであって、他人に若く見られたいからではありません。

でも、受け入れたその先に、何らかの魅力的な「モデル」があったわけではありません。

「老いに価値がある」という新しいロールモデルは、ホントいいですね。未来に明るい光が射してきます。

昨年大ヒットした「逃げ恥」でも、ゆりちゃんの「年齢を重ねることをバカにするのは、未来の自分を貶めること、自分に呪いをかけること」というセリフが有名になりました。より多様で魅力的な「オバサン」の姿がメディアで描かれるようになったのはとても嬉しいです。

女性が主人公の大河では、子供時代が「お転婆で天真爛漫」というステレオタイプが多く、今年も最初のうちはそうだったので「はいはい、ジブリジブリ」と辟易していたのですが、年をとるにつれて、面白くなってきました。前回、南渓和尚が「自分がこの道を選ばせた」と気づいたように、直虎は、自分で選んだといいながらも、実はなりゆきや人の意見に影響されて選んだ気になっていて、何をやりたいのかという本当の自我の軸がなかったように思います。このあたりもとてもうまいストーリーテリングだと思います。私も自分の過去を振り返ると、実はかなりの部分、周囲に流されたり人の目を基準にしたり、いろいろ言い訳して、自分のキャリアを選んできたと、最近気が付きました。それは良いことか悪いことかの価値判断は、敢えてせず、事実としてそうだったと受け入れようと努力しています。直虎も、ワンパターンな「男勝りの女傑」ではなく、等身大の「ヘタレキャリアウーマン」です。

そんなヘタレが、このあと自我に覚醒し、立派な「悪いイケオバ」となり、イケメン直政(史実でもイケメンで、それをけっこう武器にしてのしあがったらしい)をコントロールする悪だくみをめぐらす姿をぜひ見たいものです。(いや、そうなるかどうかは知りませんが。)

そして不肖私も、今後は悪いイケオバ(顔がイケてるかどうかはキニシナイ)をめざして、ますます精進したい所存であります。

「死ぬ気」でやってるヒラリーと普通のオバサンの役割

単なる感想の回です。昨日の大統領ディベートを見終わって、いろいろ考えました。

ヒラリー・クリントンは「健康不安」と言われていますが、実際に病気を持っているいないにかかわらず、68歳です。(トランプはもっと年寄りですが。)私よりも一回りも上です。私はヒラリーに比べればずっと楽ちんな仕事ですが、それでも更年期の時期を過ぎて、がくっと体力が落ちました。同年代の多くの女性よりは体力的に恵まれていると思うし、ずっとスポーツをやってきているし、まさか私が・・と思っていたのに、最近は骨粗鬆症の一歩手前で足の甲を骨折したり、ムリをして疲労のあまり階段から落ちて数週間寝たきりになったりしています。

どんなに健康に気をつけ、いろんなことをヘルプする人が周囲にいたとしても、あんなに厳しい選挙戦を戦っているヒラリーは体力的にはとてもシンドいのではないかと思ってしまいます。今後、アメリカの大統領は世界一の激務で、どの大統領も任期中にボロボロに老化します。本当に、ヒラリーは「死んでも仕方ない」という覚悟でやっているような気がします。

ずっと法律と政治の世界で努力を重ねてきて、子供を育て、たぶんその間はいろんなことを諦めながら、チャンスを伺い、選挙に出て一度は失敗し、さらに巻き返し、そしてようやく巡ってきた最大のチャンスです。彼女自身のメリットは、いまさらお金のためや名誉のためではないでしょう。選挙に出たり、実際に大統領になれば、黙って静かにしていれば決して起こらないいろんなバッシングにさらされます。それでも、やろうという根性は、ある意味では「野心」なのでしょうけれど、いろんなモノを背負って、たとえ死んでも今やらねばならない、という使命感があるのではないかと。(そして、思いつきのぽっと出のトランプごときにこんな目に合わされるのは本当に理不尽と思っていることでしょう。)自分と比べて、ついそんなことを思ってしまいました。

私はといえば、別に何事も成し遂げていないただのオバサンです。昔は、スーパーウーマンに少しでも近づこうと努力しました。それで多少は前進できましたが、まぁせいぜいこんなところです。それでも、56歳のこのトシまで、子供にも恵まれながら、ずっと仕事をして経験を積み重ねてくることができました。私よりも年上のワーキング・ウーマンは、少なくとも身の回りにあまり多くありません。かつて、このトシで働いている方はごく少数の「スーパーウーマン」でした。超絶的な才能や運や体力に恵まれていたり、お金持ちで家庭の管理を人に任せることができたり、子供をもたなかったり。そうではなく、自分で家事も育児もやるミドルクラスの普通の女性が、このトシまで仕事して経験を積む、という例は、日本でもアメリカでも、過去にはあまり多くないと思います。私達が、第一世代ぐらいかもしれません。

歴史に残る業績はヒラリーにまかせて、私は普通のオバサンとして、何かあったとしてもどうせ大したことない「最後の業績」を無理して追い求めるよりも、この後に続く世代の女性たちが「死ぬ思い」をしなくても普通にコツコツと仕事を続けていくモデルになるほうがいいのかもしれない、と思うようになっています。もう階段から落ちないよう、慢性病にもならないよう、あまりムリをせずひどいボロボロにならない程度に、コツコツとやっていこうかと思います。

一橋大での悲しい事件、問題は3段階ある

わが母校一橋大学において、ゲイの学生が、好きだと告白した相手が当人ゲイであることをバラされたことで自殺した、という悲しい事件がありました。

私にとって一橋大は、リベラルな雰囲気の居心地の良いところで、今私が住んでいる北カリフォルニアのように、LGBTなどに対してもダイバーシティ受け入れが進んでいるように勝手な印象を持っていたので、このような事件が起きたことが信じられません。それでも、起こってしまったことは事実であり、とても悲しく思います。

この事件へのコメントを見ていると、3つの段階の話が混じっているのですが、これは分けて考えたほうがよいでしょう。

(1)LGBTそのものに対する考え方・感じ方: LGBTに対して「キモイ」という反応をするのは悲しいことですが、今の世の中ではそう思ってしまう人が大多数です。これはこれとして戦っていかなければなりませんが、長い時間のあいだにこれが浸透しているいることを考えると、「キモイ」と思った学生の反応を一概に責められないとも思いますし、この風潮を変えるには長い時間がかかるでしょう。

(2)LGBTを「ネタ扱い」する風潮: ただ、こうした個人的な反応を「LINEでバラす」という行為は、LGBTをタブー視する文化背景とは別に、それを「ネタ扱いしてもOK」という、メディアで作られた空気に押されたのではないかと思います。LGBTに対してどう思うか、感じるかは個人の自由ですので、「自分にはとても受け入れられない」と思ってもよいのですが、それを「バラす」という行為は、社会的に許されないことである、という規範を作り、これをメディアなどでも推奨するべきと思います。昔は横行していた「セクハラ」が、現在でははっきりと「許されないこと」という規範となってきたのと同じことです。別な言い方をすれば、LGBTの「ネタ扱い」も、広い意味での「セクハラ」の一つと言えると思います。一般的なセクハラよりも、「タブー視」の度合いが強いLGBTでは、同じ「告られたことをバラして嘲笑する」ということであっても、男女間で起こる場合よりもダメージが大きいことは重視すべきです。

(3)大学当局の対応、専門家の対応: もう一つは、このゲイの学生があちこちに相談していたのに、結局最悪結果となってしまったことです。大学の対応がずれていたこともそうですが、専門家にも相談していたのに・・というのが悲しいです。大学当局の理解を進め、必要に応じて事情をよく知っている専門家と連携することと同時に、専門家自身も、このようなケースへの対応でなんとかもっと効果的な方法をマジメに考える、ということも必要なのかもしれません。

卒業生として、まずは大学関係者および卒業生の皆様、特に目の前の課題として、(2)と(3)について多くの方に知っていただきたく、私のご意見として申し上げたいと思います。

【ベイエリアの歴史43】ジャニス・ジョプリンのいたサンフランシスコ

さて、その1960年代のサンフランシスコといえば、ヒッピーの聖地でありました。

私はイーグルマニアではありましたが、60年代の音楽はリアルタイムでは体験しておらず、ジャニス・ジョプリンといっても、(1)名前の響きがやたらかっこいい、(2)ヒッピーとかウッドストックとかそのへん、(3)ドラッグで若死にした、という3点しか私的には認識しておりませんでした。ウッドストック(ニューヨーク北部)のイメージが強いので、東海岸にいたのかと思っていたところ、実はばりばりのサンフランシスコ音楽でした。

というのがわかったのは、ネットフリックスで「History of the Eagles」を先日見たために、今度は「Janice: Little Girl Blue」というドキュメンタリー映画がオススメされて、これを見たためです。

ジャニスはテキサスの生まれですが、変わり者で、地味な顔立ちで、今で言う「コミュ障非モテ」であり、学校では「ブス」や「ブタ」などと言われてひどくいじめられました。テキサスの大学を離れてサンフランシスコに流れてきて、そこで初めて自分が暖かく歓迎される「居場所」を発見しました。

50年代、すでに「ビート」「ビートニク」などと呼ばれる、前衛的な詩・文学の潮流が勃興していたサンフランシスコのコミュニティでは、超越的な体験を得る実験として、種々のドラッグが使われていました。ジャニスはそのコミュニティの中で、ドラッグで体をこわしてテキサスにいったん戻ったり、婚約者に裏切られたり、故郷ではまたいじめられたりして、さんざんに傷ついて、音楽をやりながら、1965年にまたサンフランシスコに舞い戻ります。そこで、ジャニスはBig Brother and the Holding Companyというサイケデリック・ロックのバンドのリーダーに気に入られ、リードヴォーカリストとして参加します。このあたりは、現在のシリコンバレーで、なんとなくコミュニティができて人のつながりでベンチャーができ、コミュニティの中でそれを育てていく感覚と似ています。

60年代後半、思想的には「ビート」の流れを汲むカウンターカルチャーが、より派手なスタイルの「サイケデリック」カルチャーとなり、「サンフランシスコ・サウンド」とよばれるサイケデリック・ロックが誕生しました。今のサンフランシスコ日本町の西南端から通りを隔てたあたりにあった「Fillmore West」などのライブハウスを舞台に、ジェファーソン・エアプレーンやジャニスが加入したビッグ・ブラザーなど、ちょっと離れたパロアルトでは、グレイトフルデッドも頭角を現しました。特に、今ではもっぱら水族館で有名なモンテレイで1967年に開催されたMonterey Pop Festivalが、ジャニスにとっての大ブレークスルーとなりました。

彼らは、すでにヒッピーの聖地として有名になりつつあった「ヘイト・アシュベリー」、つまりHaight StreetとAshbury Streetの交わるあたりに住みました。当時まだ合法だったLSDがふんだんにありましたが、ジャニスはドラッグの誘惑と常に戦っていました。

ビッグ・ブラザーは、モンテレイの後、急速に全国的に売れましたが、その注目はもっぱら、ブルージーでパワフルなヴォーカリストであるジャニスに集まりました。「バックバンド」扱いにむくれたバンドのメンバーとの間で不協和音が起こり、1968年には追い出されて独立。1969年のウッドストック・フェスティバルでは、自分のバンドをバックにして出演しました。

ドキュメンタリーでは、この頃のジャニスについて、「舞台でパフォームし、大観衆の喝采を浴びているときだけが、気分が高揚して安心していられる時間であり、いったん舞台から降りて一人の時間になると、耐えられないほどの孤独と不安に苛まれていた」と描写しています。婚約者に裏切られたあと、安定して彼女を支える人とはついに出会うことができず、男女両方でいろいろなパートナーに依存しては離れる不安定な関係が続きました。そして、ついにドラッグとの戦いに負けてしまいました。

ジャニスは1970年10月、ハリウッドでレコーディング中に、ひとりぼっちでホテルの部屋で、オーバードーズのために亡くなりました。ジャニスの最大のヒット曲である「Me And Bobby Mcgee」は、彼女の死後に発表されました。まだ27歳、メジャーな活躍期間はわずか3年間しかありませんでした。

ヒッピーについては、また別の機会にもう少し書きたいと思っていますが、そういうわけで、当時のサンフランシスコは、そんな若いヒッピー達が住み着けるほど、チープなアパートがあったんだなー、などと思わず感心してしまいます。

【ベイエリアの歴史42】都市回帰のゆくえ、日本では?

日本では都知事選の関係で、「東京一極集中」vs. 「地方分散」の議論がネット上で飛び交っているようです。一方で、アメリカでは「都市回帰」が時代の流れになってきているな、という体感があります。

アメリカはもともと、土地が広くて人が分散している、というイメージが強いと思います。また、州の権限が強く「地方分権」の傾向も強くあります。ただ、それでも「都市」から「郊外」への分散というここ数十年の傾向は、そういったアメリカの「もともと持っている性質」とは違う力学が働いていると思います。

ひとことで言えば、1950-60年代の「モータリゼーション」です。当時、行政によるハイウェイの整備が進んだことと、石油メジャーによる石油/ガソリンの供給が増え、自動車産業がフル回転だったことの政治的関連は、よく知りませんが、まぁ間違いなくあったでしょう。この流れに乗って、大型トラックによる輸送の物流が中心となって、大企業が大量生産した食料や消費財が、郊外型の大型スーパーで大量販売され、ドライブスルーのファストフードが爆発的に増え、テレビでマス広告されるようになりました。人々は自動車を保有し、郊外の広い家に住んで自動車で通勤したり買い物するようになりました。

その結果、自動車を持てる中流以上の家庭と、持てない低所得家庭の間で、はっきりとした階級ができました。

例えばニューヨークでは、中心街のマンハッタンはビジネス街、そのすぐ外側で地下鉄で行き来できるハーレム、ブロンクス、クイーンズなどは低所得地域、ウォール街のプロフェッショナルなどは、さらに遠くの、自動車や料金の高い中距離鉄道でしか通勤できない、ウェストチェスター郡やコネチカットなどに住むのが普通です。(少なくとも、私が住んでいた90年代はそうでしたが、今はどうでしょうか?)

サンフランシスコでは、60年代公民権運動の時代に、「busing(バシング、バスで輸送する)」という、貧困地区の子供が富裕地区のレベルのよい公立学校に、スクールバスで通えるという仕組みを作りました。その結果、お金持ちが公立学校から逃げて学校全体が荒廃し、よほどのお金持ちなら市内の私立という選択肢もありますが、そこまでいかない中流家庭は郊外に逃げ出すことになってしまいました。

全米的にも、「都市内部(inner city)」というのは、「貧困地区」の代名詞となりました。

最近、いろいろなアメリカのシステムに歪みが出ているのは、こうした現在のエコシステムの大前提になっている「石油+モータリゼーション」というエンジンが、1970年代以降長期にわたって弱体化しているからです。一方で、90年代のネットバブルの時代に、シリコンバレーとウォール街に富が急速に蓄積し、その富を「都市」に投資して、荒廃したところをいろいろな手法で改造して美しくする「ジェントリフィケーション」が進行したり、環境対策や中東から輸入する石油に依存しなくてよいようにしようという米国政府の方針などもあり、特にわが地元のサンフランシスコでは「都市回帰」の傾向が顕著です。

少し前のブログに書いたように、列車・公共交通機関への注目が回復しているのも、その流れのひとつです。会社はシリコンバレーにあっても、住むのはサンフランシスコで、列車で通勤するというわけです。列車の駅の周辺は、以前はスラム街状態でしたが、最近は駅を改装し周辺に映画館やレストラン街を整備したオサレな「駅前繁華街」の建設が次々と行われ、いずれも大盛況です。私がシリコンバレーに引っ越してきたのが1999年で、その頃は子供を高速沿いのシネプレックスにアニメ映画を見に連れていきましたが、数年前にそこが廃止されて市内駅前の映画館に行くようになりました。今やリモートワークも普通にできるので、住む場所の選択肢も以前と比べてずっとフレキシブルになりました。

日本では、アメリカよりもやや遅れてモータリゼーションが起こりました。列島改造論は1970年代で、すぐに石油危機が来てしまい、列車の開発もその後も進んだので、アメリカほどのクルマ社会にはなりませんでした。それでも、あまりに東京になんでも集中しているために、今の都知事選候補の一人のように「地方分散」をポリシーとする人も多く、票田として大事なために「地方創生」なども行われています。

しかし、日本でも米国でも、もはや第一次産業に従事する人はごく少数しかいなくなり、「農地」に人を貼り付けていた時代のような人口の地方拡散はすでに不合理です。といっても、東京一極集中では産業のダイバーシティが実現しづらいので、私はいくつかの中核都市に異なる産業がそれぞれ群雄割拠しながら集中する「あちこち数極集中」が理想だと思っています。

サンフランシスコのジェントリフィケーションや都市回帰は、一方で以前から都市に住んでいた低所得住民が住むところを失うという摩擦も引き起こしており、このため住民がグーグルの通勤バスを妨害する騒ぎとなっています。何にせよ、すべてうまくいく話などないのですが、アメリカも日本も1950-70年代にできたインフラがそろそろ半世紀を経て老朽化する中、今のうちに都市にヘビーに投資する必要があると思っています。

【ベイエリアの歴史41】ホテル北カリフォルニア

少し前に、スーパーのレジでローリングストーン誌「イーグルス特別号」を見つけて衝動買いして以来、イーグルス祭りのマイブームがまだ継続中です。

広告がひとつもはいっていないこのムックを裏表紙まで舐めるように読みつくし、2013年のテレビ・ミニシリーズ「History of the Eagles」をネットフリックスでビンジウォッチ、2009年刊のドン・フェルダー著「Heaven and Hell:  My Life in the Eagles」をオーディオブックで読破、過去のアルバムを聴きまくり、数多のインタビューやミュージックビデオをYouTubeで拾いまくり、といった具合に、1970年代には到底不可能だった、多様で深い情報を消費してくると、日本の田舎のティーンだった私には想像もつかなかった、当時の彼らの生活とロサンゼルスの「繁栄と頽廃」の様子が浮かび上がってきます。

前回の【歴史】シリーズに書いたように、アメリカ社会の枠組みは1980年代から大きく変わりますが、70年代はその序曲ともいえる時期でした。ウォーターゲート事件、ベトナム戦争敗北、そして1973年の第一次と1979年の第二次石油危機によって、それまでの「石油と自動車と大量消費」というエコシステムでどんどん高度成長していたアメリカ経済に急ブレーキがかかりました。当時日本にいた私には、イーグルスやディスコ音楽など、「楽しい」部分しか見えていませんでしたが、「現場」では、暗い雲がかかってきた未来から目を背けるため、その前に完成した仕組みと蓄積した富をつかって、ドラッグと金ピカ消費に突っ込んでいた時代だったのだ、と改めて思います。

例えば、「ホテル・カリフォルニア」のあの忘れられないギター・リフをつくったドン・フェルダーですが、この手記によると、幼少期、父親は機械工場で真っ黒になって奴隷のように働いてもたいした給料がもらえず、家族は非常に貧しく、その暮らしから抜け出すために、兄は弁護士となり、弟であるドンはミュージシャンとして成功したのだそうです。今から振り返ってみれば、彼の生まれ育った50-60年代は、こうした「アメリカン・ドリーム」成功譚が日常的に可能な時代でしたが、彼の成功が頂点に達した70年代以降、その夢が徐々に失われていきます。

アルバム「ホテル・カリフォルニア」の楽曲を、英語がだいぶわかるようになった現在、改めて聴いていくと、「太陽が海の向こうに沈んでいく」ような、詩人ドン・ヘンリーの手による言葉の風景が次々と目に浮かんできます。彼らはそんな南カリフォルニアの生活と文化を、揶揄と憧憬と諦観が入り混じった表現で歌っています。

アメリカは、そんな「終わりの始まり」の時代を、完成度の高い音楽に定着し、世界的なポップ文化の金字塔として残すことができて、ラッキーだったと思います。この時期のロサンゼルスの繁栄と頽廃は、文化的にも歴史的にも、日本のバブル期と似ていると思うのですが、日本のほうは残念ながらイーグルスに匹敵する「作品」として結実したものは私には思いつきません。

さて、南で「ホテル・カリフォルニア」が発表された1976年、まだまだヒッピー文化が色濃く残っていた北カリフォルニアでは、アップル・コンピューターが創業しました。歴史的には、南より北のほうが、早く都市が形成されたのですが、産業の興亡においては、現在に至る「北」の繁栄はもっと最近の事象です。

時代的にいうと、90年代の「ネットバブル」がひとつのエポックでしたが、現在までも、景気循環を繰り返しながら、だんだんと「繁栄と頽廃」のサイクルが盛り上がっているような気がしています。かつてのような「ドラッグと金ピカ」の替りに、高いお値段のモダン風の家で「ケールとキノーラ」を食べながら、ベンチャーキャピタル用語を駆使してネットワークし、いい大学に入れるために子供をアフリカでボランティアさせ、野生動物を保護する非営利団体のパーティに盛装して出かけて・・といった、シリコンバレーの「ヒップスター」文化は、ますます勢いを増し、そのサークルの外側にいる人達との軋轢はますますひどくなりつつあります。しかし、この地に20年以上住んで、ヒップスター的なものに憧憬をもってきた自分自身も、(ライフスタイルはお金が足りないのでそこまでできませんが)この価値観にどっぷり漬かって、容易にぬけ出すことはできない、と感じています。

「Throwing rocks at the Google bus」という本を、今、読み始めています。この現象を「頽廃」と呼ぶべきかどうかはなんとも言えませんが、新しい豪華なオフィスビルの入り口に佇んで、「You can check out any time, but you can never leave」という謎めいた歌詞と、「ホテル北カリフォルニア」ということばが、ふと浮かんできたのでした。

ベイエリアの歴史(21) – マイクロウェーブ・バレーの軍事技術

ドイツのレーダーの恐怖とブルーベリー伝説 さて次はいよいよショックレー・・と思った方、ザンネンでした。昨日の記事に関連する情報をいただき、面白かったので、ちょっと時間を前に戻して書いてみます。

第二次世界大戦前後、「シリコンバレー」となる前のベイエリアで、技術開発を支えたのは軍需産業であった、ということはお話しましたが、これまで私の読んだ資料の中には、その「軍事技術」についてあまり詳しく書いたものがなく、よくわかりませんでした。そのあたりには、どうやらこんな話があったようです。

アメリカは日本の攻撃を受けて1941年に第二次世界大戦に参戦しましたが、欧州ではその2年前からドイツが周辺諸国に侵攻して、イギリスがこれと戦っていました。しかしその2年の間、イギリスは欧州大陸に上陸することができずにいました。そこで、イギリスは新たに参戦したアメリカと相談して、太平洋よりも欧州戦線をまず優先し、空爆することを決定しました。(まー、だから緒戦は日本が勝てた、というわけなんでしょうね・・・)

イギリスは夜間に絨毯爆撃、アメリカは昼間にピンポイント爆撃、という分担でやろうということになりましたが、その攻撃はドイツの強力な早期警戒レーダーの網に阻まれてしまいます。ドイツでは、占領下のフランス・ベルギー・オランダから北ドイツにかけて、レーダーと地対空砲を緻密に設置し、イギリス・北海方面から飛来する米英の戦闘機を検知して撃墜していました。ヨーロッパの北部では、曇って視界の悪い日が多く、飛行機にとっては圧倒的に不利でした。

このため、両軍合わせて4万機の飛行機が撃墜され、両軍それぞれ8万人近い兵士が死傷または捕虜となりました。

連合軍側は、これに対抗するための空対地レーダーを開発し、1943年から飛行機に搭載されるようになります。しかし、それでも飛行機による爆撃は危険なミッションで、一回の攻撃で4~20%のパイロットが失われました。そして、パイロット一人につき従軍中25回出撃していたので、パイロットが生還できる確率は非常に低かったのです。

なお全くの余談ですが、このときイギリスでは、空対地レーダーの存在を隠すために、「我が軍には夜でも目がよく見える兵士が多いから、夜間でも正確に爆撃できるのだ、なぜならイギリスではブルーベリーをたくさん食べるのであるが、このブルーベリーが目に良いからである」というデマを流しました。そのデマが、現在に至るも「ブルーベリーは目によい」という都市伝説となっている、という話を読んだことがあります。

 

アルミホイルの雨が降る

パイロットの生還率を高めるためには、ドイツ軍のレーダー・システムを解析し、これを撹乱する仕組みがどうしても必要となりました。そこで、ハーバード大に秘密の無線研究所、Harvard Research Lab (RRL)が設立されたのです。MIT Radiation Labを分離した800人の組織で、そのトップとして招かれたのが、前回登場したスタンフォード大のフレデリック・ターマン教授でした。ターマンは学部はスタンフォードでしたが、大学院はMITというつながりがありました。

RRLでは、スパイ飛行機をドイツに飛ばして無線を傍受して解析し、レーダー妨害機を開発して連合軍の飛行機に搭載しました。また、ドイツのレーダー撹乱のために「アルミホイル」(そう、料理に使うアレ)の厚みがちょうどよいとの研究結果により、レーダー範囲に飛ばした飛行機から兵士が素手でアルミホイルをばらまくという作戦も1943年から行われました。日本ではお寺の鐘などを供出していた頃、アメリカでは全米のアルミホイルの3/4がこの作戦のためにかき集められたそうです。

そういうわけで無線の研究は軍事目的のためにとても重要で、軍の研究予算がMITやハーバードには1億ドルとか3000万ドルとかの単位で拠出されていたのに、スタンフォードにはなんと5万ドルぽっきりでした。この頃、いかにスタンフォードの存在が小さかったかがよくわかります。「なにくそっ、いつの日か、スタンフォードをMITやハーバードと肩を並べる大学にしてやるぞっ!」と、ターマン教授が夜空を見上げて、拳を固めて涙ぐんでいる図が思わず頭に浮かんでしまいます。

その志を胸に、戦後スタンフォードに戻ったターマン教授は、次の戦争に向けた軍事研究に備え、前回書いたような大学改革に着手し、自分の人脈を使って無線の研究者をゲットしていきます。1950年には朝鮮戦争が起こり、それを機にスタンフォードは初めて、本格的な官学共同研究パートナーとなります。引き続く冷戦では、ソ連の「核の真珠湾」を防ぐための防衛システムが重要となり、スタンフォードはNSA、CIA、海軍、空軍の研究パートナーの中心的役割を果たすことになり、軍の予算も飛躍的に増加します。

こうした流れのため、この時期のスタンフォードの軍事研究は、主にレーダー・無線の技術、そしてそれに伴う電子工学の基礎研究でありました。その研究成果をもとに、ヴァリアン・アソシエーツやロッキードが軍事機器を製造しており、近くて便利なスタンフォード・インダストリー・パークに入居したというわけだったのです。というわけで、50年代あたりには、この辺一帯はシリコンバレーではなく、「マイクロウェーブ・バレー」であったのだそうです。

<続く>

出典: GIGAZINE